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第7話
早朝の登校時、吐く息が白くなってきた頃、いよいよ彼が児童会から離れる時が近づいてきた。
それに合わせるように、彼との婚約の話も現実味を帯びてきていた。
しかし、そこで、僕は本当の現実を知ることとなる。
先日、両家の顔合わせを、彼の家で行った。もともと幼い頃からよく会っていたし、僕の両親はそのつもりでいたので、改めて話すようなことはなかった。それでも、両親はずっとご機嫌で、僕の婚約話を心底喜んでくれていた。忙しくてあまり会えない両親だが、そうやって笑顔でいてもらえることに、僕はすごく嬉しかった。彼の両親も、背筋のまっすぐ伸びた美しい二人だった。彼の母親は、アルファの女性だった。しかし、別にオメガだからといって蔑むことはなく、彼が添い遂げたい人を見つけてきたことをとても喜んでくれていた。それに、昔から知っている僕であることがわかると、なお安心してくれていたようだった。
「わがままな息子で足りないところもたくさんあるけど、よろしくね」
そういって、僕の頭を撫でてくれた。ふんわりと、バラのようないい匂いが似合う、美しい彼の母親に認めてもらえて、すごくすごく嬉しかった。
彼の家のお抱えのシェフがつくる、フレンチのコースは子どもの僕でもおいしかった。おいしいもの、喜んでくれる家族、そして、大好きな彼。隣で同じように食事をしている彼は、隙を見ては、テーブルの下でこっそり指をからめたり、手のひらをくすぐってきたりした。砂糖水の中にいるような、しあわせな浮遊感のまま、僕たちの婚約の話が順調に進められた。
そう思っていた。
夕食が終え、僕たち家族がいつもの車に乗り込んだ時、ふと、ハンカチをテーブルに置いてきてしまったことに気づいた。両親に、取りに行くから待ってて、と言い残して、車を出て、来た道を帰っていく。玄関で執事に声をかけるが、手を煩わせるのも申し訳なくて、自分で取りに行くと言って、屋敷の中へ走っていった。
ふ、とバラの匂いがして、足を止める。すぐそこの部屋の扉が少しだけ開いていた。中から、彼の母親の声がした。いけないとは思いつつ、ほんの出来心で中をこっそりのぞくと、予想通りの人と、彼女の付き添いの人がいた。彼の母親は、紅茶をゆったりと楽しんでいた。
「奥様、本当によろしいのでしょうか」
いつも彼女の横にいる秘書のような人は、声を潜めて淡々と言った。母親は、紅茶の匂いを楽しみながら、明るい声で答える。
「いいのよ、あの子が選んだのだから」
「そうでしょうか…」
どきどき、と心臓が早くなるのがわかった。こんな盗み聞きなんて、失礼だ。早くハンカチをとって、帰らないと、とわかっているのに、なぜか足が動かなかった。母親は、形の良い唇を朗らかにゆるめながら、それに、と続けた。
「アルファの男性にとって、オメガの一人や二人、嗜むのは当たり前のことよ。それでこそ、アルファだとおっしゃる殿方もいらっしゃるくらいだもの」
あの人だってそうなのだから、とくすくす笑いながら、彼女は話した。
「それに、変に外で遊ばれるよりも、親がわかる範囲で遊ばれる方が気が楽だわ。そうした遊びを覚えるのに、咲弥もいい歳でしょう」
じわ、と汗がにじんでくる。
本当に、先ほど、僕の頭を撫でてくれた女性と同じ人物なのだろうか。心臓が、嫌な鼓動で血流を全身に送る。
「なるほど、それはごもっともです」
「時期が来たら、良いところのアルファのお嬢さんを見繕ってあげてね。それまでは、色々なものを食べさせてあげないと」
もちろんです、と秘書は微笑んで答えた。
「咲弥さまにふさわしい、血筋と能力と美貌をお持ちのお嬢様をご用意させていただきます」
秘書がそうはっきりと伝えると、母親は、彼女の能力の高さを褒めていた。
気づいたら、門の近くまで走っていた。ぜえぜえ、と耳障りな呼吸音も、じっとりと肌を舐めるような汗も気持ち悪かった。
眩暈がする。先ほどのやり取りと、僕の頭を優しく撫でたあの女性と、どちらが本当の彼女なのだろう。わからない。でも、どちらも現実で起きたことだった。
少なくとも、僕は、彼の伴侶としては、認められていないということだけはわかった。
アルファがオメガの愛人をたくさん持っていることは、この社交界にいれば、子どもでも耳にしてしまう事実だった。その意味がよくわからなかったけど、あの母親が言っていたのは、そういうことだったのだろう。
彼には、彼にふさわしいお嫁さんが、あの母親によって用意され、彼はその人と結婚し、子どもを作るのだろう。オメガの男である僕ではなく、美しいアルファの女の人と。
「聖?」
暗闇の中から声がして、急いで振り向くと、木々の中から、ひょっこりと彼が現れた。
「まだいるかなと思って出てきたら、本当にいた」
高揚した顔つきで彼は僕に駆け寄ってきた。ふんわりと当たり前のように抱きしめられる。
「やっぱり、俺たちって、運命なんだな」
運命の番。
アルファとオメガしかありえないもの。
運命で結ばれた相手を見つけられるアルファとオメガは、本当に天文学的数値らしい。
僕たちは、その世界で、巡り会い、お互いを好きになった。
「…どうした?」
そ、と目元を撫でられて、は、と意識を戻す。
「な、なんでもない!あ、お母さまたちが待ってるから、僕、もう行くね」
なんとか笑顔を取り繕って、彼から離れる。今日は、簡単に離してくれた。名残惜しそうに最後の最後まで指先が触れ合っていた。
「また来週」
微笑みながら手を振る彼に、抱き着きたかった。慰めてほしかった。怒ってほしかった。愛を囁いてほしかった。
でもそれは、彼を困らせてしまうもので、迷惑以外の何物でもないだろう。
だから、歯を食いしばって、僕は車に駆け込んだ。様子のおかしい僕に気づいた両親は、どうしたのか聞いてきたが、緊張して疲れただけと答えて、寝たふりをすれば、それ以上は聞いてこなかった。
子どもながらに、彼と好きでいる、この先もずっと一緒にいることは、すごく難しいことなのかもしれないと漠然として大きな闇の中に一人取り残されている気持ちになっていた。
車窓から流れるネオンがにじんで、眩しかった。
その翌週に、また僕は悪意を形として受け取ることになってしまう。
またぽつぽつと、物がなくなり始めた。
そして、今日、移動教室から帰ってくると、カバンの中にしまっておいた読みかけの本が、ぐっしょり濡れて机の中に入れられていた。昼休みのざわつきの中に、くすくす誰かの笑い声が聞こえる。
この本は、ずっと前に彼が紹介してくれた本だった。大好きで何度も何度も、読み返している本だった。これを読んでいると、彼が隣にいるような、穏やかなあの部屋での時間の中にいる気がして、僕を救ってくれる本だった。
本を抱きしめて、僕は誰もいない第二図書室に走った。いつもの場所に腰を落とすと、ばらばらと涙が溢れてくる。抱きしめている本が、じんわりと僕の制服を濡らした。
僕って、誰からも必要とされていない存在なのかもしれない。
誰かと関わることなく過ごしてきた。誰かの迷惑にならないように過ごしてきた。それなのに、誰かが僕の存在を嫌がっている。誰かに迷惑をかけているんだ。
その姿の見えない相手が、怖くて怖くてたまらなかった。最初こそ、怒りはあったが、今は恐怖でしかない。次は何をされてしまうんだろう。
大切なものが、一つひとつ壊されていく。
ついに、彼とつながっている物語の世界にまで、それ浸食してきた。
もう逃げ道がなくなっている気がして、絶望の淵に僕は立っていた。
目が覚めたら、週末になっていればいいのに。
僕が生きている意味は、彼が会えるからだ。彼がいるから、僕は生きていけた。
会いたい。
さくに会いたい。
抱きしめてほしい。好きだって言ってほしい。
名前を呼んでほしい。
「さく…っ」
名前を呼んでしまうと、もうだめで、嗚咽でひどくなり、苦しくなってきた。
目が覚めると、辺りはすっかり暗くなっていた。瞼が重い。のそり、と身体を起すと、べちょり、と手の中にあった本が床に落ちた。ぼんやりをそれを眺める。
「帰ろう…」
泣きつかれて、もしくは過呼吸で気絶してしまったようで、驚くほど身体がだるい。真っ暗な図書室をのろのろと出る。街頭を頼りに、まだ空いていた昇降口をくぐる。冬の夕暮れは早い。吐くたびに白くなる空気を何も考えずに見る。とぼとぼと校門を目指して歩いていくと、目の前に人影があるのが見えた。
すらりとスタイルの良い少年は、彼だとすぐわかった。その隣には、小柄な少年が並んでいる。少年は、一生懸命、彼を見て笑顔で話しかけている。それに、彼も笑顔で答えている。はた、と足を止めてその二人を見ていると、本当にお似合いの二人に見えた。歩く度に、さらさら、と少年の色の薄い髪の毛が、絹糸のようにはためき、月夜の輝きをうけて神々しいほど美しく見えた。
もう尽きたはずの涙が、また勝手に溢れていた。カバンが重い。水を吸った本が、重いのだ。
ぱたぱた、とアスファルトにシミをつくるのを見ていたら、いつの間にか二人はいなくなっていた。真っ暗な学園には、僕しかいない。街頭がぽつねんと立っているだけだった。
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