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第1話
【1】
夜の図書館は少し不気味で、かなり居心地が良い。静寂の奥で本の賑やかな存在感を楽しむことができる。
都立図書館に勤める文森(ふみもり)章(しょう)は、残業を終えた同僚たちを見送って、コンビニ弁当を開けた。定時には消灯される職場で、章のデスクライトだけが煌々と明かりを灯していた。
「いいのかな、文森くんに本の修復押しつけちゃって」
「いいのいいの、絶対断らない人だし。クリスマスイブにコンビニのお弁当食べてるくらいだから用事なんかないって」
「顔は悪くないのに、なんか地味だし、そのくせ本のことになるとうるさいし、残念な男子だよね」
帰宅する同僚たちが、聞こえているとも知らずに廊下で内緒話をしている。
ちらりとストック棚の本に目をやった。今日、小学生が破いてしまったと謝罪しながら返却してきた児童書が置かれていた。本当なら今しがた帰った彼女たちの仕事だが、涙目で謝っていた女児のためにも「早めにきれいにしてあげた方がいい」と進言すると、じゃあお前がやれと言わんばかりに押しつけられてしまったのだ。
彼女たちの言う通り、二十六歳という青年期真っ盛りに、クリスマスイブの予定はなく、本に囲まれて一人残業している残念な男なのだから、押しつけられるのも仕方ない。
章は冷めた弁当をかき込み、昨年までは予定があったのにな、と心の中で愚痴る。
自分を育ててくれた祖母が、鶏の煮込みを用意して帰りを待ってくれていたからだ。その祖母も半年前に肺炎で他界。中学生のころに事故で両親を亡くした章は、祖母の死によって本当に天涯孤独になってしまった。
なぜクリスマスに鶏の煮込みなのかというと、「クリスマスはチキンを食べるんだよ」という章の言葉を、鶏ならなんでもいいと勘違いして煮込みにしたのがきっかけで、毎年の風物詩となったのだ。
(今年はもう、食べられないんだよなあ……)
目頭が熱くなるのを振り切るように、今夜すべき本来の業務に目をやった。
縦二十五センチ、厚さ十五センチもある本。表紙は赤い山羊革、本文は金属活版。中世の貴重書だろう、と章は思った。先日古書店が、亡くなった方の書庫整理で発見し「貴重な物では」と持ち込んできたのだ。
児童書の破れを丁寧に修復すると、章は出所不明の古い本を開いた。
丸みを帯びた文字が横に並んでいるが、全く見たことがない言語だった。とはいえ、章も全ての言語を知っているわけではないから、調べればすぐにどの国の本かくらいは分かるだろう。国が分かれば、本の扱いをどうするかは決まってくる。
「どうみても五百年は前の物だろうから、早く修復してきれいにしてあげたいな」
背表紙が破れたり、表紙が取れかけたり、ページの破損があったり――。決して保存状態の良い物ではなかった。
本好きが高じて図書館の司書となり、本の修復作業をきっかけに、インキュナブラ(貴重書)の修復技術を学ぶ司書のサークルにも入った。役目を終えたかのような古い本が、命を与えられたように凜と書棚に並ぶ姿が好きで夢中になった。
きっとこの本も、革の細工や装丁を見るに、かつてはとても重要な働きをした本に違いない。よく見ると、二匹のヘビが絡み合って「∞」のような形になっている紋章が彫られている。紋章入りとなると、どこかの王家にまつわる書物かもしれないのだ。
ボロボロのその本が、章には早く修復してほしそうにしている気がした。
(修復したら、どんな〝顔〟になるのかな、君は)
本にまるで人のように話しかけ、奥付を見る。すると、見慣れた文字が並んでいた。
日本語だ。
――自分の人生の主人公は、一人しかいない。
亡くなったという持ち主が書き込んだのだろうか。
「それにしては……文字もインクも、ずいぶん時間が経過している……」
その文字を、そろりと指でなぞった。
日本語だからではなく、なぜか見覚えのある文字のような気がしたのだ。
「自分の人生の主人公は、一人しかいない……か」
章は、自分の生きてきた二十六年間を振り返り自嘲した。
両親に死なれ、本好きが高じて図書館の司書になれたものの、地味な性格の上、本のことになるとことさら熱くなるせいで同僚となじめないまま今に至る。最後の肉親である祖母も亡くした。
貧乏くじ、ハズレくじ。「あなたの人生を一言で表すなら?」と問われたら、そう答えるだろう。
「物語のように華々しい人生だったら、喜んで主人公を演じるのにな」
事務所入り口にある立派な柱時計が、ボーンボーンと鳴る。振り返ると午後九時だった。大正時代の貴重な物だということで寄贈され、今も現役で時を刻む。振り子を覆ったガラスに、自分の姿がぼんやりと映った。
(冴えない顔してるなあ)
生まれて一度も染めたことのない黒髪は、短く整えてはいるものの朝の寝癖がついたまま。二十六歳のわりには幼いと言われる顔も覇気がない。
ワイシャツの上に羽織った紺色のカーディガンは祖母の手編みで、少しだぼついている。二十歳の誕生日に「まだまだ大きくなるでしょう」と大きめに編んでくれたのだが、章は当時の百六十八センチから一ミリも伸びなかったからだ。
章はカーディガンの袖を顔に寄せ、すん、と匂いを嗅いだ。
まだ少し、祖母の香りがする気がして。
(帰って仏壇に線香でもあげるか)
章は開いていた古い本をそっと閉じた。
その瞬間だった。
本の表紙の山羊革が光ったのだ。彫られた紋章に金を流し込んでいるかのように、光の筋が走る。
「えっ、電気仕掛け……いや、そんなのどこにも」
本を再度開こうと両手で触れた瞬間、真っ暗だった職場が光に包まれた。古い白熱灯のような温かい光に。
「なんだこれ」
章は本を手にしたまま、周囲を見回す。
突如、足下の床が消えた。消えたということは、重力がある限り落ちるということだ。
「うわああっ」
とてつもないスピードで、身体が落下する。
ああ、死ぬのか。
残業していた図書館で何が起きたのか、章には分からなかったが、このスピードで落下していれば地面に叩きつけられた瞬間、即死だということは分かった。
こういうとき、悪くない人生だった、と振り返りたいところだが、全然よくない。ハズレくじの人生だった。でも祖母に会えると思えば――。
何秒落ちていたのだろうか、急に落下スピードが緩む。重力に逆らったかのような状況に驚きつつ、章はドサリと地面に倒れ込んだ。
「うわっ」
誰かを下敷きにしてしまったようだ。ついでにどさどさっ……と本がなだれ落ちてくる。図書館の地下に落ちたのだろうか。
「大丈夫?」
低くて穏やかな声が、振動とともに伝わってきた。なぜ振動と一緒かというと、自分がその声の主を下敷きにしているからだ。
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