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 気付けば夏休みは半ばに突入している。思った以上に金は貯まらない。大学に残ってアルバイトすれば良かったとの思いが時に頭を過ぎるほど。  だがそうなると、寮の家賃や様々な誘惑により、どれだけ汗水垂らして働いても、下手すればマイナス計上に鳴るのが目に見えていた。大体、今一生懸命爪に火を灯しているのは、来年からは夏期集中講座も受けたいから。のんびり過ごせるのは今だけだ。  からっとした西海岸の太陽と違い、こちらの夏はじめじめと全身を蝕む。バスハウスが様々な熱気で息苦しいのは言わずもがな。事務所の空調は壊れかけているし、外へ出れば夜でも汗が止まらない。  珍しく2人揃ってシフトが上がったのは日付も変わった頃。エリオットはこの後のバイトも無いし、ニックも帰らない、正確に言えば帰れない。最近転がり込んだ家の友人は、まだ彼を信用するほど親しい仲ではないらしく、鍵の場所を教えてくれないのだという。うちへ来る? と尋ねたが「いい」と素っ気なく返される。確かに野暮だったな、と反省し、お詫びにエリオットも彼へ付き合うことにした。  コンビニで6本入りのバドワイザーを買い、26番埠頭の公園へ忍び込む。まだ門が施錠されてそれほど経っていない時刻だったから、逆にホームレス達も少ない。そうでなくても、あの恐ろしいテロが起こって以来、巡回する警備員や監視カメラの数が飛躍的に増えたのだという。  この辺りはそこまででもないとニックは請け合ったが、乗り越えた遊歩道の柵へ凭れるようにして腰掛け、ビールのプルタブを引く。たった10分足らず持ち歩いただけなのに、缶は人間達と同じく、大粒の汗を掻いていた。 「飛行機が突っ込んだ日、こっちにいた?」  ぶらぶらと足を揺すりながら、エリオットは尋ねた。 「この辺りにまで爆風が来ただろう」 「あまり覚えてない、ラリってたし。前の晩から雨戸を閉め切って、キラージョイント(PCP入り大麻)吸いながらずっと女の子とファックして……明け方にその子が捌いていたアクティック(ロリポップ型フェンタニル)やったのが決定打だった」 「ある意味幸せなのかも知れないね」 「皆が大騒ぎして、救急車やパトカーのサイレンが凄まじかったのは何となく。彼女は、アパートが地震みたいに揺れたって言ってたけど」  WTCは、幸い川と背を向ける方角にある。見たくはなかった、特にこんな、暗い真夜中には。  ツインタワーに飛行機が突っ込んだ瞬間、この国ではビルと一緒に何かが崩落した。今の自ら達は、「その後」に生きている。世界中が(勿論アルカイダ以外が)失われれたものに哀悼を示しながら。 「別に、どうでも良いって感じだけどな」  ぼそりと呟かれた言葉に、思わず「何だって」とエリオットは返した。だが並んで腰掛けたニックは、眉一つ動かさないまま、ぐいとビールを煽る。 「何千人もの罪のない人が死んだテロが、どうでも良いって事あるもんか」 「あんなデカいタワーで働いてた連中なんて、一流企業勤めの金持ち連中だろ。奴らが死んでも、うちの親父が酒を止めて仕事を見つけてくる訳でもないし、地元の美容室は、最低賃金でお袋をこき使ってる」  夜の帳の中、深く濁った色をした水面で、彼らの生まれ故郷の明かりが粉々に砕け散る。弱々しい輝きがまず照らし付けるのは、あまり似合っていないニックの脱色した金髪だった。けれどエリオットは、相手の眼差しが、鋭い日差しのように湿った肌を刺し貫くのを、まざまざと意識していた。 「思い上がってんじゃないか、この国そのものが。しかも、何も変わっちゃいない。飛行機が突っ込もうとも、この街やアフガンで誰が何人死のうとも」 「それにしたって、酷い言いぐさだ。君の考え方は間違ってると思う」 「かもな」  否定されないとなれば、憤りをぶつけることすら出来なくなってしまう。ビールの最後の一口を飲み干し、エリオットは空き缶を川に投げ込む。ろくな音さえ立てず、易々と流されていってしまった異物。寧ろ深い水は、生臭い悪臭を熱気に混ぜ込んで顔へ押しかけることで、こちらをあざ笑っているかのようだった。 「大体お前だって」 「なに」 「何でもない」 「途中で止めないでくれよ、気になってイライラする」  ああ、情けない。せっかく見知らぬ土地で、上手く変わりつつあると思っていたのに。ここへ戻れば途端に逆戻りだった。そしてやっぱり、故郷は、妙に心地良いのだ。見知った匂い、見知った仲間、気取らない態度。  エリオットが新たなビールを開けている間に、ニックはふいと目を逸らし、淀んだ足下を見つめていた。口を開くときも、視線が戻ってくることはない。 「客の中で、お前のことをニガー・ボーイって呼ぶ奴いるだろ」 「ああ、ミスター・ボネットだっけ……親しみを込めてるつもりなんだろう」 「もっと怒ってるって、態度で示せよ。舐められるぜ」  思わず笑ってしまったのは、一瞬、それが卑猥な意味かと頭が捉え違いをしたからだ。珍しいことに、ニックはあからさまにムッとした様子で唇をねじ曲げ、「笑う事じゃないだろ」と吐き捨てる。 「確かに、黒人のゲイが生き辛いのは、今も昔も変わらないかもね」  乾いた喉に苦いアルコールを流し込めば、少しは気分も和らぐ。けれどエリオットは、心と正反対の言葉を、潤った舌へ乗せていた。 「そう、確かに俺は、色々怒ってるよ。ミスター・ボネットも、3代前からのOBで、生まれたときに入学名簿へ名前が書き込まれる本当のアイビーリーガー達も、みんな大嫌いだ……でも、君がそんな風に考えてくれてたなんて、意外だな。正直嬉しい」  心底の感情を、さらりと口へすることには慣れている。これ以上腹立ちや悲しみを覚えたくないから。失望したくないから、そんなこと、自らには似合わない。一度壊されて、世界は生まれ変わったのだ。ホーボーケンからのし上がった黒人のゲイとして、輝かしい未来が待ちかまえていると、信じたかった。 「怒ってるんだろ」  ニックは返事をすることなく、ぶつぶつとそう呟くばかりだった。ラリっているのだろうか、吸っていてもマリファナ程度、それ以上きつい薬を彼がエリオットの前で使うことはなかったが。幾らこの暑さと言え、3缶のビールは酔うのに物足りなさすぎるし。 「やめろよ、化膿するぞ」  終いにがりがりと、右の前腕を引っ掻きだしたので、思わず手首を掴んで制止する。最近入れた、ギリシャ神話の登場人物と思しき神か英雄の刺青の周りが痒いのだろう。体温が上がったり、汗が噴き出したりすると、ただでも刺激を受けたばかりの皮膚は余計敏感になる。  そのままぐっと引かれたのは、振り解こうとされたのではない。ニックはこちらへ倒れかかってきたエリオットの首へ自由な方の腕を回した。 「お前も」  耳元に吹き込まれた息は、まるで火を飲んだかのように熱い。思わずびくりと肩を跳ねさせ逃げようとしたが、すかさず腕に力が込められ、益々身体が密着させられるだけの結果に終わる。 「スミ入れてるよな。優等生の癖に」 「ああ、まあね」  干上がった喉へ無理矢理唾液を送り込み、エリオットは唇の先で答えた。 「大した事は」 「ロッカールームで、一瞬しか見えなかった。全体が見たい」 「ええ……」 「見たいんだ」  背中を撫でる手へ必要以上に震えてしまうのは、注意深くなり、敏感になっているせい。夜とはいつでも、節度を保って過ごすべき存在だ。隣の男と同じく。制汗剤のライムっぽい芳香を縫って漂う汗臭さは酒のせいだけではない、もしかしたら数日シャワーを浴びていないのかも。酷く酔ったような気分になる。  いや、実際酔っていた。突き飛ばすようにして身を離し、エリオットは思わず「何なんだよ」と呻いた。そのまま勢いよくTシャツを脱ぎ捨て、背を向ける。例え暗がりとは言え、彼に今浮かべている表情を見られるなんて、金輪際ごめんだった。  大学へ入る前の夏休みに地元の店で彫ったそれは、幾らまだ色濃いとは言え、この暗がりだ。己の黒い肌も相まって、禄に見えはしないだろう。 「蠍か。クールだな」 「ちょっと派手過ぎたかなと思うんだけど」 「そんなことない」  静まり返った埠頭で、ニックの声の抑揚が微かに持ち上がったのを聞き分けるのは余りにも容易い。彼は心底、己に見惚れている。だから、これは名画座で掛かっていた『デスペラード』のアントニオ・バンデラスに恋してしまい、決めたモチーフなのだとは言えなかった。他の男の話なんて! 大体、憧れはもう既に醒めてしまっているのだから。  すっと指の腹で軽く模様に触れられて、思わず息を呑む。やめろよ、こう言うことは良くないよ。例え過剰反応だと馬鹿にされたり、嫌悪を抱かれようとも、そう叫びたくて仕方がない。この心地よい関係を壊したくはなかった。友達で十分だった。何かを望むならば、別の何かを諦めなければならないことは知っている。それに己は、実のところ、言うほど欲深くはない。世間一般の誰もが欲しがる物へ手を伸ばしているだけに過ぎないのだから。   「高校を辞めた時、一時期タトゥー・アーティストになろうと思ってた」  口調が元の平坦さへ戻った事に、本来は安堵すべきだった。なのに、こんなにも胸が締め付けられるのは何故だろう。 「すぐに諦めたけど。絵が下手だから」 「でも好きなんだろう。幼稚園の時、よく描いてたじゃないか……それに、小学校のコンクールで賞を貰ってなかったっけ」 「よく覚えてるな」 「意外だと思って」  嘘だ、覚えているのは、彼を意識していたせいに他ならない。それが今この瞬間までは、近所に住む幼なじみだからという理由であったとしても。  長年、向けても当たり前に許されると思っていた感情が、ある日突然変質してしまう。それは許されないことだ。彼を酷く冒涜しているように思えてならない。  実際、そうではないか。女の子と一緒にロリポップを舐めてぶっ飛ぶ異性愛者に思いを寄せても、絶対ろくなことにならない。  理性ではなく、損得勘定でそう結果を弾き出してしまった己に、心底腹が立つ。これはホーボーケンで学んだことではない。高い学費を援助して貰って習得したことが、こうして実地で役に立ったわけだ。  重く蒸す夜風へ、小馬鹿にしたかの如く頬を叩かれたのは幸いだった。悔しさを涙ではなく、もっと前向きな力に昇華してくれる。 「どうして入れたんだ」 「だって、蠍ってクールじゃないか」 「この模様ってことじゃない。そもそも何でスミを入れようと思ったかって意味」 「どうしてって…………」  これまで深く考えたことが無かった、強いて言えば、周りがみんな入れてるから。そう無難な言葉を返しておけば良かったのに。 「馬鹿にされたくなかったから、かな」  恐らく正解ではない言葉は、一度するりと唇から飛び出せば、もはや歯止めが利かなかった。 「俺のグループで、コミュニティ・カレッジ以上の学校に行くのは、俺が初めてだった。みんなにからかわれたよ」 「嫉妬だな」 「分かってる。俺は計画的に、上手くやってきたつもりだし、それは成功した。でも、やっぱり悔しかったし……街を出ていくのは寂しかった。進路をNYCへ変更しようかと、少し揺らいだくらいだよ。それに、あっちではカミングアウトするつもりで、益々舐められるって知ってたから」 「俺は、お前が地元を離れて良かったと思う」  肩に置かれた手にさしたる意図はないし、手のひらの熱さも、アルコールのせい。酒は便利だ。どんな方便にも曲解にも利用できる。何なら夢を見てしまうことすら。 「お前は一家の中で、と言うかあの近所で、誰よりも頭が良かった。あんなところでくすぶってるタマじゃない……兄貴や姉貴達も、お前の学費を出してくれてるんだろう」 「俺の頭の出来じゃ、全額奨学金でとは行かなかったから」 「それだけ期待されて、愛されてるんだ。喜ぶべきことじゃないか」  それはそうだけど、と言ってしまえたら、どれほど楽だろう。期待されるのも、愛されるのも、正直鬱陶しいと。己が自身に対して抱く夢や希望、そして臆病な自己愛にすら押し潰され、息も出来なくなっているような有様だと言うのに。 「お前は恵まれてる」 「そうだね」  こちらがすげない態度で武装すればするほど、ニックの声に柔らかさを見いだしてしまう。勘違いしてしまうのだ。 「だから大変だな」  何だ、本当は君だって、分かってる癖に。俯いたまま、エリオットは千々に引き裂いてしまいそうなほど固く握りしめていたシャツを再び着込んだ。脇や胸元、それに背中へ浮いていた汗が生乾きになり、気持ちが悪い。 「絵、見せてくれよ。そんなに自信がないなら、俺が判定してやる」 「マジに下手だから」 「俺のを見たんだから、おあいこだろう」  不快感を使い思慕から意識を逸らすことで、ようやくまともな声を出すことが出来る。しばらくの沈黙の後、ニックは「分かったって」と呟いた。 「本当に落書きみたいなのしか無いけどな」 「そういう前振りでハードルを下げようとしても無駄だからね。俺は忌憚のない意見しか言わないぞ」 「お前、芸術じゃないくて経済専攻じゃなかったっけか」  投げ寄越された最後の缶ビールを受け取り、エリオットは今度こそ、本心から破顔した。 「タトゥー・アーティストなら、素人目にも良さが分かる絵じゃないと駄目だろう?」

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