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第30話

 翔護に弁当を渡すようになってから数日が経っても、千聖の作った弁当が昼休みの教室で彼の前に現れることはなかった。  なかったけれど、それを初日のように悲しむことも、つらいと思うことももうない。  朝練が終わったあとの翔護を尾行して、物陰から彼が弁当を食べる姿を見守る。  誰かに……たとえば刈谷に見つかればからかわれて大変なことになりそうだけれど、始業までのそう余裕のあるわけでもない時間にわざわざ別館を訪れるものはいなかったから、今のところ問題はない。  帰宅して、弁当箱の軽さを両の手で感じるのが、このところの千聖の楽しみだ。  同棲ごっこはあっという間に二週間が過ぎようとしていて、少しずつ近づき始めた距離に嬉しさを感じると同時に、残りの一週間で何ができるかと焦りもあった。  最初は翔護の日常を見守るだけで満足していたのに。人とは貪欲なもので、もっと近づきたいと、もう少し手を伸ばしたら届くんじゃないかとその先を求めてしまう。  朝練を終えた翔護が今日も足早に部室を出て行くのを、千聖はいつものようにこっそりと追いかけた。  別館の校舎裏。定位置である段差に腰を下ろした翔護が、膝においた弁当箱の蓋を開いたところで、千聖はゆっくりと彼の前に進み出た。 「……翔護」 「うわっ、……は?」  千聖が現れるなんて、思ってもみなかったのだろう。翔護は一瞬びくりと肩を震わせたあと、千聖の顔を見るなり目を瞠り、それから自分の膝に目をやって、ばつが悪そうに視線を逸らした。 「……なんだよ」  さっと、腕で弁当箱を隠す。箸に掴まれたままの唐揚げが、行き場なく宙に浮いている。  そんなことをしても、千聖からは丸見えなのに。 「翔護の姿が見えたから、追いかけてきちゃった」  手を後ろで組んだまま、えへへ、と赤くなった顔を誤魔化すように笑った。  翔護にもっと近づきたくて欲張った。自分の大胆な行動を自覚してしまうと、その思い切りの良さとは裏腹に恥ずかしさに額に汗が滲む。 「えっと……隣り、座ってもいい?」 「……」  何も言わないのを都合良く肯定と受け取って、図々しく隣りへ腰を下ろした。 「お弁当、ここで食べてたんだね」 「悪いかよ」 「ううん。食べてくれて嬉しい」  にこ、と千聖の笑みを受けた翔護の瞳が、一瞬迷ったように揺れる。席を立ってしまうかと思ったけれど、彼はそのまま弁当を食べ始めたので、千聖はほっと胸を撫で下ろした。 (まずは、第一関門クリア……)  逃げられてしまっては、距離を縮めるどころの話ではない。  家の中では普通に会話ができるようになってきた。だから、次は学校でももっと一緒にいる時間を増やしたい。 「……腹が減るんだよ」 「え?」 「朝練のあと、すっげぇ腹が減んの。だから、ちょうどいいっつうか……それに、教室で誰かに見られんの恥ずいし」 「教室?」 「ンッ、なんでもねぇ! とにかく、腹減っててちょうどいいから食ってるだけ!」  誰に求められたわけでもない言い訳を口にしてから、翔護はカツカツと勢いよくごはんを掻き込む。  千聖はマネージャーだから、他の部員たちに比べたら運動量は少ない。雑用で走り回ることはあっても、そこまでへとへとになるわけではなかった。朝食を食べれば、昼食までは休み時間に飴の一つでも口に入れれば足りてしまう。  でも、朝から全力で走り回っている翔護たちはそうもいかないのだろう。 「うん、よかった。お弁当、役に立ってて」  食べてもらえて、本当によかった。  ごはんを口いっぱいに詰め込んだ翔護が、ちらと千聖に視線をくれたので、両手の上に顎をおいたままにっこりと微笑み返す。  残念ながら視線はすぐに逸らされてしまって、自分の足下に視線を移した千聖は、隣りに座ったまま足の間を通り抜ける蟻を眺めた。

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