金銭についてと言う、どう考えても世知辛い話題は、皮肉な事にニックとの会話を円滑にする新たなきっかけとなった。夕方に入ろうとする時間帯、客が途切れがちな束の間のひと時、2人で裏紙に欲しいものを書いていくと言う遊び。既にお互いの書き損じ伝票は、3分の2程が埋まっていた。 「エア・ジョーダン？　普通は俺が欲しがるものなのに」 　軽口を理解できなかったのか、ニックは無言でこちらを見つめてくるばかりだった。仕方なくエリオットは、続きへ目を通した。その見かけに反して、と言ったら失礼なのかもしれないが、ニックは右肩上がりの丸く、酷く小さな文字を書く。 「刑務所の鍵」 　今度こそ心底訝しげに眉根を寄せれば、しれっと「兄貴が、ライオネルが再来週、矯正施設を出る」と返される。 「それはおめでとう。実家に戻ってくるの？」 「多分」 　彼がそのことを快く思っていない事は、微かに低められた語調で読み取ることが出来る。仲が悪いと言う印象は無かったのだが──それも仕方がないことなのかもしれない。ムショ帰りの親族なんて、厄介事しか生まないものだ。自らの叔父だって売買目的のクラックの所持で(実際のところ彼は売人ではなかったのだが、警察官の点数稼ぎに使われたのだと父は言っていた)3年間勤めた後、明らかに昔より素行が悪くなって戻ってきた。 「ちょうどその頃には長期休暇が重なって、ロッドも戻って来るって聞いてるし」 「彼って陸軍だっけ」 「ああ。あいつらはそりが合わない……俺は帰らないから、別にどうでもいいけど」 　その割に、刑務所の鍵を使って閉じ込めたいと思うくらいには、憂えているのだろう。そう言えば、特に長男のロッドは乱暴者で、よくお袋さんにも手を挙げては、目に青痣を拵えさせていた。 　あんな問題児だらけの家庭環境で、ニックが取り返しのつかないグレ方をしなかったのは奇跡のように思える。 　話を強制的に打ち切るように、彼はエリオットが書き連ねていたリストを取り上げた。 「カリフォルニアだったら、車もいるよな」 「別に遊びに行ったりする訳じゃないけれど、意外と物騒なんだ。夜遅くに大学から帰るときに、強盗とかに襲われたり」 　「とか」という微妙なニュアンスは察したらしいが、ニックの声音はやはり、高度制限ぎりぎりをかったるそうに飛んでいるかのようだった。 「3代前からホーボーケンで暮らしてる人間が、西海岸のチャラいごろつきを怖がるなんて」 「実際のところ、俺達が思うほど、ホーボーケンは物騒な街でもないみたいだよ」 　生まれ育った場所での生活が常識の基礎になることは当たり前の話。その認識を最初に改める羽目になるのは、大体小学生くらいの頃だろうか。「お前の近所って怖いよな」と級友達に言われて、初めて己の街の治安や生活レベルを相対的に把握する。 　でも、本当に理解するのは、完全に地元を離れてからだ。一年間国の反対側で暮らしてみて、エリオットはその事実を知った。幾らマンハッタンから電車で一時間足らずと言え、しょせんは田舎だ。歌を歌っていない時のフランク・シナトラの喋り方を聞いてみろ、そんで、こーで、と酷い訛り。エリオット自身、西海岸でも散々笑われた。初めは必死に矯正しようとしたが、近頃は段々馬鹿らしくなってきつつある。 「ここと、あと洗車屋の受付と、週に2日入ってるスーパーマーケットの早朝ディスプレイの仕事だろう。この3ヶ月でアルバイト代を掻き集めて……」 「お前、体を売ったことあるか」 　突然そう切られた口火に、ぎょっと目を剥いたエリオットへ、ニックは「金を貰って、誰かとファックしたこと」と続ける。 「まだそこまでは」 　と言ってから、己の失言に気付く。 「君は？」 「俺じゃなくて、ライオネルが昔、こういう店で。身体には一切触らせずに、のこのこ着いてきた奴を路地裏で殴って、金を巻き上げるって手口だった。すぐに出禁になって止めたけど」 「それは、そうだろうね……」 　撫で下ろした胸はしかし、まだざわざわと嫌なざわめきが収まらない。 　このバスハウスでは、年配の人間が若い男に薬を飲ませて乱暴したり、金に明かせて暴力を振るったり。外の世界と変わらない、権力的な搾取構造を目にすることが多かった。若い奴らの悪さならせいぜい、ロッカールームで金品を盗んだり、それにそう、客引きも厳密に言えば犯罪行為だ。 　でも、そうやって能動的に相手を捻じ伏せることも、可能と言えば可能だった。力も血の気も有り余っていて、これから成長していく若者達。 「カモさえしっかり見極めたら、いい金になるらしい」 「だからって……ここでそう言うことしてる子達を見てみろよ」 　受付に見えた人影へ腰を上げる。待っていた男は、無言で2人分の入場料金を払った。中年相応の肉が付いた丸い肩越しに背後を覗けば、薄暗い廊下の壁へ凭れ掛かり、つまらなさげな顔で俯いている青年の姿が見える。いや、少年かも知れない。嘆息を漏らし、エリオットは2人分のタオルセットとバスローブを渡した。 　 「まあ、ライオネルはハンサムだから、どんな男性でも引っかけられそうだ。俺じゃあとても無理、1回10ドルで手コキがせいぜいかな」 　思わず浮かべた苦笑いを、ニックは痛いほど凝視する。 「大丈夫。心配しなくても、ライオネル相手に変なことは考えてないよ」 「あいつはハンサムじゃない」 　ちん、と押された呼び鈴へ振り返ったのはエリオットだが、今度はニックが席を立つ。 「眼鏡」 「え？」 「書き忘れてる。一番大事な奴だろう」 　雑で読みにくいとよく言われる己の筆記体の下に、殴り書くようにして付け足された文字。エリオットがまじまじ眺めている間に、再びベルが苛立たしげな音を響かせる。相手にもはっきり聞こえるよう舌打ちしながら、ニックは後ろの棚からタオルを引っ掴んだ。