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第1話

 中年男性の土下座を、初めて見た。いや、人の真剣な土下座を初めて見た。 「東雲さん、顔を上げてください」  父が落ち着いた口調で言う。 「そうです、仕方のない事です……弟はΩですから」  Ωである黒岩秋野は、父親と兄の当然という雰囲気に、わかってはいながらも少なからず傷付いていた。  α家系でありながら産まれたΩを他所にはやらず、家で育ててくれた事は非常に先進的と言えるが、ΩはΩとして妻や妾になる様に育てる家庭ではあった。  母親だけは、黙っていた。αであっても同じく受容体として機能する母親は、キツく唇を噛んで震わせた手で秋野の手を握っている。もしここに、この母の震えた手が無ければ、秋野は総ての尊厳や人格を打ち捨て、その身も打ち捨てていただろう。    促されても頭を上げようとしない東雲医院の院長、東雲一輝も、手を震わせていた。何だか気が抜けてしまった。 「東雲先生、これ以上今は何も話せないので……ほうっておいてください……」  ギュッとより一層強く、母は手を握ってくれた。 「わかりました。本日は失礼させて頂きます」  一度顔を上げたかと思うと、再び床に頭を押し付けてから、東雲は静かに立ち上がって座敷を出て、また廊下で膝を付いてこちらに頭を下げて、目線を下げたまま立ち去った。   「私は捻り殺したいと思っていますよ」 「そんな事を言ったって、捻り殺して一人になるほうが秋野には辛いじゃないか」 「ええ、身体はそうでしょう。心はどちらでも同じく辛いものです」 「なんにせよ、斎藤さんとの婚約は破棄してもらわなければいけないだろうな。お詫びはいくら包もうか……」 「東雲さんなら妾でも家柄は良いじゃないですか」 「これだから男性は嫌になります。これじゃあまるで人身売買のままじゃあないですか……私は斎藤さんとの婚約にも反対でした。冬人と同じ私達の子なのに秋野にだけ強制するなんて……」  母の非難に、父と兄は黙り込んだ。廊下で座り込んで聞き耳をたてていた秋野は、女中頭の久子に無言で促されて部屋に戻る。  暖かい布団に寝かされる。久子は皺の目立つ柔らかい手で秋野の手を握っていた。 「ねえ、久子さん。僕はどうしたら良いんだろう……」 「どうしたいかによりますよ」 「わからないんだもん……」 「そうしたら、お父様、お兄様、お母様にお任せなさい。特に坊っちゃんにはお母様……聖子様がついてらっしゃいます。昔のΩの子はそれはもう、酷い扱いでした……βの私は、Ωは劣っているんだろうから仕方ないと必死に思い込もうとしてしまう程でした。それは間違いだと教えてくださったのが嫁いで来られた聖子様です。だから私には初めて本当の心のままに可愛い可愛いと接する事を許されたΩの子が坊っちゃんなのです」 「僕は、大切にされて恵まれてると思ってるよ」 「私はね……私の大切な大切な子を踏み躙られた様な気持ちに……なりましたよ……ええ……辛いのは私も同じですからね……」  ぼたぼたと涙を流し始めた久子にしがみつく。随分小さくなってしまった身体をすっぽりと包み込めてしまう。幼い頃はこの身体にすっぽりと収まり、守られて育ったのだ。  そして、この状況になり初めて、自分の身に起きた事の重大さを感じ、恐ろしさに咽び泣くと、今度は久子が歳のわりにしっかりとした腕でギュッと抱き締めた。    先日、Ωの黒岩秋野は、αの東雲一輝に襲われた。  

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