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第1話
携帯電話も財布も持たない道行きはふわふわとしていて、どこへでも消えてしまえそうな圧倒的で頼りない自由があった。
地元の人間しか来ないだろう特徴のない海水浴場は、満月が高い位置に見えるこんな時間には人っ子一人歩いていない。
幼いころに祖母が亡くなって以来訪れていなかった瀬戸内の小さな島の海水浴場は、真夜中という時間のせいか、記憶があまりにも古いせいか、全く知らない場所のようだった。
水着もなければサンダルもない。
着の身着のままやって来たから、名瀬晴希 はスラックスをまくり上げ、革靴を手に持ったまま、裸足で波打ち際をひたすら歩いていた。
特に目的がある旅ではなかった。ただ海が見たくなったのだ。
元々レジャーの類は一切しない性質 だから、近場の海など全く分からなくて、幼い頃の記憶だけを頼りに新幹線に飛び乗った。
夏休みに母の実家のある島に連れて行かれ、日がな一日海辺であれこれと遊んだ記憶は朧げだが、暖かいものだ。
しかし、東京から瀬戸内の島へは思った以上に遠くて、最終フェリーでなんとかたどり着けたが、イメージしていたような賑わう海が見られる時間ではなくなってしまっていた。
仕方がないので小さなホテルに部屋を取り、こうして夜中の波打ち際を散歩しているのである。
自分の抱える鬱屈を全て鞄に入れてホテルに閉じ込められたようで、ひどく開放的な気分になっていた。
着替えもないが、別にいい。
晴希は靴だけを砂浜に置いて、まくり上げたスラックスの裾が濡れるのも構わず、寄せては返す波にゆっくりと向かっていった。
足首にまとわりつく海藻のざらつきも、生ぬるく濃い潮の香りも、一気に子供時代の感覚を蘇らせる。
足元の砂と一緒に引きずり込まれるその瞬間は、懐かしい海に歓迎されているようだ。
けれど、すぐに向う脛 を波に押し返されて、海が自分を見知った存在なのか測りかねているようにも思える。
懐かしい海にもっと受け入れてほしくなって、膝から太もも、更に腰まで波が来ても、構わず深くへ進み続けた。
その時ひとつの大きな波に飲み込まれて、晴希の体はなすすべなく引きずり倒された。
しかし流れに逆らわずに仰向いて体を水面に浮かべれば、月と星だけがあまりにも眩くて、空は海よりもよほど深かった。
ふと、切れ切れに男の怒鳴り声が聞こえた気がしたが、耳まで水に浸かっているのでよく聞き取れない。
語気荒く、必死で何かを叫んでいるようだ。
今は人間の声よりも耳の内側でちゃぷちゃぷ鳴る水音だけを聞いていたい。
そう思って、立ち上がりもせずに流れに身を任せていると、突然すぐ近くでバシャバシャと大きく忙しない水音がし出したので驚いて思わず身を起こした。
すると手を伸ばせば届く距離で、男が一人必死な形相で水を掻いている。
しかも泳いでいるというよりこれは…
「助けっ…あぶっ…」
溺れている。
晴希はぎょっとして手を伸ばし、必死でしがみつく男に「落ち着いてください。足がつきますから」と声をかけた。
パニックに陥った男にも、その言葉は過たず届いたらしい。
晴希の手には相変わらずすごい力でしがみついていたが、バシャバシャと暴れるのを辞め、おそるおそるといった様子で足を下に伸ばしたようだ。
体が真っ直ぐになってみれば、晴希よりも頭一つ分背の高い男が海の中にすっくと立っていた。
海面の高さは晴希の首元まであるが、男にとっては胸元までしかない。
男の体格はしっかりしていて、少し長めのパーマがかった茶色い髪といい、よく焼けた肌といい、いかにもサーファー然としているように見える。
男は晴希の手は離さないままだったが、月明かりでもわかるほど顔を一気に赤くした。
そして、気まずげな小声で
「泳げれへんのよ…」
と呟き視線を逸らした。
晴希は男の見た目とのギャップに思わず笑ってしまったが、同時にさっき聞こえた怒鳴り声が、「あかん!早まんな!」と叫んでいたように思い当たる。
見ず知らずの人間が死のうとしていると思って、泳げもしないのに自ら海に助けに入ってくれたらしい。
「怖い思いをさせてすみませんでした。海が久しぶりで新鮮で、つい深いところまで行き過ぎました。」
詫びつつも見知らぬ男の献身に胸が温まる想いがし、自然と微笑みがこぼれる。
儚げと評されることが多いその微笑みは、月明かりの海によく映えた。
男は一瞬言葉を失ったようだったが、
「俺こそ勘違いしてもうて…かえって迷惑かけてすんません」
と再度視線を逸らした。
しかし、掴んだ晴希の手を決して離そうとはせず、「はよ上がろ」と手を引いて、力強く水を掻いて歩き出した。
手を引かれたまま無事に波打ち際まで戻って来たら、晴希の靴はかなり離れたところにあって、自分が潮に流されていたのだと知れた。
男は勘違いで迷惑をかけたと言ったが、果たして本当に勘違いだったのだろうか。
ふと先ほどの自分を思い出す。
もう足がつかないギリギリのところまで来ていた。
全く泳げないわけではないが、もう何年もプールにすら行っていない自分が着衣のまま海で巧みに泳げるとも思えない。
でも、不思議と怖いとは思わなかった。
もしかしたら本当に命の恩人だったのかもしれない。
この命に助けてもらう価値があるのなら、だが。
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