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第2話
国王の地方視察がこんな僻地にまで来るとわかり、街はにわかに活気付いている。
メアリルは耳を隠すため、フードを被る。尾も出ないように緩やかな服を着て、余裕を持たせる。
(赤い目は紛れたらわからないよね?)
先の国王が一年前に亡くなり、跡を王太子であったラインハルトが継いだ。
喪が明けると、ラインハルトは様々な改革に乗り出し、貧民救済や宮廷の腐敗切除を掲げ、国政に邁進しているらしい、と聞いている。
詳しくわからないのは、ここがあまりにも王都から離れすぎているからだ。
メアリルが王都を追放されて、十年が経っている。二十一歳となり、成人を一つ越えた。
ラインハルトは二十二歳で、一つ年上だ。
こんなところで燻っているメアリルと違い、ラインハルトは国内外から若き国王として、期待の声が上がっており、国民からの人気も高い。将来も有望視されていた。
「来たわよ! 国王陛下万歳!」
「エスターライヒの厳格王!」
沿道に集まった群衆がにわかに騒ぎ出す。みんな狼の絵があしらわれた国旗を振り、馬上の国王を歓迎した。
騒ぎ立てる群衆にもみくちゃにされながらも、メアリルはしっかりと見上げる。
(ひとめだけ、それだけで良いから……)
メアリルが惹かれながらも、拒絶してしまった少年は現国王のラインハルトだ。出会った当時は王太子で、病死した兄の代わりに立太子されたばかりだったという。
昔の自分はどれだけのんびりしていたのだろう、と考えると、本当に嫌になる。
ラインハルトの兄である元王太子が亡くなり、第二王子のラインハルトが立太子されたことは知っていたし、いつも上等な服を着ていたこと等々、あの少年の正体に気がつくことのできるヒントはあったのだ。
いかんせん、あの時は花や植物の栽培以外に興味を持てなかった。神官たちの噂も聞き流してしまっていたし、宮廷の行事も成人ではないから、と言われ、ほとんど参加していなかった。
だが何よりも、自分の発情期に巻き込んでしまったことは、本当に申し訳ないと思っている。彼に好意は抱いていたものの、決して、誘惑しようなんて考えていなかった。
けれどもそういうことで良いと思っている。ラインハルトもメアリルなんかに二度と会いたくないだろう。遠くでラインハルトの活躍を聞けるだけで良いのだ。
こうやって、ラインハルトを慕う民の一人として、国の隅で生きていければそれで幸せだ。
沿道には様々な香りが飛び交っている。香水、料理、土埃、馬、染料。人混みに紛れるほど、嗅覚に優れる白狼一族いえども、誰かの香りを特定はしにくい。
そのはずなのに、懐かしい香りがして、メアリルは鼻をくん、と鳴らした。
その香りに誘われ、惚けたように上を向く。
ラインハルトだ。まだ北側におり、ゆっくりと南の公道へと進んでいる。
十年ぶりに見るラインハルトは、最低限の装飾しかつけていない黒い馬に乗っている。彼は国王にしては地味な黒色の軍服を着ていた。
黒髪は短く刈り込まれている。あの時と同じ黒い瞳は真っ直ぐ前を見据えており、通った鼻筋や、太い眉は暗に彼の意志の強さを物語っているようで、メアリルは高揚した。
雑音が消え、様々な音が遠くなる。生命力に溢れ、以前よりも野生味の増した彼の香りが鼻腔をくすぐった。
もうすぐ彼はメアリルの真横を通るだろう。
メアリルは遠くにいる彼から目を離せないでいる。
(お変わりになられていない……)
馬上で、往来の真ん中を歩く彼と群衆に紛れているメアリルとの距離は離れている。
二人の距離が一番近くなった時、今までずっと前を見据えていたはずのラインハルトが突然、群衆に目を向け、視線でメアリルを捉えた。
(あ、これは……!)
顔が熱くなる。身体が動かず、思わず硬直した。
じわじわと腹の底の熱が身体を支配していくのを感じ、メアリルは人の流れに逆らい、その場から逃げ出した。
「あぶねえな!」
ラインハルトに向けて、国旗を振っていた男性と肩が当たり、転けてしまった。
「ごめんなさい!」
急いでその場を走り去る。ラインハルトがまだ見ているのかどうかはわからない。
逃げ出したメアリルは、路地裏に身を隠して、発情抑制剤を舌の裏で溶かす。
(気づかれてしまった……!)
しかもラインハルトと目が合っただけで、明らかな発情期の兆候まで現れてしまった。これでは以前の二の舞だ。
「何がひとめ見ることができたら、だ……」
やっぱり好きじゃないか。諦め切れてなんかいないじゃないか。
涙が溢れ、目元を袖で乱暴に拭った。発情抑制剤のおかげで身体の熱は少し治ったが、油断はならない。
メアリルは郊外の、身を寄せている神殿まで急いで走った。
準備をして、小屋へと向かう。もう日は落ちかけており、メアリルはいくつかの着替えと飲み水、発情抑制剤だけを抱えて走った。
「メアリル、どうしたの? そんなに慌てて」
幼い子供の声が後ろから聞こえ、メアリルは振り返った。
見窄らしい格好の少女だ。手には摘んだ野花が握られている。彼女は母親とともに救民院で暮らしている少女だ。メアリルとは懇意にしている。
「……体調が悪いんだ。だからみんなに迷惑をかけないよう、良くなるまであそこで過ごすんだよ」
初め、メアリルがここに来た時、みんな、罪を犯し、王都から追放されたオメガの白狼という、厄介なものを押し付けられた、と言って嫌そうな顔をしていた。
なので発情期となると、メアリルはいつも敷地内に建てられた粗末な小屋へと追いやられている。
ここの神殿を取り仕切っている神官たちはベータなので、メアリルのフェロモンは一切効かない。
それでも発情期の度、どうしようもない身体の高ぶりに苦しむメアリルを見て、みんな遠巻きに悪口を言ったり、腫れ物でも見るかのような視線を寄越してくる。王都とは違い、このような田舎ではオメガに対する理解も進んでいないのだ。
こんな田舎でも、アルファが全くいないわけではないから、薬が効かないとなると非常に厄介だ。
メアリルが近くの小屋を指差すと、少女は不思議そうな顔をする。
「ボロ小屋だよ? ご飯はあるの?」
メアリルに辛く当たる者もいるが、優しい者もいる。この少女は母親と共にここへ来て、最初メアリルに世話をされていたから、何かとメアリルのことを気にかけてくれているのだ。
とにかく急いでいて、食料は用意ができなかった。発情がある程度落ち着いた後で、近くを通りかかった誰かに頼めばいいと考えている。
それに発情期中は何かを食べるといった気分になれない。
「ないよ、けれど大丈夫。白狼だからね」
白狼だからといってそんな特殊能力はない。けれど、この少女にこれ以上、心配をさせたくなくて、そう言って笑いかけた。
「いいわ、わたしがパンとか果物を持ってきてあげる。あれば暖かいスープも。冷えちゃうかもだけど……」
「ありがとう、けどお母さんを心配してあげてね」
「そうだけど、メアリルのことも同じくらい心配……、何だか顔が赤いのに、甘い香りもするし……」
少女の言葉を聞いて、メアリルはぎくり、となった。
もしかしてこの子はアルファなのではないか。
そうだとすると、非常にまずい。フェロモンがこんな小さな子にまで影響を与えてしまっている。
初めてここに来た時、主席神官に言われた『どうしようもないオメガ』という言葉が思い出される。こんな子供にも影響を与えるなんて、まさに『どうしようもないオメガ』だと思った。メアリルは涙が溢れそうになる。
しかし泣いている暇はない。少女にも言い含めておかなければならない。
「私がいる間、絶対にあそこには近づいちゃダメだよ。約束して」
「じゃあ、メアリルのご飯は……?」
「誰かに頼むから大丈夫! じゃあね、心配してくれてありがとう」
とにかく早く、あそこに身を隠さなければ。
メアリルは少女に背を向け、小屋の戸へと手を伸ばし、中へと入った。
震える指先をコップへと伸ばし、取手をようやく掴む。
喉を鳴らして中の水を飲むが、もう冷えてはおらず、温い水が喉を流れていっただけで、上昇していく体温を冷やしてはくれなかった。
(熱い……、お腹がじくじくする……)
小屋の中は狭く、埃っぽい。昔は宿直小屋として使っていたらしいが、今は物置小屋と化している。
昔の名残で、小さなベッドが置かれ、内側から鍵がかけられるようになっていた。
「うぅ……」
唸りながら、寝返りを打つが、何も辛さは解消されない。
今回は本当に発情が酷い。前を慰め、何度精を出しても、萎える気配すらなかった。
薄着の夜着が肌に当たる感覚でさえ辛くて、メアリルはぎゅっと目を瞑り、耐えた。
(ラインハルト様……)
国王陛下の名前なんて、罪人の自分が口に出してはいけないから、心の中でそっと呼びかけてみる。
(あの生真面目な眼差し、意志の強そうなお顔立ち、あの頃と全く変わっていなかった……)
ぼうっと今日の昼のことを脳裏に思い描いてみた。
十年ぶりに見た馬上のラインハルトは凛々しく、雄々しい青年に成長していた。
自分はというと、背や髪は伸び、身体は大人へと成長したものの、相変わらず腰や腕は細いし、肌は生白い。王都では有難いものとして扱われた白い髪や赤い目、白狼耳や白い尾も、この辺境では『獣』と言い、きみ悪がる人もいて、そのせいで傷つくこともたくさんあった。
立派に国王の役目を果たすラインハルトと、誤解であっても、時の王太子を誘惑したとして、追放された自分では全く以って釣り合わない。
ぐすり、と鼻を鳴らす。純粋に寂しい、と感じた。
ここに来てからも、考えているのはずっとラインハルトのことだった。
何か悲しいこと、嫌なこと、寂しいことがあった時、ラインハルトとの短い日々を思い出す。大神官の優しい眼差しを思い出す。彼はメアリルの一件で責任を取り、身分を剥奪され、田舎の実家へと帰されてしまった。
あの頃が一番幸せだった。今は花壇で花を育てることすら、メアリルには許されていない。
(かっこよかった……)
ラインハルトは想像以上に見目麗しい青年へと成長していた。いや、大人の男性だ。けれどももう話すことさえできない相手である。
メアリルは目を閉じた。溢れた涙が頬を濡らした。
ここで最期の白狼一族として、ひっそり老いて死んでいこうと思っている。
寂しいが、それでいい。今日ひとめ、ラインハルトと目があっただけで幸せだ。
身体の熱がまた昂ってくる。後孔がひくひくと蠢き、熱いものを欲しがっていた。
ダメだ、と思ってもついラインハルトの姿が瞼の裏に浮かんできてしまう。
現国王を想像して、自分を慰めるとは、なんと失礼な行為なのだろう。
「ライン……、んっ、へ、陛下……、国王陛下……、ごめんなさい、ごめんなさい……、許して……」
思わず名前を呼びそうになり、メアリルは枕へと顔を押し付けた。くぐもった声で、陛下、陛下、と何度か呟き、身体を捩らせた。
夜着にはべっとりと愛液が付いていて、白い太ももに張り付いている。
(足りない、後ろ……)
意識を朦朧とさせながら手を伸ばし、後孔に触れようとした時だった。
「そこにいるのだろう」
戸の外から男の声が聞こえた。はっとなり、メアリルは手を引っ込める。口元を手で押さえ、身体を小さくした。
小屋の中は自分のフェロモンが蟠っていて、うまく鼻が効かない。白狼耳を立てて、音を探るが、何もわからない。誰が来たのかわからず、メアリルは怖くて震えた。
(もしかして……、誰か、アルファが……?)
夜風に乗ったフェロモンを嗅ぎつけたアルファがここまで誘われてきたのかもしれない。
音を立てないよう、じっとする。返事がないことに焦れたのか、鋭い声が上がった。
「メアリル、俺だ、わからないのか?」
声と共に夜風が強く吹く。小屋が軋んだ。
すると遅れて、戸の隙間から若草のような瑞々しい香りが吹き込んできた。
力強く、雄々しく、けれども爽やかな香り。生命力に溢れていて、メアリルがいつも、いつも望んでいたもので、得られないと諦めていたものだ。
言葉が出てこず、涙がぽたぽたと溢れてきた。
(ラインハルト様っ……!)
戸の前に立っているのが誰かなど言われなくともわかる。
頬を拭うこともできず、ただどうしようかと、困惑する。戸を開けたい。開けて、外にいるラインハルトを中に引きこみたい。
けれど、それはいけないことだ。ラインハルトとは二度と会わない、と決意した。それにこの状態で会えば、歯止めが効かなくなる。
ラインハルトは、罪を犯した白狼と交わった国王として、歴史に刻まれるかもしれない。
ガチャガチャと戸を揺らされる。メアリルは思わず叫んだ。
「いけません!」
「なぜだ?」
低く、苛立った声がすぐさま返ってきて、メアリルは足指をすくませた。けれど、その迫力に負けるわけにはいかない。
「は、発情期なんです! だから、わっ!」
何かが千切れるような音がして、戸が開け放たれた。
「クソ、なんだここは、ここでは発情期のオメガをこんなところに閉じ込めているのか」
ラインハルトが力任せに戸の鍵を壊したのだ。古いから緩くなっていたのだろう。
今夜は満月だ。月明かりのお陰で、辺りは昼のように明るく見える。
「こ、国王陛下……」
例え、真っ暗な新月の夜であっても見間違えるはずがない。
昼に見た時よりも、幾分ラフな格好だが、相変わらず上等なシャツを着ている。
戸をこじ開けたラインハルトは小屋の中へと足を踏み入れた。
はっとなったメアリルはタオルケットを引き寄せ、身体を隠した。さっきまで自慰をしていたので、服装は乱れているし、性の香りも色濃く残っているだろう。
十年ぶりだ。だが向こうはメアリルに対して、良い印象を持っていないに違いない。
何しろ、自分を誘惑したオメガだ。
もしかして昼にメアリルを見つけ、一言何か叱りつけてやろうとやってきたのだろうか。
メアリルは目をきつく閉じる。何を言われるのか怖くて、声も出ないし、身体も動かない。
じっと沈黙に耐えていると、ふっと空気が緩んだのがわかった。そして、思いがけない言葉をかけられる。
「メアリル、会いたかった」
信じられない言葉に目を開き、じっとラインハルトを見つめてしまう。
(なぜ……、私に会いたいって……)
言葉を心の中で反芻すると、身体の血流が早くなった。体温が上がり、白い肌に朱が浮く。ラインハルトの香りがわからなくなるぐらいメアリルのフェロモンが放出された。
「わ、私も……、あ!」
自分は今、何を言おうとした。
メアリルは咄嗟に自分の口を両手で押さえた。
普段は慌ててしまうと、口調が多くなる。なのに、今は口が回らない。口をぱくぱくさせるが、何も言葉が出てこない。
「無理をするな、発情期だろう?」
そう言うと、ラインハルトは壊れた戸を閉める。部屋は再び暗闇となった。窓は屋根付近の高いところにあり、そこから月明かりが漏れていた。
部屋に淫靡な雰囲気が漂い始め、メアリルは緊張した。
ラインハルトが近づいてくる。
以前のように強く拒否をすれば、国王の身体を傷つけかねない。しかし拒否をしなければ、フェロモンに誘惑されたラインハルトにこのまま抱かれてしまうだろう。
それに身体も、心も、恋焦がれていたラインハルトが目の前にいることにより、彼に触れられたがっている。
相反する心の板挟みに合い、メアリルは動けなかった。
「薬は? 飲んだのか?」
「あ、ぅ……、き、効かなくて」
ラインハルトがベッドの縁に腰掛ける。そして胸元から何か出した。
「最新の抑制剤だ。オメガの発情を冷ます効果と、つられてアルファが発情するのを抑える効果がある。さっき、夜風にあたりながら散歩をしていた時、救民院の少女からお前の話を聞いて、俺も飲んできた」
母親が病気のあの子のことだろう。
ラインハルトが見せた抑制剤は白い粉薬だ。
ほら、と渡され、受け取らないわけにはいかない。薬包ごと渡されたそれを震える手で解き、口に入れたがむせてしまった。
「大丈夫か?」
激しく咳き込んでしまう。喉に粉薬が張り付き、かなり苦しい。
(水、水……)
ベッド側のコップに手を伸ばしたが、指先には当たらなかった。
肩を支えられ、ラインハルトと身体が密着する。そのまま顔が近づいてきて、あっと気がついた時には、唇が割り開かれ、水が口内に流し込まれた。
口移しで、水を飲まされている。温い物ではなく、よく冷やされていた。
「あ、すみません……!」
夢中で水を飲んだ後、上から覗き込む、心配するようなラインハルトの視線と目が合い、我に返った。
(く、口付けまで……!)
すぐに身体を離そうとするが、逆に胸元に顔を押し付けられ、ベッドへと二人で倒れ込む。
がっちりと抱きしめられ、メアリルはドキドキした。
「落ち着け、薬が効いてくるはずだ。俺がそばにいる。だから安心して眠れ」
もう何が何だかよくわからない。身体はキツく固定されており、抜け出せそうにもない。
緊張と恐れ多さとで心臓が変に動いている。
眠れるはずがない、と思っていたが、次第にうつらうつらとしてきた。薬が効いているのだろう。
ラインハルトの逞しい香りに包まれ、メアリルは瞼を落としていった。
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