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第1話

久世 誉(くぜ ほまれ)は広い美術室の一番隅の窓際に座り、そこから運動場を眺めていた。 4階の教室から見える広大な運動場。そこで活動する野球部、サッカー部、テニス部、バスケ部。様々な運動部で皆、これぞ青春とばかりに汗を掻く。 それを見ながら、久世はジッと目を凝らした。広い運動場の中心にあるトラックを誰よりも速く、それこそ風の様に疾走する少年。 風に靡く栗色の髪が冬の夕日が当たってキラキラと光る。絶対に人工では出すことの出来ない色。 久世はその少年の線が綺麗だと思った。獣の鬣の様になびく髪と走る度に動く筋肉。骨。筋。少年を形成する線が全てが綺麗だと思った。 「…描きたいな」 知らず知らず独り言を呟き、久世はキャンバスに視線を戻した。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「窓際、えへへーん」 陽気な声が頭上から降りかかると同時にドカッと前に座る茶色のクセっ毛を見て、久世はフッと顔を下げた。 「席替え、窓際って得じゃね?」 声を掛けられても久世は顔を上げなかった。そして声の主の顔を思い浮かべた。 八重歯が印象的。顔のパーツパーツがはっきりしているが、濃過ぎるという顔ではない。どこか彫刻の像の様な、デッサンするのには捉えやすい顔。 唇も分厚過ぎずシャープな感じで横から見ると綺麗な曲線を描いてる。茶色の癖っ毛は家で飼ってる猫の”モロ”に似て、触れば指にくるんと絡んできそうだ。 どこかでモテるというのを聞いたことがある。まぁ、モテる顔だろうな。 でも、こうして普通に話ししていると全てを台無しにするほど馬鹿みたいだなと失礼な事を思いながら、久世は机を見つめていた。 「俺、神。知ってる?」 「え?」 神だと?言うに事欠いて、何を言いだすのか。顔を上げた久世を、にっこり満面の笑みが迎えた。 一番、印象に残るのがこの目だ。彫りの深い二重に長い睫毛。その飾りに似合う髪と同じ色の目は虹彩が輝いて見えた。まるで猫の目だ。 その目で真っ直ぐに人を見るので、久世は直ぐに目を逸らした。 「龍宮寺って言い難いだろ?だから、みんな俺を”神”って呼ぶんだよな。神の音で”しおん”っていうんだけどさ」 前に座る龍宮寺 神音(りゅうぐうじ しおん)はそう言って、フフッと笑った。 確かに苗字の龍宮寺は呼び難い。だが龍宮寺とはクラスメイトになって大分と経つが、話をするのは初めてだ。 というか、久世はクラスの誰ともまともに話をしたことがない。 何だか邪魔臭い男が前に座ったな。久世は思いながら机に置かれた神の腕を見た。 時期が時期なだけに、そこにあるのは学ランを纏った腕。それが少し残念だと思った。 あの服の下の腕には計算された様な筋肉が付いていて、その筋がとても綺麗なのだ。 そう、あのトラックを走る時に動く筋肉、筋。風に靡く髪。久世が毎日美術室から見るのは、他の誰でもない、この龍宮寺神音なのだ。 「えーっと、久世だよな。久世ー。あ、久世、太郎」 そんな名前、親戚にも兄弟にも居ねーしと思いながら否定も肯定もしなかった。 なんて面倒な奴と席が前後になったのか。久世はうんざりした様な顔をして、やはり窓の外に目を戻した。 「あれ?無視?」 面倒くさい奴。フレンドリーとか迷惑だよ。久世は嘆息して頬杖をついて、窓から見える見慣れた風景を見ていた。 席替えとか、なんで必要なんだろ?勉強するだけなら延々出席番号順でいいじゃないか。 そんな卑屈な事を考えていると、ドンッと机に衝撃が走った。顔を向けると長身の身体。クラスメイトの上月(こうづき)だ。ぶつかったのか、太ももを擦っていた。 前を見れば、ホームルームも終わっていて教師の姿もない。いつの間に終わったんだろうと思いつつ、久世は席を立ち教室から出て行った。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「オマエ、久世誉と席前後なん?ってか、あの久世誉と良く話せんな」 「あ!誉!!そうだ!誉!太郎とか言っちゃった。名前までは知らなかった。久世、怒ってるかな?」 ぶつぶつ言う神に、上月は頭を掻いて主の消えた久世の机に腰掛ける。 「ちゃうって、久世。何か、ちょっと」 「あ?何?」 神の形の良い眉がピクリと跳ねた。あ、ヤバいと思って上月は口を噤んだ。 神は名の通り”神”なのか、こういう類いの話しを嫌う。悪口というか、噂話というか、人格否定というか…。 とにかくそういうのは、神にはタブーだ。人にはそれぞれ、個性がある。神の言い分。 そう言うだけあって、神は分け隔てなく誰とでも気軽に話す。心がけている訳ではないのだろうが、神はそういう男だ。 もちろん、疎まれることもあるし異性には勘違いされることもある。だが神はそれを止めようとはしない。 結局、周りが”ああ、龍宮寺ってこういう人なんだ”と納得していくから不思議だ。きっと、神の人となりのおかげでもあるのだろうけども…。 「とりあえず、あんまりなん。何が言うんやのうて、久世にはちょっかい出さん方がええよ」 「は?なんで?」 「久世はねー。大変やから」 にべもない答えに神が蛾眉を顰める。上月はそれを横目で見下ろしたが、それ以上、何も言わなかった。 久世は図書室の隅っこ、少し影になった場所でスケッチブックを広げ、ぼんやりしていた。スケッチブックは真っ白で、線一本引かれていない。 展覧会が終わったばかりの久世はまるで抜け殻だ。展覧会間際の追い込みが、一番何も考えないで済むしラクでいいのに。久世は思いながら、うーんと伸びをした。 「あれ、久世じゃーん」 呼ばれた声に顔を上げ、その声の主を見た瞬間に身体が強ばる。同級生で1年の時に同じクラスだった大槻だ。図書室とは死んでも縁がなさそうなのに、なんでこいつが!? 久世はハッとなり、バタバタとスケッチブックを畳み、鉛筆を筆箱に投げ入れる。じんわり、額に嫌な汗が浮かぶ。 「なに?どうしたの?」 大槻は嫌な笑い方をして、久世の前に座るとスケッチブックを奪った。 「あ!」 「まぁまぁ、急がないでいいじゃん。久々に話そうよ」 大槻はペラペラ、スケッチブックを捲りだす。対して何も描かれていない。 新しくして日が浅い。家で飼ってるモロとか美術室から見た建物とか、その程度だ。何も見られてヤバいものはない。 なのにどんどんと速くなる鼓動に、久世は気が付かれないように長い息を吐いた。 「へー、上手いんだぁ。俺、美術とか出来ねぇしなー」 大槻は久世の筆箱を奪い、鉛筆を出すとモロのスケッチをなぞる様に手を加え出した。 一重の切れ長の目。少し分厚い唇がニヤリと笑う。久世は席に座ったまま立ち上がれなかった。 カタカタと肩が震える。もう、あんなスケッチブックも筆箱もいらない。放ってここから逃げ出せば良いのに、動けない。まるで金縛りにあったみたいに動けない。 「なー、久世ぇ。オマエって、どうしようもねぇなぁ」 「…え?」 絞り出した声はヒドく掠れていて、心臓が口から飛び出て来そうに鼓動が速い。フッと泣きそうになって、唇を食いしばった。 「あー?何、その俺が悪いみたいな目。あれ、言ってもいいんだぜ?ん?」 言って、大槻はモロのデッサンを真ん中から両断するように、ザッ!っと筆を走らした。 その力強さのせいで、芯がボキリと折れて久世はビクッと震えた。そんな久世を大槻はククッと笑う。 どっか行け!!そう言えたらラクなのに、言えない。ぎゅっと目を瞑る。気が遠くなりそうで、蝉の声が耳に響いた。 あの、夏の日が全て始まり…。 「おい!何してんだ!」 ドンッとテーブルに衝撃が走り、目を開ければテーブルに置かれた手。節くれてもない一本一本が長い指。爪がすごく綺麗で形がいい。 その腕を辿ると、久世と大槻を遮る様に学ランの背中が見えた。 「りゅ、龍宮寺…」 「オマエ、何してんだよ」 「あ?何だ、オマエ。あれ?ああ、お前、あれだ。陸上部の”神”だろ」 大槻が馬鹿にしたような顔で神を見上げた。 「龍宮寺だ。お前、それ久世のだろ?小学生みたいなことすんなよ」 「は?何言ってんの?俺と久世は仲良しなんだぜ?俺ら、クラスメイトだったんだしー」 なーっと言いながら、神の背中の横から大槻が顔を出した。すると唐突に、糸が切れた様に久世の身体が動いた。 咄嗟に大槻からスケッチブックを奪い、人生で初めてこんな素早く動いたというくらいに俊敏に動き、そのまま図書室を飛び出した。神の呼ぶ声がしたが、久世は振り返らなかった。 図書室を出て階段を駆け上り、職員専用のトイレに駆け込むと、そのスケッチブックをゴミ箱に投げ捨てた。 ぐっと吐き気がこみ上げて、個室に飛び込み嘔吐する。 「うぇ…、はぁ、も、もう、やだ」 吐き出した声は、久世の精一杯の悲鳴だった。 どうにか這うようにして保健室に逃げ込み、少し休んで、久世は教室に戻ることにした。 神がもしかしたら大槻に”あのこと”を聞いたかもしれない。今頃、教室は”あのこと”で盛り上がってるかもしれない。 いつかのように…。 久世は大きく息を吐いて、教室に足を踏み入れた。 だが久世の思いとは裏腹に、教室は久世が入って来た事も気が付かないほどに自分たちの中で盛り上がっていた。 それに安堵して自分の席に着く。前の席は空席で、少しホッとした。 窓の外に目を移して、北風の吹き荒れる運動場を見る。 もう本格的な冬だ。早く、早くこんな高校生活終われば良い。 まだ、まだ2年だ。3年になればあっという間だと聞くが、それでも久世にとっては長い。 「誉」 名前を呼ばれ、ギクリとする。ドンッと神が前に座り、久世の机に見覚えのある筆箱が置かれた。久世はそれをジッと見た。 「太郎じゃなくて、誉だろ?誉エンジンの」 「ほ、誉エンジン?」 何だ、それという顔を上げて神を見れば、神はニッと八重歯を見せ笑った。 「やった。顔上げた」 してやられた!と少しムッとするが、神はそれを気にすることなく続ける。 「NK9っていうんだけどさ。中島飛行機が第二次世界大戦開始期に開発して、終戦時まで製造した航空機用空冷二重星型18気筒エンジン。何か、ウルトラマンとかに出て来そうな、グロイ海星みたいなん」 「…はぁ?」 何?実は航空オタク?思わず、首を傾げる。 「俺ね、親父が航空自衛隊なの」 ああ、と少し納得する。”神”と”音”が航空自衛隊とぴったり合う気がしたからだ。 そうこうしていると、教師が静かにしろーと言いながら教壇に立つ。それに合わせる様にして、神は前を向いた。 放課後、美術室に来て、久世は真っ白のキャンバスをぼんやり眺めていた。 久世に専門はない。水彩画も描くし油絵も描く、描いた事はないが水墨画も描こうと思えば描けるだろう。 果たして、それはどうなのか。 専門がないということは結局のところどれもクオリティが高くない、どれもこれも”普通”ということではないのかと思ったりする。 突き進んで、それを極めることもせずに、ただどれもこれもとりあえず手垢をつけた気分。 そんな状態の結果が、どれだけ展覧会に出しても評価はいつも同じということ。もしかして、合ってないのかもしれない。 2年ともなると、少しづつ進路の話も出て来る。美大に行きたい!!と熱が入るほどに思っている訳でもない。 行けたら良いなという漠然とした思いだ。だが美大に行って、どうするの?画家にでもなるのか?という自問自答もある。 久世の家は母子家庭だ。早くに父親を亡くして姉の杏は大学も行かずに就職して、アパレルメーカーに勤めている。 久世には接客業なんて有り得ないが、杏は納得だ。兄弟ながら天と地ほどの差があるほどに杏は明るい。 そして世渡り上手だ。それを証拠に杏は店舗から本社の販売促進部に異例の出世をしている。 「どうした?」 「あ、日丘部長」 隣にえらく長身な男。美術部の部長、日丘浩輔が立っていた。上背があり、がっちりした体格。入る部を間違えていないか?と聞きたくなる程に恵まれた身体。 太い腕と無骨な指は彫刻をするためのもの。日丘は将来を期待されている、彫刻専門の学生だった。 「どうした?って言っても、ぼーっとしてるのはいつものことか」 「ああ、はぁ」 にべもない返事に日丘は目を細めて笑った。 「そうか、展覧会終わったばかりで気が抜けたか。どこか作品出すか?」 「いや、そういうんじゃないです」 手持ち無沙汰の手で筆箱を漁る。ぽろり、そこから零れ落ちた鉛筆が日丘の足下で止まった。 「ん?なんだこれ。おいおい、オマエ、下手だな」 「え?」 日丘の拾った鉛筆が久世の掌に置かれた。 「ぶっ!!」 がたがたに削られた鉛筆。久世はデッサンに癖があるので、少し変わった削り方をする。それを真似するように、何とか削られた鉛筆はそれはそれは見事なまでの不格好。 こんなもんで描けるか!!と言いたいくらいに、がたがたの筆先。思わず笑う。 「何だ、久世が削ったんじゃないのか」 「ああ…多分、クラスの奴。先輩、知ってます?龍宮寺」 「え?なに?竜宮?」 「いや、陸上部で、その、神」 不本意ながら”神”の名を言えば、日丘がぱちんと指を鳴らした。 「ああ、神。そうか、龍宮寺っていうのか。有名だな、俺のクラスの奴が陸上部の部長なんだけどな。大会でも、いい成績残してるらしいな」 「そうですか」 「なんだ、神が削ったのか?」 久世は返事をしなかった。きっと図書室のあの後に、神が削ったのだろう。スケッチブックは奪い取ったけど、筆箱は置いたままだったのだ。 それもあやふやで覚えていなかったけど、その削られた鉛筆を見てありがとうと胸が熱くなることもなく、ただ居心地の悪さだけが残った。 大槻の事も聞かれずに、大槻が折った鉛筆を削って黙って久世に返す。本当に神だなと久世は笑った。 やっぱり面倒で嫌な奴だ。自分にとっては絶対に神なんかじゃないと思った。

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