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第5話

気怠い体を並んで畳に投げ出し、二人は長く黙ったままでいた。 汗はなかなか引かなくて、細かい砂が肌に張り付いてざらざらするけれど、潮を含んだ夜の海の空気に裸の体を晒してただ転がっているのは、案外心地がいい。 二人ともそれぞれの思いを胸に抱きながら、寄せては返す波の音に意識を委ねていたが、空が少し白み始めた頃に恭介がぽつりと口を開いた。 「一個だけ聞いてええ?」 顔は天井に向けたままで、呟くような小声だったから、晴希は一瞬それが自分への問いかけなのだと気づけなかった。 波間に揺蕩(たゆた)う自分の意識に、透明な海月(くらげ)がふわりと触れてきたような、そんな優しい感触の声だった。 「いいよ。一個だけ、なんでも答える」 何を聞かれてもありのままに答えられるという、とても澄んだ気持ちになっていた。 「あー…一個だけって言わんかったらよかった」 と恭介が突然脱力するように片手で自分の顔を覆ったので笑ってしまう。 やはり可愛い男だ。 「跡、ようけつけてもうたけど大丈夫なん?その…相手の人、あんたに暴力振るったりせん?」 予想外の問いで驚いた。 たった一つだけの問いが、相手を気に掛けることだなんて、この男は本当に。 さて、俺を所有物扱いしているあの人は怒り狂うだろうか。それともあっさり捨てるだろうか。 それとも、何も気づかないふりをして、これまでと同じように俺を抱き続けるのだろうか。 自分の体に痕跡(こんせき)を残されるのを嫌って、俺の体を雁字搦(がんじがら)めに縛り上げないと安心して抱けない臆病なあの人は。 「わからないけど、俺にとってはいいきっかけになったから、殴られても捨てられてもいいかな」 自分からは何一つ差し出しはしないあの男を、晴希は初めてずるい男だと認めることができた。 晴希の恋心を利用し続けてきたあの男。 俺を受け止めてくれるのはお前だけだと熱く囁きながら自分好みのプレイを強要し、終わればそそくさと妊娠中の奥さんの元へ帰っていく男。 晴希からの電話は禁じているのに、自分からかけた電話に晴希が出ないと、しつこくいつまでもコールし続ける身勝手な男。 もしかしたら今この瞬間も晴希の携帯電話は鳴り続けているかもしれないが、もう晴希には着信音の幻聴は聞こえてこなかった。 殴られるだの捨てられるだの物騒なことを言っているのに、どこかさっぱりとした様子の晴希をどう思ったのか、恭介が覆いかぶさり、唇に軽く触れるだけのキスをくれた。 「一個しか聞かんって言うてもたからこれは独り言やけども。俺は海水浴シーズンは毎年この海の家で働いとって、オフシーズンは海岸通りのcalmいうダイニングバーで働いとる、生粋の地元民なんよなー」 待っているとも言わず、何も押し付けず、ただそっと差し出されるその優しさ。 晴希も微笑んで一つキスを返した。 「今日は朝イチで東京に戻らないといけないんだけど、その内また、三丁目のお寺に祖母の墓参りに来ようかな」 これも独り言だけど、と笑うと、恭介と出会ってからのあの楽しさがまたふつふつと沸き上がってきて温かく胸を満たした。 どちらからともなく起き上がると、恭介は今度は深くて長いキスをくれた。 待っていると言いたい気持ち、待っていてほしいと言いたい気持ち、そして目の前に迫った別離への寂しさが、舌や唇からあふれて混じり合うような長い長いキスだった。 首に両腕を回してしがみつけば、しっかりと背中を抱き返してくれる。 キスをしながら、恭介の手が晴希の背中に張り付いた砂を優しく払い落としてくれたけれど、海から離れてしまうようで晴希は殊更に寂しさを感じた。 名残惜しげに唇が離れると、空はもう既に青みがかってきていた。 そろそろ、早朝の涼を求めて散歩する人たちが現れる時間だろう。 別れがたさを振り払って立ち上がり、体中の砂を払う。 体も髪ももうすっかり乾いていて、海の名残もシャワーの名残もどこにもない。 ただ、朝の光の中で改めて自分の体を見下ろせば、無数の赤い跡と歯型が散らばっていて、縄跡だけが刻まれていた今までの自分の体とは印象が全く違っていた。 ふと、自分は海に飲み込まれて既に一度この肉体を手放したのかもしれないと思った。 瀬戸内の夜の海と、昼の海のような男に飲み込まれて、昨日までの自分の体はもうどこにもない。 海に新しく作り直されたこの体なら、溺れることなく泳いでいけると思えた。 荒波を乗り越えて、またこの海まで。

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