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第2話 距離感、大事〈side大城〉
第一営業部に二年、そこから商品企画部へ異動して三年目の春。
篠崎 真 が、新入社員として俺の目の前に現れた。
「は、はじめまして! 一ノ谷大学経営学部から来ました、しのしゃき……っ、篠崎です、よろしくお願いします!」
痩せた身体と童顔で、まったくスーツがさまになってない新人だった。傍目に見ても緊張しているのが丸わかりの固い表情に、たどたどしい口調が痛々しい。
各グループ合わせて三十人程度の商品企画部社員たちの前で行う自己紹介で噛みまくり、女性社員から「がんばれー」と苦笑混じりの声援を受けていた。
篠崎が冷や汗を拭いながら「は、はい、がんばります」と強張った笑顔で応えると、女性社員たちが小さく拍手を送る。
俺もぱらぱらと拍手を送りながら、多少呆れた。あんな調子で、よくこの大手企業に就職できたもんだ。
「こ、このように、人前で話すのが苦手です……が、みなさんのお役に立てるように頑張りますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします……」
真っ赤になったり真っ青になったりしながら、篠崎はがばりと頭を下げて着席した。
次に立ち上がった小生意気そうな男性新入社員の自己紹介がすばらしく流暢だったものだから、篠崎はさらに居心地が悪そうに小さくなり、額の汗を拭っていた。
つるんと綺麗に整えられた黒髪が、その拍子にわずかに乱れる。ぷるぷる震える白い指で額にかかっていた前髪を指先でよけると、篠崎の強張った顔がようやくはっきり見えた。
——……へぇ、可愛いな。
派手な美人系の男が好みだと自分では思っていたけれど、篠崎の慎ましげで清楚な容貌を、俺はめちゃくちゃ可愛いと思った。
今は緊張のせいか眉間に皺が寄っているし、視線もキョロキョロ泳いでいる。引き結ばれた唇は紙のように白くて心配だが、顔のパーツそれぞれの配置はバランスがよく、よく見るととても端整な顔をしている。
——スタイルもいいし、ダサいスーツ着せてんのがもったいないな……。
他の新入社員の自己紹介を右から左へ聞き流しながら、俺は篠崎をじっと見つめていた。
もっと仕事に慣れて垢抜けてきたら、女性社員たちの目をかなり引くようになるだろう。……だが、そうなってほしくないような気持ちも湧いてきて、俺は小さくため息をついた。
——何考えてんだ俺。職場でそういうのはナシって決めてるだろ。
仕事がやりづらくなるのは困る。だから職場にプライベートは持ち込まないと決めている。
四年間この会社で過ごしてきたが、幸い心惹かれるような相手とは巡り合ってはいないため、この自分ルールは破られていない。
それに、篠崎は俺のいるグループに配属される予定だ。篠崎を含め、数人の新入社員の教育が俺の仕事になる。新入社員にとっては大切な時期なのだから、ここで私情を挟むわけにはいかない。
「うおっ」
「あっ……す、すみません!」
そう思っていた矢先、廊下の角から出てきた篠崎と思い切りぶつかってしまった。手にしていた書類がバサリと落ちる音が、人気のない廊下に微かに響く。
「あ……っ、すみません! 僕、ぼうっとしていて……」
「ああ、いいっていって。資料見ながら歩いてた俺が悪いんだし」
圧倒的に非があるのは、来週部長に提出するための資料をめくりながら歩いていた俺だ。だけど篠崎は真っ青な顔をしてしゃがみ込み、手早く資料を拾い集めると、おずおずと俺に手渡してきた。
「すみませんでした」
身長183センチの俺と間近で並ぶと、170足らずで痩せ型の篠崎はずいぶん小柄だ。申し訳なさそうに俺を見上げる篠崎からの不意打ちの上目遣いに、俺は内心「うっ」と唸る。
——やっぱり可愛い。近くで見るといっそう可愛いな……。
思わず動揺しかけたけれど、クールでかっこいい先輩を気取りたくて、俺は慌てて爽やかに微笑んだ。
「……い、いや、いいって。書類、サンキュな」
「は、はい」
俺を見上げる瞳の表情や、今日一日の俺への態度から推察するに、篠崎は俺にかなりビビっている。現に、書類を差し出す両手はフルフルと震えている。
そこそこガタイはいいほうだし、女子社員いわく『イケメンだけど、見慣れると派手でうるさい顔』をしている俺は、初対面の相手に怯まれることがよくある。だから、そういう相手への対応は慣れているつもりだ。
俺は即座に営業スマイルを浮かべ、「大丈夫だよ」といって篠崎を宥めた。警戒心を解くためにはまず笑顔だ。
「遅くまで残ってたんだな。みんなとっくに帰ったろ?」
「あ……はい。ちょっと読んでおきたい資料があったものですから」
「へぇ、熱心だな。すごいじゃん」
素直にそう褒めると、篠崎はちょっとびっくりしたような顔で俺を見上げた。そして少し困ったようでいて、同時にほっとしたような顔で、にっこりと微笑んだ。
「いえ。ご迷惑をかけないためにも、早く仕事、覚えたいので」
——うわ……かっわ……。
柔らかく目を細め、口元を綻ばせて笑う篠崎の表情はあまりにも可愛い。フワァ……と篠崎の背後にピンク色の花畑が見える程度には、俺は篠崎の初めての笑顔に魅せられていた。
ついでに、こうして動揺している自分にも相当驚かされている。
ゲイであるということを隠している俺には、まともな交際経験が全くない。
初恋は実らず、バーで出会った相手とセフレ関係を結んだり切ったりしつつ26歳になった。爛れた場数しかこなせてはいないものの、年相応に遊び慣れてきたとは思っている。
そんな俺が、学生くささの抜けない新入社員にドキドキしているなんて……。
「……あの、どうしましたか?」
「え? あ、いや」
数秒、ぽうっとしてしまっていたらしい。怪訝そうに俺を見上げる篠崎の視線にハッとして、慌てて笑って取り繕う。
『飯行かない?』『ふたりで飲みに行こうよ』と、すぐにここから誘い出し、篠崎のことを深く知りたい。あわよくばいい雰囲気になれば、そのま持ち帰ってしまいたい——……そんな欲望が爆発的に湧き上がってくる。
が、俺はグッとそれを堪えた。だって俺は、篠崎の職場の先輩だ。コンプラ的にも、公私混同には気をつけければならない。
「ま、まぁ……わかんないことあったらすぐ俺に聞いて。慣れるまで大変かもだけど、頑張ろうな」
「は……はい! ありがとうございます!」
ぱぁ、と顔を輝かせ、大きく頷く篠崎の表情もまた可愛くて、可愛くて……。
溢れそうになる下心を必死で飲み込み、努めて爽やかな台詞を吐き、頑張って篠崎に背を向ける。
そして、走ってオフィスに戻ったのだった。
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同じグループのメンバーとして仕事をしていく中で、初対面で抱いた篠崎の頼りないイメージは徐々に覆されていった。数ヶ月経っても篠崎は気弱な態度のままだったが、とても堅実でいい仕事をする。
新商品を考え出すのに必要なのは、常識にとらわれない発想力。
その発想を得るためにあちこちで食べ歩きをする(いわゆる市場調査だ)ことも多いため、フットワークの軽さも重要だ。そうして集めた情報を分析し、新商品の開発へと向かっていく。
篠崎はおとなしいがフットワークは軽く、細い割によく食べた。そして時折、ぽそりと控えめな声で、なかなかそそるアイディアを提案してくる。
その上、分析力にも長けている。まだ自分の力に自信が持てないせいか、口調はいつも控えめで、そのせいで少し説得力に欠ける部分もなくはないが、そこは伸び代だ。仕事に慣れて自信がつけば、きっと企画部を引っ張っていく人材に育つに違いない。
そう思っていたのだが、一年が経ち、二年が経っても、篠崎はサポート業務ばかりを好んでこなしている。
同期の誰かが発案した企画のためにリサーチを行い、プレゼンの準備をし、経営陣らの前へ送り出し、経営戦略を提案し……と、それはもちろん、チームで仕事をしていく上では大切な業務に違いない。だが、いいものを持っているくせに自ら手柄を立てようとしない態度が、俺はもどかしくてたまらなかった。
そこへきて、ようやく篠崎自ら企画書を持ってきた。
競合他社の勢いに押され、年々業績が下がりつつあるうちの会社を盛り立てる起爆剤になる企画だと、俺は直感した。
せっかくのアイディアを「ちょっと弱い気もするので、もう少し練り直してから……」と及び腰になる篠崎の尻を、俺は叩いて叩いて叩きまくった。(もちろん比喩だ、叩いてみたいけど)
これまでずっと誰かの補佐役だった自分が最前線に立つとあって、篠崎もかなりのプレッシャーを感じていたようだが、俺はあえて篠崎を追い立てた。
お前のアイディアだ、お前が勝ち取ってこい! そう言って叱咤激励する俺を前にして、篠崎は青い顔をしながらも、ようやく決意を固めたようだった。
プレゼンの日が近づくにつれ、だんだん篠崎に対する口調がキツくなっていくのわかる。
可愛い篠崎が疲れ果ててゆくのを見守るのはつらかったが、この大きな山を乗り越えて大きな仕事を掴んで欲しい——……その一心で、俺は全力で篠崎をサポートした。
そして、経営陣を前にしたプレゼンの日。
篠崎はいつになくスッキリした顔で出社して、立派に大役を果たし終えたのだった。
その後はすこぶる順調に新製品の開発までこぎつけ、徐々に売り上げを伸ばしている。この経験で一皮剥けてようやく自信がついたのか、篠崎の瞳はいつになく明るくきらめき、全身に漲るような力が宿ったように俺には見えた。
雛鳥が力強く空へと羽ばたいてゆく様子を見守る親鳥は、こんな気持ちになるのだろうか。篠崎の成長した姿が誇らしく、俺の想いはさらに募った。
しかし我に返ってみると、篠崎にはずいぶんキツイことを言ってしまった。嫌われる覚悟で厳しくしたため、パワハラと感じさせてしまったかもしれない。
自分の行いを振り返るたび、申し訳なさのあまり頭を抱えてしまう。当然のことばがら、篠崎には嫌われたくない。どちらかというと好かれていたい……。
——近々きちんと謝ろう。飯にでも誘って、そのときに謝るんだ。
「大城さん、ちょっといいですか?」
「んッ!? な、何だお前いつからいた!?」
「すみません、何度かお呼びしたんですけど……」
カフェスペースで休憩をとりつつぼんやりしていたところへ、クリアファイルを手にした篠崎が突然現れた。思わず椅子から転げ落ちそうになったが、なんとか耐え忍ぶ。
すると篠崎は小さく鼻をひくつかせ、カフェスペースに漂うコーヒーの香りに目を細める。
「ああ……いい匂いだなぁ。僕もコーヒー買ってきていいですか?」
「ああ、いいよ。待ってる」
「すみません」
急ぎ足でコーヒーメーカーへ向かう篠崎の後ろ姿が、なんだか眩しい。
少し髪を切り、首周りがすっきりとした篠崎だ。シャツの襟から覗く首筋の白さや形のいい耳があらわになっているだけで、無性にドキドキしてしまう。
プレゼンの準備で多忙にしていた頃とは打って変わって、最近の篠崎は着るものにも少しずつ気を遣うようになったらしい。
以前は、適当にサイズを選んだであろうワイシャツを着ていたせいで、全体的に野暮ったく見えていた。だが、今着ている淡いブルーのシャツは細身で、篠崎のしなやかな身体に合っている。細長い脚をきれいに見せるスラックスも、きちんと磨かれた革靴も、とてもよく似合っていた。
——こうしてみると、垢抜けたよなぁ。嬉しいような、寂しいような……。
「お待たせしました」
篠崎がこちらを振り返ると同時に、俺はすいと視線を窓へと戻した。33階建のビルの最上階にあるカフェスペースからの眺望は抜群だ。昼間の眺めもなかなかのものだが夜の景色も素晴らしく、食品メーカーの社屋にしておくにはもったいない。
「うわぁ、やっぱり眺めいいですね、ここ」
「珍しそうだな。もう見慣れてるんじゃないのか?」
「僕はあまりここで休憩取らないので、けっこう新鮮なんですよ」
「へぇ」
缶コーヒーを買って俺の隣に戻ってきた篠崎が、感嘆のため息と共に目を輝かせている。俺にとっては、大パノラマの眺望よりも、すぐそこにある篠崎の横顔のほうが何倍も貴重だ。
さりげなく横顔をチラ見しつつ、俺はコーヒーを一口飲んだ。
耳にはピアスホールなどの跡もなく、柔らかそうな白い耳たぶはまっさらだ。綺麗な稜線を描く鼻筋といい、下唇が少し厚めの赤みの強い唇といい、何から何まで俺好み。やばい、可愛すぎて目が離せない。
——篠崎は耳まで可愛いな……。触ってみたいなぁ、ここにキスしたら、どんな反応するんだろ。
「あの、来月大阪で展示会があるんですけど、一緒に行きませんか」
「…………。えっ?」
篠崎が不意にこちらを向いて話しかけてきた。
不埒な妄想をしながらぼんやりしていたせいで反応が遅れてしまった。……なんだ? なんだかすごく魅力的な提案が聞こえてきたような気がするけど、気のせいか……?
黙り込んだまま眉間に皺を寄せていると、篠崎の表情がじわじわとこわばっていく。
「あっ……すみません、大阪はさすがに遠いですよね」
「えっ!? あ、いや、そんなことないって!! 大阪だろ。うん、あるよな展示会、イントックス大阪で!」
「そう、それです。部長に相談したら、出張扱いにできるから行ってこいって言ってくださったんです。同行者も一人なら認めると言われたので、大城さん、一緒にどうかなあと思いまして」
「……俺と?」
「はい」
——えー……それはつまり、ふたりで大阪出張? 篠崎とふたりきりで……!?
聞こえてきた台詞は幻聴ではなかったらしい。
俺は内心、両の拳を天に突き上げ、地上いっぱいに響き渡るほどの雄叫びを上げた。
だが、篠崎の前ではクールな先輩を気取っている俺だ。内なる俺は咆哮を上げながらめちゃくちゃに踊り狂っているが、しばし無言で喜びを噛み締めたあと、にこっと爽やかに笑って見せる。
「いいよ。俺もそれ、行きたかったし」
「ありがとうございます! 宿とか新幹線とか、手配しときますので!」
「ああ、頼むな。楽しみにしてる」
「はい! じゃあ、お先に失礼します」
「ん」
会釈をして去っていく篠崎に軽く手を上げ、俺は長い長いため息と共にゲンドウポーズを取った。
——浮かれるな、浮かれるな俺。あくまでも出張だ、これは仕事だ。次の新製品のための情報収集だ。……でも、なんで俺を誘ったんだ? あいつ、同期に仲良いやついるのに、どうして俺? ……いや、いやいや期待するな俺よ。どうせあれだ、俺といると勉強になるとかっていつも言ってるし、でかい展示会だし、あいつ勉強熱心だし、あくまでもより良いリサーチのために俺を誘っただけに決まってる。……うん、それ以上でも以下でもない。
脳内会議が終わり、俺は顔を上げて天を仰ぎ、また深々と息を吐いた。
冷静になってみると、「ちょっとデートみたいだな」とか「ワンチャンあるかも」なんてことを思った自分が心底恥ずかしい。情けない。不埒な自分をぶん殴りたい。
「……けどまぁ、ちょっとくらい、ウキウキしてもいいよな」
これだけ耐えているのだ、楽しい気持ちになるくらいなら、公私混同にはならないだろう。
篠崎が残していった展示会の資料をパラパラとめくりつつ、俺はひそかに笑みをこぼした。
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