1 / 2

第1話

チリンチリンという自転車のベルの音と、誰かの笑い声が背後から迫ってくる気配がして、 白伊真澄(しらい ますみ)はイヤホンを外した。  自転車に乗ったクラスメイトの酒井が、青山を追いかけまわしているのだ。毎朝毎朝、飽きもせずに元気だな、と思う。 「委員長おはよー!」  ふたりは挨拶しながらあっという間に白伊を追い越して、こちらが「おはよう」と返す暇もない。  委員長とは白伊のことで、高校二年に上がった四月に決まった。  ふたりが行ったことを確認して、再びイヤホンをつけなおす。最近深夜のラジオで知ったバンドの曲が流れ込んでくる。爽やかなピアノのイントロが朝にぴったりだ。 前方にいる青山が通りすがりに誰かの背中を叩いた。 叩かれたのは古瀬(こぜ)だった。 少しよろけて、また歩き出す。 これもほぼ毎朝の光景だ。      教室の真ん中で、青山たちが大声で騒いでいた。その集団は揃って声がでかいから、話の内容が勝手に聞こえてくる。 今朝の話題は明らかに下ネタだった。 ぎゃははという笑い声が教室に響く。彼女と初めてホテルに行ったらしい。周りでそれを聞いていた女子が、メイクを直しながら「ねー朝から盛んないでぇー」と高い声で笑った。 ……目立つグループは男も女も下品で嫌いだ。心底どうでもいいが、高校生でもホテルって入れるのか?と疑問に思う。でもこういう奴らって、垢抜け方を知っているから制服を脱いで着替えでもすれば大学生に見えるんだろう。  宿題があった英語のテキストを机に広げると、それを見計らったかのように隣の席から清水が声をかけてきた。  「委員長!宿題」  「やってないよ」  「えぇ!?」  白伊をあてにしてきたであろう清水は大袈裟に驚いてみせた。嘘だ。本当はやってきてる。毎回見せていると便利なやつにされることは中学生の時に学習済みなので、白伊はこうして時々躱すようにしていた。 清水は端から自分でやるという選択肢がないのか、「まじかー。他にやってるやつおらんかな」と言ってきょろきょろと教室を見回して去っていった。  教室の真ん中では「げ、今日英語当てられるんだった!なんもしてねー!」と酒井が声をあげている。オレもオレもと周りも次々言い出して、「いいんちょー」と一斉にこっちを見てきた。内心でみんなクズかよと思う。白伊は胸の前でバッテンをつくり、やってませんとアピールをした。委員長もやってないのかよーと笑われ、うんざりする気持ちを抑えながら「ごめんね」と言っておいた。なんで自分が謝ってんだよと思ったけれども、こうしておく方が無難だろう。 どうするかな、と見ていると、酒井がズカズカと古瀬のところに寄っていきテキストを奪っていった。集団はエサにありついた獣のように古瀬のテキストに群がり、回答を写していく。  古瀬はしばらくその集団の方を見ていたが、酒井の「すぐ返すから!」という声に小さくうなずいて本を読み始めた。  ――断ればいいのに。  白伊の席は窓際の一番後ろなので、同じ列の古瀬の背中は視界に入る。周りの男子と比べると体型は一回り以上小さくて、華奢で、後ろから見ると女子のそれと大差ない。色素の薄い髪は、窓から差し込む光に照らされ、天使の輪を作っていた。  古瀬は、あまりクラスに馴染んでいない。いじめというにも微妙なラインで、からかっている側はきっとそんなつもりはないんだろう。一度、青山が「古瀬ってノリがあわねぇ」と言っていたのを聞いたことがある。白伊が古瀬と話したときは特に何の違和感も持たなかったし、普通じゃん、と思った記憶があるのだが。この世には「なんとなく合わない」というだけで理不尽に嫌われてしまうタイプがいるのも、白伊は知っていた。  古瀬は毎朝ふざけてぶつかられても、テキストを奪われても、いつも困ったように笑っていた。それがあいつらをつけ上がらせるんだろう。  古瀬は何をしても怒らないから、何をしてもいいと思われている。  八時半のチャイムが鳴って、教室の真ん中を占領していた集団も自分たちの席に着き始める。酒井が古瀬に向かって「受け取れよー」と言ってテキストを投げた。酒井の席は廊下側だ。窓際にいる古瀬まで届くわけがない。案の定テキストはバサッと音を立てて、教室の半分もいかないところで落ちた。  「あっ。ごめーん」  全然反省してない声だった。 古瀬は静かに席を立ち、床に落ちたテキストを拾ってまた自分の席に戻る。その光景を見ているのは白伊だけなんじゃないかと思うくらいに、周りは古瀬に無関心で、ざわざわとうるさかった。

ともだちにシェアしよう!