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 狭い廊下へ連なる全ての金属扉には、ガラス張りの丸い小窓が取り付けられている。用途は中での行為を覗き込んでマスを掻く為が半分、残りの半分は従業員が室内を確認する為だった──ちゃんと中を確認しろと同僚達からは言われているが、これまでエリオットはノックをするだけに済ませ、窓へ視線を向けたことはなかった。  大体、どれだけ見回りを徹底したところで、殆どの場合は既に手遅れなのだ。実際の現場へ遭遇した回数はそれ程多くないものの、エリオットは今回も一度息を飲んだが最後、確たる足取りでニックの後に続いた。  1人取り残された青年は自ら達より少し年嵩程度だろうか。金に困った近隣に住む芸術家崩れで、プロの男娼ではない。きっとそうに違いない。なら自己責任だ。  翡翠色の床や壁に付着した血は、水溜りではなく、飛び散ったと言う有様。木製のベンチに押し付けられた頬へ歪に引っ張られ、薄く開いた口元は真っ赤に染まっている。もしかしたら歯が折れているのかも知れない、さっきスニーカーで何か固いものを踏んだから。  ここと、跪く形で突き出された剥き出しの尻の辺りが一番酷い怪我を負っている。歩けるだろうか……さっさと退場して貰わねば。肩を揺さぶれば、すぐさま甘えたような唸りを上げて目を開けたのは良い兆候だ。もしかしたら、2人が部屋へ入ってくる前から、ずっと意識は覚醒させていて、待っていたのかも知れない。助けを、或いは同情を。 「警察を呼びます?」  さっさと血痕にスプレーボトルで洗剤を噴射し始めたニックを後目に、エリオットは運の悪い男の傍らへしゃがみ込んだ。尋ねれば100%否定が返ってくると分かっている質問だが、必ず確認することにしている。そんな事で良心がある素振りを見せる己へ、心底の嫌悪を催した。  今回も案の定、青年はのろのろと身を起こし、首を振った。 「あいつ……」 「あとでカメラを確認して、常習犯なら出禁にして貰うよう上に言いますよ」 「いい。金払いは良かったから……ロッカーで取り返されてなけりゃいいんだけど」  そう言うプレイならホテルでやって欲しいよね。以前エリオットがそう嘆いたとき、ニックは首を振って言った。「衝動的にやっちまうんだろ」  まるで己にも心当たりのあるような言い草だった。そんな言い方良くないよ、なんて烏滸がましい物言いは勿論口にしなかったが。  何言ってるんだ、あいつはデアンジェリス家の奴だぞと、周囲なら呆れるに違いない。それでも、もしそんな事を言う奴がいたなら、全力で否定してやりたいと、エリオットは思うのだ。生まれで差別するなんて最低じゃないか。彼は良い奴だ。相手へ理解しようと、共有しようと、少なくともそうしようと努力してくれる。血も涙もない人間は、例えどれだけ興味を示した所で、ロックバンドのCDなんか貸してくれない。  もう一年近くここに勤めているというニックは全く手際が良い。古いバスタオル2枚を充てがわれ、青年が個室から追い出された時には、既に床へモップを掛け始めている。布が残す濡れ跡を追いかけるようにして、アルコール消毒液をスプレーしていくエリオットを見下ろす目付きは、リネン室で浮かんでいたのと同じくらい平然とした色を湛えている。 「君は度胸があるよ」 「そうでも」  スチームで汗だくになり、太い息をつきながらしゃがみ込むエリオットが進みやすいよう、ニックはすっと身体を脇へとずらした。 「俺にはここに来る連中が、札束に見えてる」 「凄い台詞だな」 「一々考えてたらきり無い」  そこ、と指で床を示されて目を眇める。淫靡と秘匿の狭間にあるオレンジ色の照明は、少し近視の気がある目には優しくない。結局、ニックがモップでぺたぺたと叩いてくれたので、エリオットはそこをペーパータオルで擦った。せっかく綺麗にしても、すぐに額から汗の雫が滴り落ちるから、台無しだ。 「君はお金が欲しいの? いや、それは当然だね」 「そこまでは。今の調子なら、どうにかやっていけるし。空っけつなのはお前の方だろ」 「まあね。取り敢えず、給料を貯めたら一番に眼鏡を買うよ」 「コンタクトレンズだと思ってた」 「まだそこまで悪くない。でも、そろそろ厳しいかな。大学の講義でも、後ろの席に座ったら、黒板が少し見えにくいんだ」  不承不承の告白などとっくに心得ていたとばかり。先程からニックは、不必要な二度拭きをして、エリオットに消毒すべき場所を示してくれている。何なら、そんな真面目にやらなくて良いと思っているかのようだ。「もう十分だろ」乱暴にモップを突っ込み、バケツを持ち上げ、ドアへと向かう。 「眼鏡って幾らくらいするんだ」 「安くはないよ。フレームとレンズだけじゃなくて、視力検査とか、色々必要だしね」 「週末までに後5人分位処理したら、賄えそうか」 「笑えない、それ」  後片付けをしたら、オーナーは口止め料込みの特別手当をくれる。確かにこれは馬鹿にならない。今日も事務所へ戻るや渡された50ドルを黙ってジーンズのポケットにしまいながら、けれどエリオット得をしたとか達成感だとか、ましてや将来の展望だとか、前向きな感情を全く抱けなかった。

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