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第8話

 次の日。僕はついに教室に入れなくなった。  昇降口で上履きに履き替えると、動けなくなってしまった。  予鈴の音で、ずいぶん自分がそこにたたずんでいたことに気づいた。悩んだ結果、保健室へと向かう。先生は、穏やかに迎え入れてくれて、僕はベッドで横になった。昨夜もベッドに入ったが、上手に眠れなかった。ここ最近、眠ってもすぐに目が覚めてしまう。夢の中で誰かにずっと追いかけられているのだ。  消毒液の清潔なにおい。遠くで、体育の授業や音楽の授業の音が聞こえる。僕がいなくても、世界はまわっているのだと、まざまざと感じさせられてしまう。  頭までふとんを被り、うずくまって自分を抱きしめる。  週末まで、あと少し。  あと少しで、彼に会える。  だから、もう少し、我慢をすればいいんだ。  そう唱えていると、いつの間にか僕は、素直に眠りについていた。 「九条くん」  透き通るボーイソプラノの声に導かれて、僕は目を覚ます。重い瞼を数回瞬くと、もう一度名前を呼ばれたことに気づく。目線を動かして、声の主を見やると、天使がいた。ああ、僕、死んじゃったのかな、なんて思ってしまう。しかし、だんだんと意識が覚醒してきて、がばり、と身体を起した。 「体調、大丈夫?」 「な、なんで…」  なぜか僕を起しに来た夢木美久に瞠目する。掛布団を集めて、胸元で握りしめる。こめかみが、がんがん、と強く痛み出す。カーテンの端から、先生が顔を出して、朗らかに話す。 「大分、顔色もよくなったね。これなら、戻れそう?」  素直にうなずけなくて、困っていると、美久が替わりに話し出す。 「先生、九条くん、最近ずっと顔色が悪かったんです。念のために、今日は帰った方が良いと思います」  そう心配そうに話す少年を見て、先生は賛成してしまった。帰れるのは嬉しいけど、なぜこの人がそう話すんだろう。とにかくこの少年から早く離れたくて、何も言わずにいると、先生は、心配をしながらも、また笑顔で僕に声をかける。 「それにして、夢木くん。わざわざ心配して様子を見に来てくれたんだよ。優しいお友達だね」  純粋な笑顔と言葉に、僕の心は、切り刻まれたような感覚があった。  なぜ、ろくに話したこともない、むしろ僕を傷つけるようなことを言った彼が、僕を心配するのだ。そんなわけないだろう。先生に理不尽に怒りたくなってしまう。  先生は、家庭へ連絡するために席を外してしまった。がらがら、と引き戸が閉まるのを、行かないで、と止めたかったのに、声が出なかった。先生がいなくなったのを見て、彼は僕に振り返った。 「ねえ」  先ほどまでの笑顔はどこへ行ってしまったのだろうというほどの、無表情で冷たく言い放つ。 「まだわかんないの」  ぎゅう、と布団を握りしめて、彼を睨みつける。何を言われるのかわからない。でも、良いことではない。 「咲弥くんに、お前なんか釣り合わないんだよ。何ちょろちょろ纏わりついてんの」  ゆったりと足を組んで、その上で肘をたてて顔を乗せる。 「咲弥くん、言ってたよ。本当はピアノを続けたかったって」  どき、と心臓が大きく跳ねて、止まったように感じた。  なんで、そんなこと知っているの。  僕の動揺がわかったのか、にたりと笑って、続ける。 「別にプロになりたいとか、そういうんじゃなくて、ただピアノが好きだから、もっと習いたかったんだって」  僕には、なんでも話してくれるの。  優越感に染まった笑みで、ことり、と小首をかしげた。姿だけ見れば、計算しつくされた愛らしい仕草に見えるのかもしれない。僕には、怖くて怖くてたまらなかった。今にも叫び出しそうなのに、喉からはかすれた呼吸音しか聞こえない。  確かに、彼はピアノが大好きだった。今でも、彼の部屋にあるグランドピアノで色々な曲を弾いてくれる。それなのに、習い事として教わっていたものを辞めたのは、僕との時間を作るためだった。 「かわいそうにね、咲弥くん。僕だったら、そんなわがまま、絶対に言わないのに」  また、僕はわがままを言って、彼に迷惑をかけてしまったのか。  彼のやりたかったことを、奪ってしまったのか。 「咲弥くんってさ、お母さまに似て、お花のいい匂いがするよね」  なんで、そんなこと知っているの。  下がっていた目線を、ゆるゆるとあげると、頬を上気させて瞳を潤ませた悪魔がいる。 「僕のうち、医者一家だからさ。ご両親とも仲良くさせてもらってるの。将来は、ぜひお嫁さんに、なんて言われちゃった」  控え目にうっとり笑う彼の声は、鈴の音色のように美しいはずなのに、ねっとりと耳の中に残る。 「そんな…」  あの母親は、絶対的なアルファ信者だ。  同じオメガの美久にそんなこと、言うはずがない。 「僕、あのお母さまにすごく気に入られてるの」  ほら、僕って、かわいいじゃない?  そう言って、両手を顎に添えて上目遣いでこちらを見る。僕には、恐ろしくてたまらないのだが、これを世の人たちは、かわいいと言うのだろう。  何も反応を見せないで、顔色を失っている僕を見て、つまらなさそうに続けた。 「だからさ、僕とあんたみたいなブスが一緒にされるの、すっごく不愉快。だからさ、僕と、咲弥くんの前から、消えてよ」  大きな瞳は、光を宿さずに僕を見下しながら、声は、低く小さく、しかし鋭く僕に突き付けられた。  それでも、僕はうなずくことは出来なかった。  彼がいなくなったら、僕は生きていける自信がなかった。  ただ固まって何も反応をしめさない僕に、大きく溜め息をついて、足を組み直す。 「まだわかんないんだね、頭悪っ!あんな難しい本読んでるのに」  はっきりとした悪口に、何度も後頭部を殴りつけられているような衝撃が走っている。  しかし、なぜ、本のことなんか知っているのだろう。休み時間に、僕のことを見ていた?それとも… 「これ以上、咲弥くんに付きまとうとさ、本だけじゃすまないかもよ?」  桃色に艶めく唇で弧を描いて、彼は僕に顔を寄せて囁いた。  すぐさま、後ろに飛びのくと、彼は愉快そうに声出して笑っていた。  怖い。  今まで、物がなくなったり、本が汚されたりしたのは、警告だったんだ。  彼から離れろっていう。  それを、こいつがやったんだ。 「バカでのろまで、ブスで自己中のお前でも、ようやくわかった?」  いつの間に、僕はこんなにも人に恨まれるような人間になってしまったのだろう。  どうして、この人は、こんなに僕を憎んでいるんだろう。嫌いなんだろう。  僕が何をしたっていうの。  頭の中は疑問と恐怖でいっぱいになっていて、そのあと、どうやって家まで帰ってきたのかも記憶がなかった。ただ、ベッドの中で、開いた目からずっと涙が溢れていた。止まることを知らなかった。  それから、数日。僕はベッドからも出られなかった。  待ちわびた、唯一の楽しみだった週末なのに、身体が動かなかった。  だから、彼には会えないと連絡をいれてもらって、少し身体が和らいだのがわかって、自分でさらに傷ついてしまった。  どうして、大好きな人を、好きでいたら、いけないのだろうか。  彼が、あまりにも色々なものを持ちすぎているからだろうか。  そうじゃない。  全部、僕が足りないからだ。  僕が、彼の隣にいても良いような、すごい人じゃないからなんだ。  僕のせいなんだ。  でも。それでも、僕は、彼の隣にいたい。  わがままだけど、彼に迷惑かもしれないけど、それでも、僕は、僕をかわいいと言ってくれる、好きだと言ってくれる彼を、信じたい。隣にいたい。ずっと一緒にいたい。  どうしたら、彼とずっと一緒にいられるんだろう。  周りも納得するような、固い何か。  その時、控え目にドアがノックされた。久しぶりに、身体を起したような気がする。焦点が定まらないで、馴染んだ部屋なのに、ぼんやりとしか見えない。 「聖?」  まさか。  聞き間違えるはずがない。  彼の声だもの。  もう一度、ノックされる。 「俺、咲弥だけど。入っていい?」 「う、うん…っ」  そんなこと、ありえないと思っていたのに、がちゃり、とドアノブがゆっくり回った。どうしたら良いのかわからなくて、僕はとりあえず、急いで布団をかぶって、横になった。  どきどき、と久しぶりに心が高鳴っているのがわかる。会いたかった。会いに来てくれた。  それが嬉しくて、やっと生きた心地がする。 「聖、大丈夫?」  そ、と布団越しに身体を撫でられる。どき、と身体が固まって、息がつまる。でも、それは、苦しいのではなくて、恍惚とした、温かいものだった。  彼の顔が見たくて、布団を下げると心配そうに僕を見る顔がすぐそこにあった。 「ごめんね…さく」  会いたくて、大好きで、ずっと一緒にいたい彼がすぐそこにいる。  嬉しくて、愛おしくて、しあわせで。鼻の奥がつん、と痛むと、視界がゆるゆるとにじんでいく。だから、彼の顔が赤くて、呼吸も荒いことに気づかなかった。 「聖…」  掛け布団を、彼がゆっくりとはがす。どうしたのかわからないけれど、彼の瞳を離れることはできなかった。 「さく…?」 「この部屋…聖の、匂いで、いっぱいで…」  ぽろ、と涙がこぼれると、彼の顔がよく見える。見たこともないほど、顔は赤く染まり、汗がこぼれている。つ、と口から涎が伝い落ちてきた。身体を起そうとすると、彼がベッドに片足をついた。 「聖の、いい匂い…聖…」 「さく…?どうし、」  肩を捕まれて、そのままベッドに沈む。ぎ、と鈍い音が聞こえたあと、目の前には、うっとりと潤んだ深い青の瞳があった。唇が、ぬろ、と舐められているのに気づく。名前を呼ぼうとした隙に、その舌は我が物顔で僕の口の中を蹂躙する。上顎をなぞられて、身体がすくんでいるうちに、彼の熱い手のひらが、シャツの下に入り込んできた。 「んんっ!」  胸を押すがむしろ、ぐ、と力を込めて押しつぶされてしまう。乱暴にパジャマのボタンをとられていく。最後の方に、ぷつ、と音がして、ボタンが弾け飛んでいった。あらわになった僕の首元に彼を顔を寄せる。 「さ、さくっ!な、にっんんっ」  ぢゅう、と強く首元を吸われて、痛みが身体が縮こまる。唇が離れると、ど、と血が巡るような感覚があって、じんじんと甘い痺れが僕の頭を溶かしていく。 「ひじ、り、っ、俺の、俺の、聖」

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