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遼二とルナ4

 しばしの後、ふうと深呼吸と共に(イェン)は言った。 「つまりはなんだ――こういうことか。おめえは理想とする環境の中で一之宮紫月という男を愛したいというわけか?」  その問いに、遼二は覆っていた掌を離すと涙に濡れた顔でハタと(イェン)を見やった。 「理想の環境……?」 「そうじゃねえのか? 鐘崎組に一之宮道場、側にはおめえの親父さんや組の若い衆らがいて、ちょっと歩けば一之宮の家があって――。そんな環境の中で一之宮が側にいてくれたら満足で安心できる。裏を返せば一之宮という一人の男を愛しているというよりは、そういった心地の好い環境の中でしか愛せない――俺にはそんなふうに聞こえるがな」  思いもよらなかった言葉に絶句――しばしの間、遼二は返答の言葉すら返せないまま(イェン)からも視線を外せずにいた。  あれだけ流した涙も瞬時に乾いてしまうくらいの衝撃が襲いくる。 「そ……んなことはねえ……。俺は……ヤツが、紫月が戻ってさえくれれば……環境など関係なく」 「ヤツを愛せるってか?」 「あ……たり前だ。俺は生まれてこのかた……紫月以外を想ったことはねえ。もちろん組も家族も大事には違いねえが、仮にどちらかを選ばねばならないとすれば――」 「一之宮を取るか? 組や家族を捨ててもヤツさえいれば生きていけると言えるか?」 「もちろんだ……ッ! 俺は……紫月が、この世であいつ以上に大事なものなんざ一つもねえ……! 紫月さえいれば俺は……」 「だったら迷うこたぁねえだろが。ヤツは――お前の愛する一之宮紫月はここにいる。例え今は記憶を失っていようと、あのルナは紛れもなくお前の愛する一之宮紫月だ。何を迷うことがある?」 「(イェン)……」 「それともいっそのことあのルナを連れて親父さんの元へ帰ってみるか? 鐘崎組の中で、一之宮道場の側で、ルナと共に暮らしてみりゃお前のその悩みも解決できるかも知れねえ」 「……ッ、そんなことはできん! あいつは、ルナは……やっとここでの生活に慣れ始めたばかりなんだ。少しずつだが笑顔だって見せるようになってくれて……そんなあいつを全く別の環境に連れて行けば、せっかく取り戻せそうなあいつの笑顔を潰しちまうだろう。そんな惨いことはできねえ……ッ」  既にもうルナの虜か――そう思えるようなセリフだ。遼二に自覚はないのだろうが、彼があのルナを愛し始めているのは確かなのだろう。焔はまたひとつ小さな溜め息と共に遠目にいるルナと冰を見つめながら言った。 「カネ、一度その――ルナとか一之宮とかいう壁を取っ払ってみたらどうだ?」 「壁を……取っ払う?」 「お前の思うまま、感じるまま、どちらも大事ならどちらも愛してしまえと言ってるんだ。ルナの人格も一之宮の人格も、可愛いと思う気持ちのままに欲しいと思う気持ちのままに素直になって溺れちまえと言っている。とことん溺れて、例えそれがおめえの抱く理想の未来とは違ったとて、溺れた先に別の未来が描けるようになるかも知れんぞ」  なんといってもルナと紫月は同一人物なのだから迷うことはない、(イェン)はそう言いたいのだ。

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