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第37話

 霊石のある部屋に引き籠って養生していた翼弦がついに部屋を出て、凌雲山にはもとの活気が戻った。  翼弦は早速かねてから約束していた仙人の会合に出席するために山を後にした。  九曜はというと、いつも通りの生活を送っていた。といっても、監視は強化されているが。  昼下がり、自室の籐製の長椅子で書物を読む九曜の側には六花が控えていた。椅子に座って大きな扇で風を送っている。額の傷は九曜の治療の甲斐があって完全に癒えていた。  九曜は書物から視線を少し上げて、庭を眺める六花を覗き見る。  六花の眼差しは以前と違っていた。主君に忠誠を誓っていた。もう袖の下で融通を利かせてくれるような柔軟な娘ではないのだと彼は悟った。  彼は小さく吐息する。木龍と逢瀬を楽しむ機会は当分なさそうだ。 「翼弦様は」 「はい?」  九曜が言葉を発すると、六花はすぐに彼の方を振り向いた。 「翼弦様は会合からいつお戻りになられるのだ? 午睡を取っているうちに行ってしまわれたから」 「洞主様はお優しい方ですから、良い気持ちでお休みされている九曜様をわざわざお起こししないようにと仰いましたので、ご命令に従ったまでのことですわ。お帰りは今日の夜のご予定でございます」 「そうか……」  九曜は落胆した声にならないように努めて返事をした。 「今日は早めに湯浴みなさいますか?」 「なぜ?」 「洞主様をいつでもお迎えできるように身ぎれいになさった方がよろしいのでは?」  六花のそれは有無を言わさない口調だった。 「任せる」  書物を閉じて膝に置く九曜の手は、心なしか震えていた。  彼は唯一の味方がいなくなるのを実感した。  六花はもう同じ過ちは犯すまいと、九曜の側に木龍を寄せ付けない。  木龍と話す機会が得られないのは、彼と木龍が凌雲山から脱出する日が遠のくことを意味する。  その間に、翼弦が距離を詰めてくるのだ。  生きてきた年数も知恵も格段に差がある神仙の翼弦を避け続けるのはたやすいことではない。  逃げる算段を考えあぐねているうちに、いつしか、身も心も彼の手中に収められてしまうことにならないだろうか。  数日前の晩、胸中の不安を吐露した木龍の台詞が九曜の脳裏をよぎる。 ──俺はどうあがいてもお前を連れ帰ることができないんだろうか。俺は翼弦の妃となったお前を遠くから眺めて、このまま下働きの木龍として惨めな一生を終えるんだろうか。 (そんな生活、私に耐えられるわけがない。私はお前だけを……) 「今宵は部屋に特別な香を焚いて、洞主様をお迎えいたしましょうね」 「六花、言っておくが、私は夜伽などしない」  気色ばんで言うと、六花は差し向けられた刺客のような鋭い目で九曜を睨んだ。  「この期に及んで、往生際の悪いことを」 「翼弦様は私に無理強いしたりしないぞ」 「そろそろお気持ちをお汲みになられてはいかがですの? あまりお待たせするのは洞主様に対する侮辱でございますわ。こう言ってはなんですけれど、洞主様のお怒りを買うことになれば九曜様のお命だって……」    六花の態度は汚名を挽回せんと、焦燥に駆られているようにも見えた。   椅子から立ち上がり、扇を置いて支度を始める六花はどこか殺伐としていた。  何としても九曜が主君と結ばれるように仕向けようとしているのが見てとれる。  先日の一件で自分が担っているのは郷里の命運でもあるのだと思い知らされたのだ、無理もない。   

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