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第1話 追い詰められて見る夢は〈side篠崎〉

 足がもつれる、息が苦しい。  背後に迫るのは、獣の唸り声とアスファルトを抉るような爪音。時折僕を威嚇するように吼える何かを振り返る余裕もなく、僕は必死に走って逃げている。 「うわっ!」  全速力で走っているつもりだが、ごみごみした路地裏に放置されていたビール瓶に蹴つまづいた。つんのめった僕は、ビジネスバッグを抱えたまま汚い路地裏に顔から突っ込む。  顔から火が吹き出すような痛みにうめき声を漏らしながら背後を振り返ると、ずらりと鋭い牙の並んだ大きな口が、よだれを撒き散らしながら僕に向かって大きく開かれて——…… 「……はっ!? はぁ……ゆ、夢か」  血みどろであろう顔をべたべたと手で触ってみるも、そこにあるはずの傷はどこにもなかった。ほっとして長い長い息を吐き、僕は汗だくになったパジャマをのろのろと脱ぎ捨てる。 「はあ……また追いかけられる夢だ。この一か月、ずっと追いかけられてるな……」  はじめはニワトリ、次の日はヤギ。可愛い動物に追いかけられている間はまあ、よかった。    羊、牛ときて、次はゾウ、カバ、シマウマ。そしてジャッカル、野犬の群れ……と、だんだん恐ろしい動物が追いかけてくるようになってからというもの、僕はすっかり睡眠不足だ。  シャワーを浴びてスッキリしたかったけれど、そんな時間はない。朝食を食べている暇もない。早く出社して仕事を進めなくてはいけないからだ。  一緒にプレゼンの準備を進めている先輩はとてもこわい人だ。イケメンだし、仕事がべらぼうにできて格好がいいのだが、この企画を手伝ってくれるようになってからというもの、僕に対する態度が特に厳しくなった。そのため、気の弱い僕は毎日胃の痛い思いをしている。  ——『おまえのために言ってるんだよ』  それが先輩の口ぐせだ。  きびしいことを言うのは、この先僕が社内で自立していくために必要だからだ。入社三年目を迎えているのに、いつまでも新人気分の抜けない僕に喝を入れてくれているのだ。……それはわかっているのだけれど、もう少し、言葉を選んでマイルドに伝えて欲しいものである。 「……胃が痛い。けど、なにか腹に入れておかないと」  冷蔵庫を開けてみるけれど、入っているのは缶ビールと賞味期限の切れた惣菜が数品。夜中に帰宅し、晩酌をしてから寝ようと思って買って帰ってくるものの、食べる余裕もないままベッドに沈むようにして眠ってしまう。  元は美味しいものを食べるのが好きだし、だからこそこの会社に入ったのに、最近は食欲も湧いてこない。  しかたがない、会社の前にあるコンビニで何か買おう。僕はよれよれのシャツにネクタイを巻き、上着を掴んで家を出た。   + 「おい篠崎、またそんな格好で。明後日にはお偉方の前でプレゼンなんだぞ、もっとシャキッとした格好できないのか」 「……す、すみません」  先輩は——名前を大城(おおき)亮一(りょういち)さんというのだが、いつもシワひとつないワイシャツにパリッとしたジャケット、しゃれたネクタイを首に巻き、ぴかぴかに磨かれたかっこいい革靴を履いている。僕とは違い、鳶色の髪の毛にもいっさい乱れはなく、いつ見ても完璧な装いだ。  僕より頭ひとつ分上の方から、キリッと鋭い大城さんの視線が降ってくる。その視線が痛い。多分、この寝癖のせいで睨まれているのだろう。かろうじて顔をざぶざぶ洗って歯磨きを済ませたけれど、髪の毛に気を配る暇がなかったせいだ。  すこし伸びかけた黒髪をあちこち跳ねさせているなんて、社会人にはあるまじきだらしのない格好だ。明るいオフィスの窓ガラスに映る自分の姿を見て、あまりの至らなさに僕はへこんだ。 「じゃ、今日も練習付き合ってやるから。会議室行くぞ」 「は、はい」 「……おいおい、なんだその返事。資料は揃ってるんだろ? お前の企画なんだ、シャキッとして気合い入れろ!」 「は、はい!!」  この数年、うちの会社の利益は右肩下がり。上からは起死回生となる新製品を企画せよとプレッシャーがかかっていて、たぶん、大城さんは僕以上にたくさんの責任を背負っているはず。  だけど、このひとが弱音を吐いているところを僕は見たことがない。いつでも堂々として、かっこいい先輩だ。僕より二年ほど長く企画部に在籍しているだけなのに、すでにいくつものヒット商品を世に送り出している。  僕の企画書に目を通したとき、大城さんは鋭い瞳をぎらりと光らせ、『よし、これでいこう。発案者のお前がプレゼンするんだ』といって、僕の背中を力強く叩いた。  プレゼンは大城さんが担当してくれるとばかり思っていたから、僕は正直仰天した。人前に立ってものを言うのが苦手だと、部内の全員が知っている。だからこそ、僕は黒子のような存在でいい。もし企画が通ったとして、目立った手柄はすべて、大城さんが持っていってくれればいい——そう思っていたのに、まさか僕が矢面に立たされることになろうとは。  ——ひょっとして大城さん、この企画がぽしゃると思ってるから、僕にプレゼンを担当させようとしているのかな……?  もし失敗すれば、僕の経歴に傷がつくだけ。だって僕の企画だし、僕が勝手にすべって転ぶだけ。大城さんにはなんの迷惑もかからない。  ——でも、当然だよな。発案者は僕なんだ。失敗するのは僕の勝手だ。  大城さんとふたりきりの会議室でビシバシ厳しい意見をぶつけられながら、僕はキリキリ痛む胃をそっと押さえた。  + 「待てオラァァ!! 逃げんなやワレェ〜〜!!」 「ひぃぃぃ!!」  昨日はオオカミの群れに追いかけられていたが、どうやら今日はヤクザらしい。  しかもひとりやふたりじゃない。ガラの悪いチンピラ風の男たちが黒い群れとなって僕を追いかけてくる。  いったい僕が何をしたというのだ。借金をした覚えもないし、ヤクザの組長の奥さんに手を出したわけでもないのに。  汗ばんだワイシャツが肌に張り付く感覚も生々しく、革靴でアスファルトを蹴る感覚もやたらとリアル。おまけにぜぇぜぇはぁはぁと息が上がって苦しくて、僕は重たい足をなんとか回転させながら、ヤクザから逃げている。 「ええかげん止まらんかいドアホ〜〜!! そこになおれやァァ!!」 「と、止まりません……!! てかなんで追いかけてくるんですか……!?」 「知るかボケェ〜〜!!」  知らないのかよと内心つっこみながら、僕は路地裏の角をぐるりとまわり、さらに細い道へと突っ込んでゆく。疲れすぎて目が回るし、肺がつぶれてしまったのではと錯覚してしまうほどに胸が痛い。これ以上走り続けることなんてもうできないと身体は悲鳴をあげているけれど、ここで立ち止まったらヤクザにどんな目に遭わされてしまうのか……!? 「はぁ、なんで、僕が……こんな目に……っ……!?」  もはや走ることさえできていないが、どういうわけかヤクザは追いついてこない。遠くうしろのほうで「まてこら〜〜!」と叫んではいるけれど、どうやら追いつかれる心配はなさそうだ。だが。 「コラ篠崎ィ!! こんなとこで何やってんだお前はァ!!」 「ひぃぃ!! 大城さん!?」  次の角を曲がったところで突如姿を現したのは、魔王がごとき黒いマントに巨大なフォークのような杖を手にした大城さんだった。  ふだんはきちっと撫でつけられた髪の毛を逆立て、閻魔大王を彷彿とさせるような憤怒の表情で、僕を厳しく睨めつけている。 「な、なんで……!? なんで先輩がここに……!?」 「なんでもクソもあるかぁ!! そのシワシワのシャツをなんとかしろ!! 髪を切れ!! その青白い顔をなんとかしろ!!」 「なんとかしろって言われても……」 「そんなしみったれた顔で企画が通るとでも思ってんのかあァァン!? お前がコケたら俺も道連れなんだよ!!」 「そ、そんなこと言われても……」  ヤクザが去ったと思ったら、今度は大城さんがものすごいスピードで追いかけてくる。  僕は死にものぐるいで逃げた。逃げて逃げて逃げまくった。だが大城さんは止まらない。ヤクザよりもよっぽどすごいスピードで追いかけて、追いかけて……。 「はっ!!」  そこで目が覚めた。今日も今日とて汗だくだ。  時計を見ると、まだ午前五時。空はうっすらと白んでいて、スズメの声がちゅんちゅんと平和に響いている。 「……ゆ、夢か……はぁ……」  だが、今日はいつになく身体が軽い。  昨日大城さんが「今日は定時で上がれ」と僕をオフィスから追い出し、そのまま「飯食って帰るぞ」といって、駅前の定食屋で夕飯をおごってくれたのだ。  久方ぶりに、まともな時間にまともな食事をとった。大城さんも食事の間はずっと無言で、もりもりと白飯を掻き込んでいた。そして帰り際、「とりあえず帰ったらすぐに寝ろ。業務命令だ」といって、僕を電車に押し込んだのだった。  僕は素直にまっすぐ帰宅し、そのまま寝た。たぶん、八時間あまりは眠っただろうか。  ここ最近の睡眠不足が解消されたのか、頭はいつになくすっきりと冴え渡り、怠重い身体にも力が戻っている。 「……とりあえず、身だしなみ」  身だしなみについては、常日頃から大城さんからうるさく小言を言われ続けている。僕はクリーニングから戻ったばかりのシャツとスーツをクロゼットから取り出して、シャワーを浴びるべく浴室に向かう。  よく眠ったおかげか、少し心に余裕があるのがわかる。ふと、魔王みたいな衣装で僕をおいかけてきた大城さんの姿を思い出し、自然と小さな笑みがこぼれた。  だって、あの完璧な大城さんが、真っ赤な顔して全髪を逆立てて黒マントに黒パンツ。  いちど笑いがこぼれると止まらなくなってしまって、僕はシャワーを浴びながら涙を流して笑い転げた。   +  お偉方のみなさんから称賛の拍手を浴びつつ、僕は深々と頭を下げた。  頭を上げた僕は壁際に立って手を叩いている大城さんを見やり、こくりと小さく頷く。 「おつかれさん」  オフィスに戻って仕事をしていると、コトンと缶コーヒーがデスクに置かれた。たまたま空いていたとなりの椅子にどさりと腰を下ろした大城さんは、なぜだか僕よりもずっと疲れた顔をしているように見える。 「たいへんお世話になりました。企画がすんなり通ったのも、大城さんのおかげです」  うやうやしく缶コーヒーを受け取り、僕はふかぶかと頭を下げる。すると大城さんは脚を組み、自分のぶんの缶コーヒーをプシュッと開けた。 「本当だよ、すげぇ疲れたわ」 「え? 大城さんも疲れたんですか?」  僕が疲労困憊するのは当然として、どうして大城さんが疲れるのであろうかと首をひねる。  すると先輩は缶コーヒーを一気飲みして、長いため息を吐いた。 「そりゃそうだろ。後輩の大事な企画だ、しっかり通してやんないと」 「えっ」 「いい企画だと俺も思った。だからこそ、な」  ”いい企画”——その言葉が胸の奥に染み込んで、ぽっとあたたかな熱を持つ。  大城さんは唇をきゅっと吊り上げてニヤリと笑う。 「それに、お前にももう後輩がいるんだ。いつまでも誰かの陰に隠れてこそこそされてちゃ困るんだよ。そろそろ俺にも楽をさせてくれ」 「あ……す、すみません」 「さぁて、これから忙しくなるぞ。お前は企画責任者なんだ。ぼやぼやしてる暇、ないからな!」 「は、はい!」  力強く肩を叩かれ、僕は大きく頷いた。  パリッと糊のきいたシャツの袖を捲り上げ、キビキビと先を歩く大城さんの背中を大急ぎで追いかけた。

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