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 素人目から見ても、ニックの絵は上手い。バスハウスの従業員用ロッカーに投げ込んであった、スケッチブックから破り取られたらしい画用紙を見て、エリオットは素直にそう思った。ぼろぼろのローブから禍々しい髑髏の顔を覗かせる死神と、カトリックのものらしいゴシック調の教会が組み合わされた鉛筆書きの素描は、その迫力を十分すぎるほどに表現している。  そう手放しで褒めようと思ったのに、今日に限って彼は欠勤だという。 「体調が良くないとさ」  まるで気軽にそう言ってのけた後、オーナーは更に薄っぺらい口調で付け足した。 「あいつ、幾らもしないうちにトぶかもな」  違う、彼は札束を放り出したりなどしない。  そうでないことを誰よりも願っていたのは己自身であるにも関わらず、エリオットは彼が戻ってくることを信じようと、己に強制した。  幸い、期待は数日のうちに叶えられる。入れ替わりのシフトで出勤してきたニックの姿を認めた瞬間、エリオットは腕を掴み、出てきたロッカールームへと相手を押し戻した。  顔の左半分を腫らし、鼻に巨大な絆創膏を当てていても、あのふてくされたような無表情だと分かるのだから、彼の反抗心は全く大したものだった。 「何があったんだよ」 「しくじった」  端的な答えで、相手が納得しないとすぐ理解したのだろう。うんざりしたような息を吐き出し、ニックは根本の黒くなった髪をがしがしと、包帯を巻いた指でかき回した。 「街でライオネルと会って」 「彼に殴られたの」 「違う。ここで働いてるって言ったら、試してみろって言われたんだ」  何を、と聞き募るまでもなかった。「相手は誰?」そう尋ねたエリオットに、首を振り振り返すと言うポーズは、盛大に傷へ障ったのだろう、切れた唇が歪められる。 「ミスター・ボネット」  低い告白の後に、もう一度「しくじった」と続けられて、脳がぐらぐらと揺れる。  そうだよな。君って、デアンジェリスの人間って、そう言う奴だったよな。のらくらで向上心など皆無、衝動的でその日の雨風をしのぐ屋根と飯と快楽しか考えず、生みの親にすら平気で暴力を振るい、何とも思わない。故郷を出る日、もう二度とああ言う連中とはつるまないと固く決意した、己が最も軽蔑する人間のこの上ない見本じゃないか。  信じた俺が馬鹿だった。そう激しく、燃えさかるように激しく後悔したのに、エリオットは「ここで待ってて」と囁き、踵を返していた。  酷く体温の低いニックの肌の感触が残っている手のひらで掴んだのは、この施設で唯一の防災用具である事務所の消火器だった。引きずるようにして、12号室に向かう。男の居場所は分かっていた。先ほど、他ならぬ己自身が受付をして、タオルを手渡した。脱衣所で拾ったらしい、金髪の可愛い男の子の肩を抱きながら、個室に入っていくのも見届けている。  扉を蹴破る勢いで中へ突入してきたエリオットを見たその子は、全く機敏だった。ベンチへ座る男のペニスを、味の無くなったガムのように吐き捨てるが早く、転がるように外へ飛び出していく。 「おい、ニガー……」  他にも襲いやすい奴なんて幾らでもいただろうに。こんな毎日のジム通いを欠かさないような筋骨隆々の中年男を獲物に選ぶなんて、ニックは一体何を考えていたのだ。馬鹿野郎、と内心叫びながら、エリオットは消火器の底で男のくっきりと割れた腹筋を思い切り突いた。苦しげに呻き、前屈みになることで晒された後頭部へ更に一撃、得物を力任せに振り下ろす。  床へ崩れ落ちた身体を蹴飛ばし、踏みつけ、エリオットは今度こそ声に出し、思いの丈を片っ端から身を縮める体にぶつけていた。 「このペド野郎、頭空っぽのヤッピー崩れの癖しやがって! お前みたいな奴こそ、飛行機がケツの穴へ突っ込んで来て死んじまえば良かったんだ!!」  オレンジ色の照明の中、蒸気は薄れつつあると言えまだもくもくと狭い室内に立ちこめている。おまけにこちらは近眼で、相手が流しているのが血なのか汗なのか、そもそも生きているのか死んでいるのか分かったものではない。知ったことか、どうでもいい。  目の前が真っ赤になるとか真っ白になるとか真っ黒になるとか、我を失った人間は大抵自己をそう表現する。けれどエリオットは、後ろから羽交い締めにされて部屋を引きずり出された時、既に明瞭な視野で世界を捉えていた。周囲の部屋から顔を出し、怖々と様子を窺う客達。 「何やってんだよ」  食い縛った歯の奥から、鋭い息と共にそう唸るニックの、少し高い掠れ声。

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