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第38話

 六花から急かされて早めの湯浴みを終えた九曜は夕餉を摂った。  九曜は食べ物が喉を通らなかった。  翼弦が帰ってくるのだ。早めの帰宅であれば、九曜は就寝までの時間を彼と過ごすことになる。  それを考えると、食が進まないのだ。  六花は九曜の内心を知りながら、全く気が咎めないようだ。九曜の側で冷徹な顔をして食欲増進のお茶を器に注いでいる。 「たくさん食べて精を付けていただきませんと」 「目的がわからない」 「いずれ洞主様の御子をお産みいただかなくてはならないのですから」 「私はまだ心の準備ができていない。その旨はお前に伝えたはずだ」  言い切って九曜は箸を置いた。 「こうも脅迫的に迫られては気が滅入ってしまう」 「申し訳ありません。少々急かし過ぎてしまいましたわ」  六花は我に返って窓の方に歩いて行って外の空気を吸った。  丸窓の外は月が輝く夜空の下に月光を受けた壮絶な雲海が広がっている。  美しい光景なのだが、九曜は同時に、ここは地上ではないのだと思い知らされた。  逃げ場のない天空の閉ざされた空間で翼弦の求愛をかわして生き続けるのには限界がある。  海路の日よりが訪れるのはいつの日か。  訪れることなどあるのだろうか。  考えれば考えるほど九曜は本格的に気が滅入ってきて、ついにうなだれた。 「九曜様、お加減でもお悪いのですか?」 「うん……なんだか、胃の調子が……」  九曜が腹を押さえると、六花が九曜の側へ駆け寄った。 「それはいけませんわ。もうお休みになられた方が……洞主様が帰って来られたらお伝えしておきますから」 「そうしてくれるか」  九曜は立ち上がると、六花に介抱されて続きの間である寝所へ向かった。  その時だった。  凌雲山全体が騒がしくなった。  九曜にはそれが洞主の帰還を意味するものだとわかった。 「お帰りですわ」  触れ合う六花の手から、彼女が一刻も早く洞主のもとに駆け付けたいという気持ちが伝わってきたが、九曜は無視して彼女に寝所まで介抱してもらった。  九曜が布団の中に入った直後に他の侍女が駆け足で部屋に入ってきた。 「九曜様にお伝えします。洞主様のお帰りでございます」  六花が入口に出て応対する。 「生憎ですが九曜様はお加減が悪いので、お迎えに出られません」 「それが、洞主様は今、こちらへ向かっておりますの」 「えっ?」 「ひどくお酔いになられているらしく、私どもの言葉を聞いていただけません。九曜様のお顔を見に、もうすぐこちらへ参られますのでお迎えをお願いします」  そう言うと慌てふためく六花を残して取次ぎの侍女は寝所から去って行った。  入れ替わるように王者の気配が押し寄せてくるのが九曜の五感を超越した感覚器に触れた。言う間でもなく仙洞を支配する翼弦のものだ。侍女の言うように、泥酔しているようだ。  理性を失った翼弦から操を守れる自信がない。咄嗟に判断した九曜は口元に手を当てて心因性の吐き気を堪えながらこの場から逃げるために身を起こした。        

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