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第2話 はじめての閨房術(1/4)

『今夜、伺います』  七月に言われ、執務室を出てすぐ扉の前で別れたきり、もうすぐ日付が変わる。就寝時刻を過ぎても現れない七月に気を揉んだ雫は、ベッドの上でもどかしげに寝返りを打った。  あれから「閨房術」についてひととおり調べたが、知れば知るほど悪い方向へ想像が傾いてゆく気がして、途中で手を止めた。ナイトテーブルの上に投げ出された雫の携帯端末は、中途半端な先入観は学習の妨げになるとの言い訳のもとに、揺るがない湖面の如く間接照明を反射している。  こうして七月を待つのはいつ以来だろうか。遠い記憶が蘇るのを拒むべく雫が瞼を閉じると、寝室の扉を控え目に叩く音がした。 「起きていらっしゃいますか? 雫さま」  照明の落とされた隣室の扉の影から、七月のシルエットが現れる。安堵した雫が頷くと、七月は薄闇の中、近づいてきて、携帯端末を端に寄せ、代わりにマグカップを乗せたトレーをナイトテーブルの上に置いた。芳醇なカカオの香りが鼻腔を潤す。 「良かった。お眠りになっていらっしゃるかと。ココアをお持ちしました」 「あ、おいしいやつ」  いつもどこか張り詰めた雰囲気の七月が、無防備に笑うのは珍しい。張り巡らせている緊張の壁を、雫と一対一の時だけ緩めてくれるのが嬉しかった。マグを受け取った雫が濃い液体に口を付ける。とろみのある湯気がふわりと香り、仄かにアルコールの風味がした。 「お酒、入れた?」 「洋酒を少し。お嫌でしたか?」 「ううん。懐かしい味。おれ、これ好きだよ」  きっと、七月なりの心遣いだろう。雫が両手でマグを持ち、味わいながら半分ほど嚥下するのを待ちながら、七月は寝室の壁際にあるライティングデスクとセットになっている椅子を、ベッドサイドに持ってきて、腰掛けた。 「今日は、もうこないのかと思った」  雫が零すと、七月の長い指が伸びてきて、雫の朽葉色の髪をそっと一房、梳いた。 「不安にさせましたね?」 「忙しいのだろうと思っただけだ。プロジェクト、大詰めなんだろ? 本当なら、おれよりラボの仕事を優先して欲しいのに、ごめんな」  七月は、雫の通う大学の理工学部の研究室で、創薬のスペシャリストである斎賀亘(さいがわたる)准教授と、長年にわたり共同で新薬の研究開発に取り組んできた。去年、研究成果を記した論文が准教授と連名で学会誌に載り、開発した薬の特許が下りたため、今年に入ってから、ラボの中でおこなってきた成果を世に問うべく起業し、金策に奔走している。 「私の最優先事項は、雫さまですので」 「……ありがとう、七月」  揺らぐことのない言葉にどれほどの愛情が包含されているか。雫が礼を言うと、七月は返事の代わりに、昔話をした。 「あなたがまだ二歳かそこらの頃、私のあとをついて回って、厨房にまで入ってきた時のことを思い出します」 「そうなの?」 「ええ。旦那さまに大目玉をもらいましたが、あなたが泣き出して、結局うやむやに。雫さまは、私を助けてくださいました」 「大叔父さまは怒ると怖いから……」 「泣く子にはかないませんでしたが」  覚えのない過去を語られるのは気恥ずかしかったが、懐かしそうな目をする七月が好きだった。早期に両親を亡くした幼い雫は、何かあるたびに誰の目にも届かない暗く狭い場所に隠れては、こっそり泣き暮れたものだった。  でも、心が張り裂けそうになるたび、必ず七月が雫を見つけ出し、慰撫してくれた。七月に抱きかかえられ、支えられると、何より安心したし、嬉しかった。 「今日はもう、しないのか? その、閨房術の、講義とかは……」  オメガの雫は、アルコールに弱い。ココアの洋酒にとろんとなりながら、意識が落ちそうになるのを食い止めるために質問をした。 「いたします。お嫌ではないですか?」 「うん。大叔父さまにも啖呵を切ってしまったし……大丈夫、だと思う」  閨房術の存在さえ、さっき知ったばかりだ。最初は概論から入るのだろうと当たりを付けた雫が頷くと、七月が切り出した。 「では、はじめる前に少し質問をさせていただいても、よろしいですか?」 「うん、何?」  無邪気な問いに、七月もまたさりげなく問いを口にした。 「雫さまは――ご自身の性器に触れたことはありますか」 「え?」  不意打ちに、沈みそうだった意識に漣が立つ。ココアに入っていた洋酒の影響だろうか、頭の奥が緩んだようになり、拒絶と警戒を抱く前に答えていた。 「ある……と思う。トイレとか?」  先ほど入浴時にも、洗うために触れた。こんな答えでいいのか覚束ないまま素直に返答すると、七月は質問をひとつ足した。

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