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 ありゃもう、信じられないほどきつい男だったと周囲の誰もが口を揃えて言う。だがオマールの記憶に刻まれた父のキーワードはアメリカン・スピリッツの黄色。人工甘味料を入れたコーヒー。そして笑顔、キッチンの卵色をしたタイル床へ座り込み、ミニカーと超人ハルクのフィギュアで遊んでいる息子を見下ろしながらの。オマールが思い出したいと考える彼の姿はいつでも、澱の残ったコーヒーマグにちょんと煙草の灰をはたき落とし、心底穏やかな微笑を浮かべている。 「お前を孕んだと分かったときは本当にどうしようかと思った」  昼下がり、週末で幼稚園も休み。テレビはもう一人のパパが酒瓶を投げつけて大穴を開けてしまい、数日前に電器屋で新品を注文したが、まだ配達されていない。かと言って、お前はただでも目が悪いんだからと、父はタブレットを使わせてくれなかった。結果、死にそうになるほどの退屈を持て余していたと強く覚えている。  仕方ないから父の元へ玩具を持ってきた。だが彼はスマートフォンを弄くり、ただ漫然と己が産み落とした生き物を眺めているだけで、一向にお芝居へ加わってくれない。よくよく考えてみれば、彼が自らとまともに遊んでくれた事なんて、結局最後まで一度もなかったのではあるまいか。 「まだお前のパパは前のパートナーと番ってたし、こっちも期待してなかった。ぎりぎりまでメキシコへ行こうと迷ってたんだ」 「どうしてメキシコへいくの?」 「だって、この州じゃオメガが赤ん坊を堕ろすのは違法だから」 「堕ろすってなあに?」 「命を神様にお返しすることだよ」  唇は相変わらず柔らかな弧を描いたままだが、ふうっと紫煙と共に吐き出された口調は、煩わしさを隠しもしない。 「7歳までは、無条件で神様の元に行けるんだ……もう、何でもいちいち質問しない」 「ダディから話してきたじゃん」  唇を尖らせ、オマールはずり落ちる眼鏡を指で押し上げた。レンズに触ってしまったおかげで視界が悪くなり、何とも不快だ。いつもなら父が拭いてくれるが、今の彼には期待出来ない。着ていたTシャツで擦れば、布が伸びると更に機嫌を損ねることになるだろう。臍を曲げて床へ投げ捨てると、大きな溜息が頭上から降ってくる。 「とにかく、お前はとても幸運なんだよ。パパが離婚して、僕と番ってくれたから、今こうして生きてる。しかもアルファだ、人生勝ち組さ」 「何言ってるか、ぜんぜんわかんない」  質問が出来ない以上、そう答えるしかない。なのに父は、嘆かわしげに振る。まるで無邪気な息子が全て悪いと言わんばかり。 「今は分かんなくていいよ。そのうち分かる」  現実の父について第一に連想する印象、いつも不機嫌。それも当然だろう。既にパパは、嫉妬深く気の強い新妻に辟易したから、余所でもっと従順なベータへうつつを抜かし、滅多に家へ帰らなくなっていた。  自分がやったことをやり返される恐怖はいかほどのものだっただろう。しかも日頃のプライドの高さが祟って味方がおらず、すっかり孤立無援の状況に陥っているとなれば。実の息子さえ頼りにならない有様なのだ。  あの時もオマールは父の愚痴など話半分、上の空。溜まりに溜まった質問の答えについて、マーカスに聞いてみなきゃ、と内心思案していた。年の離れた兄は、半分しか血の繋がっていない自らをとても可愛がってくれる。幼稚園の友達みたいに「オレオ」なんて呼んだりしないし、会う度玩具を買ってきては、一緒になって遊んでくれさえした。  今思えば、兄は自らの親を狂い死にさせたオメガの息子を、よくあれだけ大事にしてくれたものだと思う。いや、現在進行形で、彼は文句の付け所がない人物だ。  アルファとしての優秀さを遺憾なく発揮し、自力でアメリカン・ドリームを掴み取った成功者。子供の共同親権と引き替えに、残念賞として与えられた雀の涙ほどの慰謝料をアルコールで全て使い果たしたオマールの父とは正反対の男。  オマールの父が全財産を詰めた大きなショッピングバッグを抱え、ぶつぶつと独り言を呟きながらセントラル駅をうろついたり、元夫の家のドアを叩いて叫び声を上げたりし始めるに至り、余りに酷いと見かねたのだろう。マーカスは人工透析で日がなぐったりしているパパの元から、幼子を引き取った。彼のペントハウスへ連れてこられた時、案内された素敵な子供部屋を目にしたオマールは、思わず感嘆の叫びを上げてしまったものだった。  マーカスは極めて先見の明に優れた男だから、何もかも心得ていたのだ。アルファであるパパの結婚は再び失敗に終わり、このちょっぴり太っちょで眼鏡を掛けた、黒人の混血児はとんだ目に遭うと。そして慈悲深い青年は、哀れな子供を見捨てはしなかった。  つまり、落ちぶれた父ではなく、死にかけたパパでもない、この兄についていけばいいのだな、とオマールは即座に理解した。子供は一人で生きていけない。事実マーカスも、お前みたくコロコロした子犬みたいな坊やは、怖い狼に食われちまうぜと、事あるごとに脅しつける。  冗談混じりだとは理解していたが、頭の片隅ではやはり少し怖かった。狼に食べられてしまっても、自らはもう神様の御許へ行けないかもしれない。だってもう、フリーパスの年齢制限を3年も超過している。  とにかく注意深くあらねばならない10歳児にとって「俺と一緒にいれば安全だからな」と言う兄の言葉は、とてつもなく心強いものだった。彼の周りには銃を持った男達が沢山いる。怒り狂ったハルクでも、簡単に追い払ってしまえるだろう。  そう、彼を信じていればいい。そして学ぶのだ。兄を助ける為に。  2つの決意は両立が難しかったが、それでもオマールは努力し、邁進していたし、上手くやっていた。ペリーが妊娠していると知るまでは。

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