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第36話
六花の手当をした九曜は自室に戻った。
侍女の六花は負傷していない。翼弦がいれば見張りをつけるのだろうが、九曜の部屋には誰もいなかった。
静かな部屋の寝台に疲労した身体を投げ出した九曜は、眠りに落ちた。一瞬眠って、目を開けた彼は目の前に信じられないものを見た。
何とそこには木龍がいた。
九曜は驚いて身を起こした。
「ど、どうしてここにっ」
九曜の声で目を覚ました木龍は、ゆっくりと九曜を見上げる。
「お前と一緒がいいから来た。翼弦はしばらく不在らしいからな」
「それは……そうだが」
「六花の傷の具合はどうだった?」
六花、と聞いて、九曜は不快気に眉を寄せる。
「それほど酷くはなかったが、誰からも介抱されていなかったから回復に時間がかかるかもしれない」
「誰からも?」
九曜の気持ちをよそに、木龍は心配そうな顔をした。
「六花は新入りだからな」
「ああ……」
九曜は木龍の納得した表情の中に不審なものはないか、暗闇の中で目を凝らす。
牢の中で木龍とお互いの気持ちを確認し合い、六花を憐れんで治療を行えるほど満ち足りた気持ちになった九曜だったが、目まぐるしく変わる天候のように、彼の心模様は変わる。
それに、まだ聞いていないことがある。蚩尤紋の玉佩のことだ。
自分の家の意匠を他者に与えるなど、何らかの思惑がないわけがない。
「幻以、お前に一つ尋ねたいのだが」
「何だ?」
「六花に与えた玉佩は……どういった意図がある?」
尋ねながら、九曜は自分の目が拗ねてしまうのがわかったが、どうにもならなかった。
ついに顔を背けてしまった九曜の頬に、木龍の大きな手が触れる。
そのまま九曜の顔を自分の方に向けさせると、彼は九曜の顔をじっと見上げた。
木龍の黒い目は愉悦に浸るかのような輝きを一瞬見せて、封じ込めた。
「不快にさせてしまったか?」
「別に……」
「嘘を吐くな。顔に書いてある」
静かだがよく通る声で木龍は言った。
指摘されても九曜は動揺を押し隠した。
「お前を信じている。私が狭量なだけだ」
「……六花は死んだ末の妹に似ているんだ。流行り病で死んでしまった。兄として何かしてやりたかった」
「……それを早く言え」
九曜は悟られないようにそっと息を吐く。
幻以という男は基本的に他人に対して無関心だが、身内には過干渉な上にことのほか甘い男だ。
仙洞で修業していた時には甥っ子を猫可愛がりしていて、身びいきが目に余るほどだった。
六花の件で幻以が死んだ身内に似ているというだけで施しを与えるのだと知って、九曜は少々呆れた。
呆れつつも、彼は唇の端が徐々に上を向いていくのを感じた。
月の光が微かに室内を照らしている。
闇夜に青白く浮かぶ九曜の顔が、木龍の目に妖艶に映り、彼は目を細めた。
「今宵お前と逃げることはできないか?」
「無理だ。翼弦様は消耗した体を癒すために引き籠る前に凌雲山全体に結界を張った」
翼弦が引き籠る前に九曜に残した置手紙に書かれてあった。
九曜が逃げ出そうとすれば、たちまち衛兵に取り囲まれる、と。
九曜が言うと、木龍は悲壮な顔をした。
「俺はどうあがいてもお前を連れ帰ることができないんだろうか。俺は翼弦の妃となったお前を遠くから眺めて、このまま下働きの木龍として惨めな一生を終えるんだろうか」
「お前にしては弱気なことを言う。二人で修法を続けていれば、力が付いて、いずれ海路の日よりが訪れるさ。神仙に立ち向かうにはそれしかない」
そう言うと、九曜は身を屈めて木龍に口付けした。
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