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 そのまま2人して裏口を出た時、抜け目のない彼は、エリオットの荷物を持ってきてくれていた。そのまま地下鉄に乗り込み、ニュージャージーへ向かう。あんなにも行くのを嫌がっていた地元へ戻るために、ニックはエリオットの手を引く。  パストレインが州境へ突入しようとした頃、ニックはようやく気付いたように目を見開き、羽織っていた薄手のパーカーを脱ぐ。比較的最近洗濯されたらしいそれは、隣で窓へこめかみを押しつけ、黙り込んでいたエリオットに突きつけられた。制服の黒いTシャツはともかく、チノパンに転々と飛んでいる赤黒い染みは隠しようがない。 「どうして君は」  アドレナリンの放出過多でガンガンする頭を持て余し、のろくさとした動きで袖を通しながら、エリオットは言った。 「本当にどうして」 「お前にだけは言われたくない」 「どうしてそんな、平気な顔してるんだよ」  ニックはまた黙り込んだ。長い沈黙だった。夏の昼下がりの光はまるで網のようにハドソン川へ被せられ、水本来の持つ涼やかさを視覚からすら抑え込む。今日ほど、ここを渡りたくないと強く思ったことはない。諦めたくないと思ったことも。 「上手く行く日もあれば、行かない日もある」  でも彼は、本来そうじゃない。  最低限の動きで作られる声が、がたごとと騒がしい列車の音をすっと掻き分けて、火照った耳に届けられた時、とうとうエリオットは心の底から認めざるを得なかった。  それでも。否が応でも川を渡るのだから。 「ニック、物事に直面して平気だって言うのと、何も感じないのは違うよ……俺はさっき、すっきりした。あの白んぼを叩きのめして。ああ、楽しかった」  認めたくはなかったけれど、認めなければならないこと。こんなにも正直になった事は生まれて初めてのように思える。蠍がその大きな鋏で獲物を挟み込むような強さで、彼へ眼差しをぶつけながら、エリオットは言った。 「君が何を考えてるのか、俺には分からない。でも、俺達はただ、平気なだけなんだ。君が少しでも傷ついたら、俺はとても」 「黙れよ」  真正面を向いたまま叩きつけられたその短い言葉に、ニックが抱える怒りの全てが表現されていた。本来はエリオットに向けるべきではないものも全て。  理不尽だと抗議することは、エリオットに許されない。分かりたいと先に望んだのは己なのだから。  そして挑戦したことで機会が永遠に失われてしまったのだとしても、決して後悔はしてはならない。したりなどするものか。  相手が欲するまま、エリオットは自宅へ辿り着くまで、ずっと口を噤んでいた。幸い両親は仕事、下の兄弟も遊びに出かけているようで、アパートには誰もいない。 「お前、もう帰ってこない方がいいよ」  荷物を片っ端からキャリーケースへ詰め込んでいるエリオットを見守りながら、ニックはぽつりと言った。 「言われなくても」 「ここにいたら良くない」 「心配しなくても大丈夫、ミスター・ボネットは死んでない。オーナーからバイト代を受け取って、母さんに渡してくれたら助かる」 「分かった」  己はここから立ち去る。永遠に、なんて大仰な事は言わない。ちょっとほとぼりと、頭を冷やすだけ。もう少し学んで、賢くなるまでは。 『大学の夏期講座に欠員が出て、急遽受講できるようになった。残りの休みはあっちで過ごす』  書き置きに記した嘘は簡潔で、己と両親の願望に沿ったものだ。きっと容易く受け入れられるに違いない。 「ニック、もう二度とあんなことは」 「何様のつもりだ、偉そうに説教垂れやがって」 「ニック、俺は本気で」 「もういい、お高くとまった気取り屋」  何だって、と間抜けに声を裏返らせる事は、幸いなことに防がれた。着替えたばかりのシャツの胸ぐらを掴まれて、引き寄せられていた。 「お前とは二度と会わない。俺の名前も呼ぶな。俺達、つるんでたら、何もかも悪い方向に転がる」 「何だよ、大袈裟な……」 「お前を見てたらムカつく。本当は全然そんなことない癖に、お綺麗な、慈悲深い顔してるのが、最高に」 「ニック」  がちんと歯がぶつかるような勢いで仕掛けられたキスを、エリオットは数秒でもぎ離してしまった。最悪だ。心を許した、好きになった初めての相手との行為を、どうしてこんな惨めなシチュエーションで迎えなければならない? 日に焼けて破れた壁紙の目立つ狭苦しい自室で、洗濯物と参考書が転がる床に立ち尽くし、喧嘩をしながらなんて、あんまりではないか。 「一体何考えてるんだよ」  舌も絡めない拙い口付けなのに、浴びせる罵声は息も切れ切れの有様だった。情けなさの余りに、頬へかっと熱が集まる。 「君、ゲイでもないのに」 「もう二度と会わないんだから、構わないだろ」 「はあ?」 「今まで、誰かの事を、これだけ色々考えたことがないんだ。そういう相手に、どうやって接したらいいか、分からない」  無様に膨れ上がったニックの仏頂面は不貞腐れている訳ではない。緊張の余り、表情筋が凍り付いているだけの話だった。そう気付いてしまったら最後、まるで命懸けのような有様でもう一度顔が近付いてきた時、エリオットは拒む事が出来なかった。  呼吸が止まってしまうほど深く重なり合った唇が離れた瞬間、エリオットはニックの後頭部を掴んで、こつりと額をぶつけた。 「俺のことを考えてくれてるなら、本当に俺のことを気に掛けてくれるなら、ニック、もう二度と、馬鹿なことはしないでくれ。君が傷ついたら、俺も悲しいよ」 「嘘つけ」 「嘘じゃない」  涙は眦へ少し滲んだ程度、しかも今なら、興奮由来だと勘違いさせることだって十分可能だ。なのにニックは、剥がれた爪へ絆創膏を巻いた指でエリオットの目元を拭った。 「悪い」  エリオットが望んでいた言葉の代わりに寄越されたのは、心の底から放たれた、その一言だけだった。

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