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第1話 未熟なオメガ(3/3)

「護身術、という点におかれましては、雫さまは満点です。できれば辞書をお引きいただきたいのですが……」  七月が助け舟を出すように、執務室の書棚から辞書を一冊拝借し、雫の前へ広げてみせた。 「けいぼう……閨房、術。ねや……閨ごと……?」 「さようでございます」  初めて聞く言葉に、夫婦の褥での行為だと解説された文字列に、途端に雫は尻込みしたくなる。発情経験がないせいか、雫は性欲というものを持て余すことがない人生を送ってきた。重ねて二年に及ぶ婚約期間中、久遠としたのは軽い接触と、挨拶の延長線上にあるささやかなくちづけだけだ。唇に触れられるのさえ片手で数えるほどの経験しかない。それがいきなり閨での営みを覚えろと言われても、性的なことに疎い雫は、どうすればいいのかわからなかった。 「あ、の……っ」  あたふたと認識を改めた雫に、泰衡は呆れた様子で釘を刺した。 「閨房術と婚前診断書の結果については、わたしと七月以外には他言無用だ。婚前診断は万が一にも間違いがないかどうか、私の方から再検査を申請する。が、一度でもこんな結果が出た以上、最悪の事態も鑑みねばならん。お前がきちんとひとり立ちできぬようでは、わたしも枕を高くして眠れない。わかるな?」 「は……はい」  返事をしながら、血の気が引いてゆく。そんなことまでを兄である七月に師事しなければならないのか。他のことなら我慢もするが、性的なことへの拙さを暴露されるのは、いかに七月相手でも耐え難い気がした。  一方で、六歳からともに勉学に励んできた久遠のことを、雫はとても好いていた。久遠との婚約破棄など、考えただけで心臓が痛くなる。その可能性を回避できるのなら、多少の無理など容易いことだった。 「はっきり言っておくが、この件に関して、お前に拒否権はない。わたしのやり方が気に食わなければ、さっさと家を出て独立し、好きな道を歩みなさい。その場合は西園寺側に破談を申し出ることになるが、発情期もろくにこない未成熟なオメガを、何の用意もなく送り出すような無責任で恥知らずな真似は、わたしには到底、できかねるからな」  念押しのように泰衡の眸に力が入る。その気迫に一瞬、呑まれかける。が、一介のオメガが家を飛び出し、ひとりで生きられるような教育は受けていない。泰衡が婚約破棄をちらつかせるのは、オメガ側から断った方が体裁がいいからだ。雫を従わせるための、脅しの一種だった。 (七月、なら……)  一瞬、雫は甘えるように、七月へと視線を向けた。大叔父の無理難題に困った時は、そうする癖がついている。七月が無言のまま小さく頷いたので、雫は小さく安堵した。 (大丈夫、だ)  七月が納得し、了承したことなら、神経質に身構えることもないだろう。きっと、基礎的なことを口頭で伝え、後から少し実技が入るとしても、そんなに非常識なことにはならないはずだと、雫は極めて楽観的に判断した。  雫に発情期がこないことを知るのは、久遠を含む西園寺家のほんの一部の者と、音瀬家の泰衡と七月ぐらいだ。きっと七月なら、何かいい知恵を授けてくれる。それに、七月から講義を受ければ、雫が進化する可能性もある。 「……わかりました。大叔父さま、おれ、やります」 「良し。細かいことは七月に一任してある。励みなさい」  雫は背中に汗をかきながら、きつく結んでいた唇をほどいた。 (できないことを克服するには、ぶつかるしか、ない――) 「ご期待に添えるよう、頑張ります。七月、よろしく頼む」 「――かしこまりました、雫さま」  七月がわずかに頭を垂れるのを確認すると、泰衡はうんざりした様子で椅子を回し、雫と七月に背を向けた。  夏の日差しがじりじりと、書斎の床を灼いていた。

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