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 グレイハウンドのターミナルまでの道のりはずっと無言。今回は抑圧ではない。言葉など不要だと、お互い理解していたから。  バスが来るまで、ニックは待っていなかった。隣接した鉄道の駅へ向かい、またバスハウスに戻るのだと言う。「俺のシフトは12時までだから」虚脱の中、思わず笑ったエリオットの顔を、ニックは網膜へ焼き付けようとするように、じっと凝視していた。まともに見えるはずもなかっただろうに。何せあの時、まるで街中へジェットエンジンの燃料をまき散らした後、マッチを擦ったような色の夕暮れが世界を支配し、しかも己は太陽に背を向けていた。  だからエリオット自身は、ニックの表情をよく覚えている。デアンジェリス家の中で一番ハンサムなのはライオネルだと思っていたが、彼も悪くない。今はボコボコにされているから、酷い有様なだけで……それともこれは、惚れた贔屓目だろうか。  つまり総合すると、消火器の容器がへこむほど人を殴った事を除けば、それほど悪い夏ではなかった、ということになる。幸い夏期休暇の残り一ヶ月、金持ちの友人の家を転々とする事に成功した。戻ってすぐに見つけたバーテンダーのバイトは大学を卒業するまで続け、そこで知り合った何人かと寝て、何人かはビジネス・スクールを卒業した後に入社したシンクタンクで、重要なコネとして使うことが出来た。  とは言うものの、酒場と臨時で入るゴルフ場のキャディー、そして地元にいる間稼いだ3ヶ月分の金は所詮微々たるもの(特にニューヨーカーの財布の紐は、一度濡れて乾いた革よりも固いのだ)新たなタトゥーを入れたら、ほぼ消えてしまった。  毒食らわば皿まで。背中一面を這い走る蠍に、いかにもイキった死神と教会が増えたところで、今更恥ずかしくも何ともなかった。元々右肩の辺りの空白には何か入れようと思っていたので、ちょうどいい。  デザイナーに意匠料を払うべきかと思ったが、懐事情が芳しくなかったこともあり、勝手に使わせて貰った。大体、彼の連絡先を知らない。  一応聞くだけ聞いてみようかと、新学期が始まってすぐに実家へ電話したら、突然姿を消したことを母に散々叱られただけで、何の収穫も得られなかった。彼の消息なんて知らない。お金を持ってきたこともない。  ホワイト・ストライプスのアルバムも、結局正規の品を自分で買ったし、貸し借りはチャラだ。そう思うことにした。  幸いミスター・ボネットは本当に死んでいなかったようで、しばらくインターネットを注意深く確認していたが、特にニュースも流れていなかった。いつもの如く、オーナーが上手く片付けたのだろう。  奨学金の給付が途絶えることなく、比例して益々品行方正の仮面を上手く身につけられるようになり、そして名門校の大学院まで順調に駆け上がった挙げ句、国内でも大手のシンクタンクへ上手く潜り込むことに成功する。これぞ思い描いた人生。身体から立ち上ってくるホーボーケンのにんにく臭さは、野暮な訛りと共に上手く隠すことが出来た。  だからこそ、唯一のよすがである背中のタトゥーを見た相手が驚く様子は、いっそ痛快とすら言えた──のは、最初の頃だけ。正直、40を間近に控えた今では、多少うんざりしている。  竦み上がるような輩は、大抵エリオットの生まれ育った社会的階層よりも上のヒエラルキーに属する人間なのだが、何故か皆一様に同じ質問をする。「そんなめい一杯彫るなんて、痛くなかったの?」  その度エリオットは、大抵の相手を安心させ、一部の人間に虫酸を走らせることで定評のある、ゆったりとした微笑みでレンズの向こうの目を細め、言ってやるのだ。 「思ったよりは。それに、昔のことだからね」  何分背中なので、自身でまじまじ見つめる機会も少なくなった。恐らくインクの色はかなり薄まっているだろう。足すことはしない。消そうとも思わないが。  隠すことが出来ても消すことは出来ない。今この刺青を見せたならば、19歳の自らは、あの街を飛び出しただろうか。  或いは、彼は己を引き留めようと。  分かりきった答えをわざわざ口にするのは、その必要がある時だけ。機会が永遠に訪れないことを、エリオットは心底願っていた。 終

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