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第1話 未熟なオメガ(1/3)

 蝉時雨の煩い、日没前のことだった。 (――また、発情しなかった……)  音瀬商事株式会社代表取締役の音瀬泰衡(おとせやすひら)を大叔父に持つ二十歳の音瀬雫(おとせしずく)は、失望とともに重い足取りで邸の一階の執務室の扉を叩いた。 「大叔父さま、雫です」 「入りなさい」  大正末期に建造され、のちに増改築が繰り返された音瀬邸は、都心の外れの杜の中にある。毛足の長いペルシャ絨毯の上に清朝末期の家具が配された些かエキゾチックな趣のある執務室には、西の庭の遣り水の涼やかな音が届いていた。庇が張り出しているせいで部屋の中程まで影を落としているが、太陽が如何なく威力を発揮するおかげで、わずかに日が傾き、エアコンが付いていても、昼日中の熱が逃げない。 「……失礼します」  入室と同時に室内のもわっと埃くさい冷気が雫を圧倒した。 「ご用件は……」  雫は先ほど、幼稚舎時代からの学友で婚約者でもある、西園寺グループ株式会社のうら若き次期総裁候補、西園寺久遠(さいおんじくおん)に会ってきたばかりだった。執務室に踏み込むなり、威圧的な泰衡に身を竦ませまいと奥歯を噛み締める。窺うような姿勢になってしまうのは、今にはじまったことではない。この大叔父は、オメガの雫を道具としてしか認識しなくなり、久しかった。  代々、アルファが生まれ続けることで繁栄を維持してきた音瀬家において、雫を産むと同時に亡くなったアルファの母の志寿と、次期当主にと辣腕を見込まれたものの、志寿を追うように遊説中に心臓発作で急逝したアルファの衆議院議員の父の代わりに、後見人として雫の養育を担ってくれている、亡き祖父の弟の泰衡に、雫はついに慣れることがないままであった。  古希をとうに過ぎた泰衡は、痩せこけた外見に白髪をきちんと後ろへ撫で付け、麻のシングルブレストの上着が皺になるのもかまわず、椅子に深く身を預けていた。雫の事実上の保護者は、何を考えているのかわかりづらい硝子のような鋭い眼差しで雫を射た。 「報告は七月から聞いた。今日も駄目だったそうだな」 「はい……」  申し訳ありません、と謝罪の言葉を吐きそうになるのを雫は堪えた。泰衡の冷徹な眸に映る雫は小さく頷いただけだったが、心の中まで明け渡すことを頑なに拒んでいるようにも見えた。  泰衡に冷たく睨まれるたびに、第二種性別検査でオメガと判定され、周囲を絶望させた六年前を嫌でも思い出す。泰衡のすぐ横に控えている七歳年上の雫の異父兄、涼風七月(すずかぜなつき)の姿を確認し、わずかに緊張を解くが、オメガの少し変わった外見を象徴するような朽葉色の髪と眸は怯え、今にも震え出しそうだった。 「……旦那さま」  いつも影のように雫に付き従い、助けてくれる従者の七月が、遠慮がちに泰衡を宥めた。  七月はベータの父を持つが、出来損ないと陰口を叩かれるオメガの雫とは、似ても似つかぬ堂々としたアルファだった。癖のない黒髪を一房残して後ろへ流し、おそらく雫の母でもある志寿(しず)の血が濃く出たのであろう、漆黒の眸を持つ、影のある美丈夫だ。夏物の無地のアッシュグレーのジャケット姿のまま、服従の証のように両手を背中に回していた。  七月は、雫とともに赴いた西園寺邸から帰宅後、その足で泰衡のもとへ定時報告に上がっていた。  人間を三種類に大別する第二の性が人類に見出され、およそ百年。アルファ、ベータ、オメガの三種に分類される中でも、オメガは様々な理由から周囲に緊張を強いる存在として忌避され続けている。特に男性オメガは希少だが、同性のアルファに対しても誘引フェロモンを放つため、それを厭うアルファの多くが傍に寄りたがらず、大衆として数を頼むベータもまた、才気煥発なアルファの価値観に右倣えをするきらいがあった。社会で異端視され続け、孤立し、排除されがちな男性オメガが生き続ける難しさを、これでも雫はあまり知らずに済んでいる。  泰衡も、また異父兄であり、アルファでありながら雫に傅いてくれている従者の七月も、雫とはまるで似つかぬ優秀さと、人を惹きつける華を持っている。もっとも七月は、雫の母でもある志寿が、当時、音瀬邸に勤めていたベータの男性と駆け落ちの末に誕生した変わり種で、両親の死後、泰衡により認知はされたが、諸般の事情により音瀬の名を継ぐことはしなかった。  生まれた時からアルファに覚醒すべく期待をかけられ、育てられてきた雫が、オメガと判定され、六年。未だに発情期がこず、婚約者の久遠との関係も、さほど進展の気配がない。気を揉んだ泰衡が何度も雫に再検査を受けさせたが、結局オメガである事実は覆らなかった。  最初は心配した泰衡も、今は半人前の烙印を押すような目で雫を見る。当主の泰衡がその態度だから、数いる使用人らは言わずもがな、唯一の味方である七月のいないところでは、雫は邸内でも孤独だった。

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