2 / 7

第2話

翌日は朝からひどい雨で学校に着く頃には制服はぐちゃぐちゃに濡れていて、靴の中もまるで川にでも浸かったかのように濡れていた。 傘なんて頭を守ったくらいで何の役にも立たなかった。とりあえず散々だ。大惨事だ。 久世はげんなりしながら傘を畳み外に向けて振り、水滴を払っていた。何気に空を見上げれば、まだまだ降るぞ!と言わんばかりの雨雲で真っ黒だ。 久世の登校時間は人よりも早いため、下駄箱も静かなもので久世の振る傘の音だけがしていた。 すると急にドンッと背中を強く押され、足下の数段の階段を転がる様にして久世は落ちた。咄嗟の事に踏ん張れなかった。 まるでスローモーション。ずだだだだーっと、身体が雪崩のように一気に降下。階段と言っても本当に4段ほど。高さもないものだが、最悪なのが落ちたところだ。 ぬかるんでいて池のような水溜まりまで出来ている。あろう事か、そこに顔から転がった。 「あ、久世ぇ?わりーな」 振り返らなくても分かる。大槻だ。一瞬にしてサッと血の気が引いて、俯いた。泥が舐める様に顔を伝った。 「大槻、オマエ、ぶつかんなよー」 ゲラゲラと笑う声はサッカー部の仲間かクラスメイトか。いや、そんな事、どうでもいい。 久世はキュッと唇を噛み締めた。そんな見るからに見窄らしい姿に満足したのか、大槻達は笑い声と共に去っていた。 ギュッと泥を握る。そんなことをしても、仕方ないのに久世はそれを叩き付ける様に地面に投げつけた。 びっちゃっという音がして、飛沫が跳ね返って来た。 ザーザーと雨音が耳に入る。チラッと見れば転がり落ちる時に巻き込んで折れたのか、真っ二つになった傘が久世と同じ様に泥に汚れていた。 「うわ!!何しとんねん!!!」 急にぐっと腕を掴まれ、立ち上がらされた。あまりの力に肩が外れそうになった。痛いと声を上げるよりも先に驚いて振り返ると、それは上月だった。 「えー、うっそー、なにそれ。コント?」 上月は久世の顔の泥を手で拭う。にゅるっとした感触に顔を顰めた。とはいえ、まさか話した事もない上月の登場に久世は声が出なかった。 「いやいや、ないない。これは、ないわー」 一人ぶつぶつ言いながら、上月は久世の腕を引いて歩き出す。どんな腕力だと思ったが、非力の久世からすればほとんどの同級生が腕力ゴリラだ。 「あの、ちょ…!?」 「いやー、自分。それはないやろ。小学生やで。ほんま」 呆れた様な言い方をされる。どうやら上月は久世が転んだとでも思っているのだろう。だが確かにこれはないな。 久世は自分の足下を見て、呆れる。学ランが茶色だ。コンバースのスニーカーも元の色が何色だったか分からない色に変身していた。 これは見事だ。所々ではなく、がっつり上から下まで茶色に染まっている。 上月が引く腕も茶色に染まり、久世の手は先ほど泥を握ったせいで泥遊びをした子供の様になっていた。 「おおおーい、神ぃ」 「え!!!」 上月が久世を引き摺ってやってきたのは、陸上部の部室だった。もちろん呼んでいるのはあの”神”。 ぎょっとした久世は上月の腕を振り払おうとしたが、上月はバスケ部だ。筆を握る久世の力と、あのリングネットにボールを叩き付ける上月の力の差など歴然だ。ビクリともしない。 「あー、どうした?侑太、ええ!?久世!?」 首にタオルをかけた神が、上月に連れられた無惨な格好の久世に驚き戦いた。 「なにこれ、え?どうしてこうなるの?」 「どないしてって、正面玄関で転んだからこうなるんでしょ」 「マジですか。おいおい、漫画みたいなことになってるよ」 「うちなー、先輩らがやかましいて。オマエんとこなら大丈夫やろ?」 「ああ。大丈夫、大丈夫」 神は上月から久世を受け取ると、そのまま部室に連れ込んだ。当の本人そっちのけで話を進めて…だ。 「え!ちょっと!!」 「部長ー!シャワー室借りますー」 「シャワー!?ええ!?いいよ!!」 神の大声に久世が驚いて神の腕を外そうともがいた。その手をぱちんと子供をあやすくらい小さな力で叩かれる。 「なんだ、神…って、すごいな!おい!」 神と変わらない背丈の眼鏡で優しそうな顔つきが印象的な男は、久世の姿に驚いた。無理もないが…。 「転んだみたい。ねぇ、いいでしょ?こいつ、美術部でシャワー室なんかないし」 「美術部?ああ、オマエ、日丘のとこの。いやー、悲惨だな。それ」 「ね、いいでしょ、山崎部長」 「ああ、いいよ、いいよ。鍵締めて行けよ、神」 「はーい」 いい返事をして、神は久世をどんどん中に引き込む。もう抵抗するのも無駄だと感じた久世は、連れられるままそれに従った。 久世の通う学校は少し特殊な学校で、運動部は部室ごとにシャワー室なんぞが設置されている。運動部に縁がなかった久世は、その部室を物珍しげに眺めた。 部室の一番奥。少し奥ばった所に磨りガラスのドアがあった。神がそれを開けると、シャワー室独特の臭いがする。 「ほらほら、流してこい」 神は久世を中に押し込むとドアを閉めた。シャワーカーテンが引かれた、何となく個室になった小部屋が4つあるシャワー室。 「へぇ…」 こんな風になってるんだ。そんな事を思いつつ、立ちすくんでても仕方がないと久世はグタグタの学ランを脱いだ。 べっちょと何とも言い難い音を立てて、学ランが床に落ちた。 小部屋に入ってシャワーカーテンを引いて腰の位置にあったコックを捻れば、一気に頭からシャワーが振って来る。 結構、身体が冷えていたのか、その温かさにホッとした。 「久世ー」 「ぎゃー!!!!」 一人でゆったりしていたところに突然の神の声。久世は驚いて乙女でもないのにその場にしゃがみ込んだ。 だがシャワーカーテンで見えたのは神の足のみ。もちろんシャワーカーテンを開けられた訳でもない。それに一気に顔が熱くなった。 「な、なに?びっくりするんだけど。タオル、ここのフックに掛けとくから」 「わ、わかった!」 死ぬほど恥ずかしい!!どうにも逃げ場のないシャワー室で、穴でも掘る勢いで自己嫌悪に陥る。 ぎゃーって何!?絶対、変に思われた!! 「もう、やだ」 久世は何度目かの弱音を吐いた。 「…は?」 シャワーを浴び終わって、神が置いて行ったタオルで身体を拭いて首を傾げた。 そもそもシャワーを浴びたはいいが、何を着るのか。制服は見るも無惨だし、どちらかと言えばあれをそのまま着るのは遠慮したいもの。 体操服は昨日持って帰って、残念ながらない。なら、結局、あのどうにもならない制服を着るのかと思ったのに、その制服がないのだ。序でに言えば、靴もない。 下着だけはシャワーを浴びる場所に持って行ったので残っているが、それ以外、シャツも学ランの上下もない。全部ない。 「ちょっと…」 その代わりというかのように、綺麗に畳まれたジャージの上下とTシャツが置かれている。ご丁寧に久世の上靴付き。 黒のそれは学校指定の体操服ではない。きっと神が部活で使っているジャージだ。 なんだ、これを着ろってことか!?そんなの無理だろ!だが、まさか制服を探しにパンツ1枚で外に出る訳にもいかない。 久世は渋々、それに腕を通した。間違いない。これは神のだ。神は少し独特の香りがする。臭いとかじゃなく、花みたいな。 くんっと匂うと、それが濃く感じられた。香水でもない。体臭でもない。不思議な香り。 さて、突然だが、久世の背はさほど高いものではない。それでもなんとか170。神はその5cmほど上だが…。 「手足が長いのか」 忌々しげに言って、裾を折る。そうか、あの走りが綺麗なのは手足が長いせいもあるのか。 余った手と足の裾を折って、シャワールームのドアを開けると、その前にあるベンチに腰掛けた神が顔を上げた。 「あ、さっぱりしたろー」 神は読んでいた漫画雑誌をベンチに投げて、久世の濡れた髪を一摘み。きゅっと髪が鳴いた。 「制服は?」 「久保ちゃんに渡した。はい、鞄。鞄は無事だったのな。侑太が拾って来た。ジャージ、寒くね?」 「寒くない。久保って、家庭科の?」 「そう、洗濯しても落ちないかもしれないから、クリーニング出すって。あとで料金請求くるぜ」 「わかった…、その、ありがとう」 御礼を言った久世を神がクスッと笑った。なんだよと抗議の目を向ければ、やはり笑った。 シャワーを浴びたりなんだしていて、さすがに1限目は間に合わなかった。だが神がきちんと説明をしていたのか、咎められる事もなく席に着いた。 少しだけ、クラスメイトの視線が痛くて、意味なく襟足を撫でた。 今までは、休み時間とか昼休みは図書室に行く事が多かった。だが、その一件以来、図書室にまた大槻が居るかもしれないと思って、席から動けなかった。 しかも朝にあの洗礼だ。だからとて教室に居るのはあまり好きではない久世は、どう時間を潰すか迷っていた。今日は昼は食堂に行かなければならない。弁当当番の杏がこともあろうか寝坊したのだ。 もう今日はなしでいいやと机に突っ伏すと、その机をトントンっと指で叩かれた。顔を上げると、上月が久世の顔を覗き込んできた。 「あ、…えっと、こ、上月…あの、朝は」 「飯は?」 「え…?」 「飯」 朝の礼を言おうとする久世に、言葉を被せて来る。上月はせっかちだ。関西人だからかもしれないが、言葉も少し怖い。 整った顔立ちをしているが、目つきが少し悪くて、怖い。どちらかと言えば、苦手なタイプだ。 「あの」 「ないんか?」 「ああ、そう、あの今朝は、」 「神が席取っとんねん。行くで」 「え!!!」 朝から何度目か。久世は腕を掴まれ、上月に引き摺られるようにして教室を出て行った。 音が一斉に耳に入る。絶対音感がない人間でも、うっとなるくらいにうるさい食堂は腹を空かしたハイエナ達の穴蔵のようだ。 食器の当たる音とか、喋る声。注文を言う声。たまにかかる迷惑な校内放送。久世は一気に食欲がなくなった。 「えーっと、席はー」 長身の上月が辺りを見回す。そして窓際のそこだけ不自然に開いてる席を見つけると、あそこやと言い久世を連れて人を縫う様に歩く。 さすがバスケ部。人と人を縫う様に歩くのはお手のものかもしれないが、それにただ引っ張られるだけの久世は違う。 上月がかわした人間にことごとくドンッとぶつかり、その度にすいませんと言う。そうしてる間に、次の障害物に当たる。 上月は連れている人間のことなんておかまいなしだ。 「ほれ、座れ」 ようやく着いたテーブルの奥の席に、ボロボロの久世は座らされた。上月は久世だけ残して、また人ごみに消えて行く。 「ええ!?」 ぽつんとそこに残され、どうしていいのか分からない。食堂で何か買うことはあっても食べることはなかったので、初めての場所は落ち着かない。 あー、もうやだなー。席、外したらダメなのかなー。教室に帰っちゃダメなのかなー。 居た堪れない状況。黒のジャージ姿の久世は嫌でも目立つ。しかも運動部でもない久世は、あいつなんでジャージなの?みたいな視線が痛い。 「あ、久世。お待たっせー。Aランチ」 暢気な声の神が、久世の前にトレーに載せられたミッスクフライを置く。運動部が盛んな久世の学校は、食堂のメニューもリーズナブルでボリューム満点。 放課後のために力をつけろというのだろうが、運動部でもない久世からすれば、こんなに食えるか!というほどのボリュームだ。 特大エビフライ2尾にヒレカツ3切れにコロッケ2個。その横にウサギにでもあげるか?というほどの山になったキャベツの千切り。 くわえて、大盛りのご飯にたっぷり注がれたみそ汁。 え、無理、こんなの…無理。 人生で見たことこないレベル。 久世が弁当を持ってこないときは、食堂横の売店でパンを買う程度。しかも多くて二個。 なのに目の前のAランチ。久世の短い人生の中で、チャレンジしたことなんてないというほどの量の料理が、視覚だけで腹を満たした。 「久世は小食みたいだよね。大丈夫、俺、半分食うし」 久世の隣に座る神の前には、これまたたんまり積まれた焼き肉とキャベツ。それとどういう組み合わせか、からあげが3つおまけの様に載せられたBランチが置かれている。 細身の神だがトラックをあれだけぐるぐる回るのだ。これくらいは普通なのかと思うが、やはり漂う焼き肉の臭いにぐっと胃が締まる。 無理だよ!無理だからね!!そんな悲鳴が体内から聞こえてきそうだ。 「あー、もー。足踏まれた」 神の前に眉間に皺を寄せた上月が帰って来た。その手には久世と同じAランチ。それプラス、1個30円のコロッケが3つ。 何だか、同じ年齢の男とは思えないと密かに思いながら、久世は箸を取った。 「メールでさ、上月が久世を連れて行くって言うから驚いた」 「えー、せやかて。絶対、飯食わんわってくらいに、ぼーっとしとったもん」 「席さー、早いこと予約しないと座れないんだよね。俺、チャイムと同時に飛び出したでしょ」 「え?知らない」 「げ!それはなくね!?」 前の席の神がどうしてたかなんて、久世は本当に知らなかった。ただ、いつまでも止まない雨が鬱陶しいと、窓の外を眺めていたから。 「けけけっ、カッコ悪ぃのぉ、自分。前の席やのにぃ」 上月がエビフライに齧りつきながら言った。久世は同じ様にエビフライに齧りつき、食堂の中を観察する。 学年関係なく、入り乱れてる感じが何とも言えない。人と人と人。そんな空間、本当に苦手だ。 思っていると視線を感じた。その方向に目を向けて、ギクリとした。大槻が数人のクラスメイトとともに、こちらを見て笑っていた。 慌てて顔を伏せて、エビフライを飲む込む。それに気が付いた上月が後ろを振り返った。 「何?どうした侑太」 「あー、俺、アイツ好かん。サッカー部のクソ」 「オマエねー、食事中に下品だろ」 「いや、神。オマエが神なん分かって言うけど、あいつ、俺の関西弁にケチつけたからな!これは許し難き侮辱やで!!なよっこい言葉喋りくさって!」 腹の立つ!そんな事を言いながら、上月はご飯をかき込んだ。 「なよっこいって、俺もそうなるじゃん。ってか、校内ほぼそうなるし。あー、そういえば、喧嘩したよな?」 「関西人、舐めたら痛い目見るっちゅーんを、身体で覚えさせただけや」 「えー、関西人怖いーって言われるぜ」 けたけた笑いながら、神が言う。 そうか、上月もからかわれたのか。なら自分だけじゃないんだなと、妙な安堵感を覚えて久世は箸を進めた。 「あ?何、俺がからかわれて嬉しいんか?」 まさか矛先がこちらに向くとは思わずに、久世はぎょっとなった。 「ち、違うよ!ちょっと…言葉は怖いけど」 「ほらな!上品な関西弁使えって!そうちゃいますんですぅーみたいな」 「はぁ!?あほか!!!」 高校生、いや、中学でもなかった。クラスメイトと一緒に冗談を言いながらの昼食。 それがものすごく嬉しくて、久世は知らず知らず笑顔でコロッケに齧りついた。

ともだちにシェアしよう!