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第1話 未熟なオメガ(2/3)

「西園寺邸に通うようになり、どれぐらい経つ?」  泰衡の問いに、雫は呼ばれた理由を悟った。 「婚約が、二年前のことでしたので……」  日本有数の巨大企業体である西園寺グループ総裁の嫡男の久遠に望まれ、結婚を前提とした付き合いを受け入れたのは、雫がまだ十歳に満たない頃のことだった。正式に婚約したのは二年前、互いに十八歳になった初夏のことだが、それから毎週末の土曜日の午後の二、三時間を西園寺邸で過ごす生活を雫は続けている。婚約者の久遠と時間をともにし、親睦を深めるというのが表向きの理由だが、実際は相互にフェロモンの影響を受け合い、特に未発達な雫に、オメガとして覚醒を促すのが目的だった。 「近頃は発情促進剤も使わないとか。そんな調子で、西園寺家の嫡男の寵愛が長く得られると?」  どこへゆくにも雫に同伴する七月には、すべてを包み隠さずに話している。当然、七月経由で泰衡にも、久遠との様子が筒抜けであることは承知していた。 「……すみません」  でも、と雫は内心で反駁を試みる。  発情促進剤を使うと、久遠はいい顔をしない。久遠に止められるまで、雫は劣等感から様々な種類の促進剤を試し続けていた。オメガの身体がどうなろうと、発情しなければ一人前とはみなされない。焦りと不安に押し潰されそうだった雫を、久遠は何度も「待つから」と諌めてくれた。  以来、年に一度あるかないかの両家の揃う正式な機会に、形式的に促進剤を口にすることはあるが、しっかりした準備をしていないのは、雫の責任だった。 「この婚約は、ひとえに西園寺グループ総裁の恒彦(つねひこ)氏の恩情によるものなのだぞ。子どもの産めない半人前のオメガだなどという噂が立ってみろ。いつ婚約を破棄されてもおかしくはない」 「はい」  諾々と相槌を打つ雫に、泰衡はもどかしげに問うた。 「この話、進める気があるのか?」 「もちろんです……っ」  やっと顔を上げた雫に、泰衡は目を眇め、ため息をついた。 「婚前診断の結果が出た。お前も目を通しておきなさい」  執務机の上に投げ出された封筒から覗くA4版の用紙数枚を、七月が経由して雫に渡す。見ると、ずらりと項目ごとに赤文字の「F」が並んでいた。 「これは……っ」  概要欄に視線をやると「当該遺伝子間ノ性交渉ニ於ケル妊娠ノ可能性ハ極メテ低シ」とある。 「どうりで発情しないわけだと、お前は感じなかったのか?」 「……っ」  追い討ちをかける泰衡の言葉に、雫は息を呑み、ふらついた。何かの間違いではないかと、何度も熟読するが、齟齬のある箇所はひとつとして見つからない。  婚前診断書はアルファと番うことになったオメガが、結婚に至る前に、儀礼のひとつとして公開することが半ば形式化している書類のひとつだ。婚姻後の相性を遺伝子レベルで予測し、SABCDEFの七段階評価で判定する誓約書のようなもので、最終的には婚姻する両家、つまりアルファ側の家の同意を得て、世間に発表される習わしだ。雫はオメガなので、西園寺側の立場を慮り従来のやり方を踏襲したが、その結果が全項目最下位のオールFであることの意味を考えないわけにはいかなかった。 「まあ、この結果だ。お前に何かを期待するのが酷だということはわかった。そこでだ」  泰衡が顎を引いた。眸が不穏な光を宿す。 「お前に色を付ける。間違っても西園寺側の意思を翻させないための保険だ。雫、閨房術を習いなさい」 「え……?」 (ケイボウ、術……?)  聞き慣れない言葉に雫が思わず聞き返すと、泰衡は眉を寄せ、強い口調で言った。 「このまま初夜に失敗する前に、少しでも勝率を上げるのだ。あの御曹司を籠絡する手管を、ひとつでも多くその身体に叩き込め。然るべく学び、是が非でも西園寺グループの次期総裁候補に取り入るのだ。そしてあの青二才を骨抜きにし、手玉に取れ。その為に、お前に七月を付ける。いいな?」 「は、い……」  気圧され、返事をしながらも、泰衡はなぜこんなにも頑ななのか、考え続けてきた答えの出ない疑問が脳裏を過ぎった。  散々迷った末に、雫は恐るおそる口を開く。 「あの……護身術だけでは不足、ということでしょうか?」  泰衡が顔色を変えたのを見て、急いで付け足す。 「いえ……っ、い、異議があるわけでは決してなく……っ。打たれる覚悟もありますし、七月にされて嫌なことなどありませんが……」  だって「ケイボウ術」だ。警棒で打たれる訓練と雫が解釈すると、七月と泰衡がそれぞれ妙としか言いようのない表情をしたので、雫は自分が見当違いの発言をしたのだと気づいた。

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