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第13話
「何笑ってるんですか?」
図書室の大机で隣に座る柊が、不思議そうに僕を見ていた。大机は六人掛けなのに、柊は僕の隣に座る。しかもわざわざ椅子も寄せてくる。出会ったばかりの頃、約一か月前。最初は、照れながら近づいてきたのに、今やすっかり当たり前のように隣に擦り寄ってくる。
「柊との出会いを思い出して」
ふ、くく、とつい笑ってしまうと、大きな赤毛の少年は、頬を染めてぷりぷり怒る。
「あれは僕が悪いんじゃなくて、先輩が悪いんでしょ?!急に大きな音を立てるのと、その美貌で急に現れたから!」
「あの間抜けな顔…」
くつくつ笑いが漏れてしまうと、柊もつられて笑い出す。
「まあ、先輩が笑ってくれるならいいや」
机にうつぶせながら、僕を上目遣いで見てくる。分厚い眼鏡の隙間から、エメラルドのような瞳が見える。そ、と手を伸ばして、眼鏡に触れると、柊は勢いよく大きな身体を起して、眼鏡をかけなおした。
「何するんですか!」
「なんでこんな眼鏡かけてるの?」
光を反射して、瞳を映さないビン底眼鏡を大事そうに、定位置に柊は直す。頬を赤らめる柊は、おそらく外国の血が混ざっているのだろう。肌はピンクがかった雪のような色味をしているし、赤毛もくりんくりんとして癖っ毛だ。
「眼鏡をかける理由なんて一つしかないじゃないですか」
ん~、と唸りながら、この可愛い赤毛をわしわしと撫でる。硬いのに、ふわふわとしていて、本当に犬のように思えてくる。わ、わ、と困りながらも、この大型犬はおとなしく撫でさせてくれる。
「ん~、やっぱり…変装?」
眼鏡がかかっている鼻梁は筋が通っていて高く、形も良い。ふと見える目元も、赤毛の睫毛がびっしりと宝石を守るように生えていて美しい。唇も形良い。手足も長く、そこには雄々しい筋肉が纏わりついている。身長も百九十はあると聞いた。きっと、この髪型と眼鏡を何とかすれば、かなりの美丈夫になるだろう。
この、顔面至上主義の学園では、かなりの待遇を受けることとなり得る。
「違いますっ、目が悪いからですっ」
唇を尖らせて、ぶっぶー、と言う柊は、見た目に反して、すごく幼く見える。
聞くと、今年入学してきたばかりだと言う。外部生ということは、こんな見た目や態度でも、なかなかの優秀さを持ち合わせている証拠である。
遠くの方から、予鈴が聞こえる。昼休みの終わりを知らせるものだ。
それに、柊は耳を動かすと、しゅん、と眉と肩を落とした。
「もう昼休み終わりかあ…早いな…」
毎日のことなのに、必ずそうやって寂しがる。それがまた、かわいいと思えて、頬が緩む。
「僕も、先輩みたいにここにずっといたい…」
僕の手を大きくて、硬い手のひらが包んでくる。二つ下のはずなのに、僕のものよりも一回り以上大きい。
「じゃあ、それだけお勉強頑張らないとね~」
右手で柊の手を、左手で頭を撫でて慰めてやると素直に喜ぶ。
そして、また放課後来るから、と何度も振り返っては手を振ってを繰り返して、ようやく階段を上っていった。
ずっと、人とは距離を取って生きてきた。僕の人生で、こんなにも打ち解けられた同年代は、彼をのぞいて初めてのことだった。
きっと、あの眼鏡も、無造作な髪型も何か理由があるのだろう。人は、誰だって傷を抱えて生きている。僕だってそうなのだから。
だから、その分、僕の前で笑ってくれている柊の心が、癒されていればいいなあ、と心から願う。
図書室に戻り、僕はいつもの定位置に腰掛け、参考書を開いた。教科書の内容は、四月の時点で終えていた。それ以上のことを学ぶために、今一度学び直しをしたり、専門書レベルの参考書をこうして解いたり、冬に備えての準備をしている。今年の冬には、いよいよ大学入試が控えている。まだ、道は決めていない。それでも、何か、傷ついた人のためになる仕事ができないかと考えている。そのためにも、今は学力を高めて、選択肢を広げることに努めていた。
柊がいない図書室は、空調や蛍光灯のかすかな音が耳に着くほど静かになる。放課後が待ち遠しい、と気づいたら、シャープペンシルで顎を叩いていた。は、と思い直し、僕は机に視線を戻す。
五月の終わり頃に、例年より早い梅雨入りが発表された。雨が多いとは思っていたが、こんなにも早く、梅雨が始まってしまうのは、少し気が滅入る。
さらに、今日は月末で、報告書を持っていかなければならない。
図書室での教室外学習利用についての報告書だ。月ごとに、どのような学習をしていたのかを紙一枚にまとめた簡単なものだ。しかし、これの提出のためには、人が多い場所を通らないといけない。それが憂鬱なのだ。
昼休みに、担任のもとへ向かう。職員室は、教室の並びを抜けて、食堂の前を通った先にある。昼休みは一番人がごった返す場所だった。しかし、仕方がない。
三年に進級し、見事、あの煩わしいクラスメイトはいなくなったが、教室という空間に戻るのも気が引けて、僕はあの居場所を卒業まで守ることを誓った。
「ん?なんだか、騒がしいですね…」
昼休みの中頃が一番、道がすいていることは経験上、既にわかっていた。だから、柊が僕の後についてきた。大柄な柊と歩いていると、より視線を感じる。新入生が、顔を赤らめてこちらを見ているのがわかる。目が合うと、高い声をあげられてしまう。そんなに僕は怖いのだろうか。だから、人とは目を合わせないようにしている。
食堂前を通り過ぎようとした時、柊が気づいてそう言って足を止めた。こんなところ、出来るだけいたくない。早くあの図書室に帰りたかった。
「柊…」
「先輩、なんかあったみたいですよっ」
ちょっと見てきましょう!と声を弾ませながら、野次馬ならぬ野次犬は僕の腕をつかんで、ずるずると食堂内に連れ込んだ。久しぶりに入る食堂は、いい匂いでいっぱいだ。カレーにステーキ。高校生が喜びそうなメニューが並んでいる。すると、耳をつんざく大きな悲鳴で食堂が揺れる。
「なに…」
大勢の人間が視線をやる方へ、僕も向きなおすと、奥の一段高くなっているスペースだった。そこは、生徒会メンバーのみが利用を許されているエリアだ。桐峰学園の生徒会は、能力、地位、人望、そして美貌のすべてを兼ね備えた、学園トップクラスの集団だ。その集団のトップに立つのが、彼だった。遥か雲の上の存在となった彼は、数千人という在校生を持つ学園の王として君臨していた。
そして、今、ここで起きていることに瞠目する。
ここにいる全員の注目を集めるのは、悠然と座る王に、小柄な天使のような少年が、膝の間に立ち、身をかがめて、キスをしていたのだ。あちこちで、がたん、と音を立てて、少年たちが倒れ出す。それをきっかけに、生徒会メンバーが慌てだし、周囲が騒然とする。当の本人たちは、顔色ひとつ変えない。
彼は事態をただ冷めた目つきで無表情で見下ろしていた。そして、彼の前に立ち、頬を艶やかに染め、淡い唇と真っ赤な舌でいやらしく舐めるのは、つややかな金の絹髪を持ち、碧眼を持った、天使だった。見間違うはずがない。記憶の中よりも、背が伸び、より色香を放っているのは、夢木美久だった。
「先輩?」
柊が心配そうに身をかがめて顔を覗き込んできた。顔色を失い、今にも気絶しそうな様子で、ぶるぶると震える俺に気づいて、急いで俺の肩を抱き、人込みをその大きな身体でかき分けて、壁になってくれながら、人気のないところまで歩いてきてくれた。
遠くでまだざわめきを感じながらも、玄関前の廊下は、ひっそりと静かだった。そこにあった革張りのソファに肩を抱きながら、一緒に座る。冷えた身体を、筋肉に覆われた熱いものが、支えてくれる。その温度に、寄りかかり、呼吸を整える。その間、ずっと柊は俺の名前を呼んで、肩や指を撫でてくれた。それに少しずつ、身体がゆるんでいき、ふ、と息をつけた時、柊のかさついた指が、頬に張り付いた髪の毛を優しく耳にかけてくれていた。ゆるゆると顔をあげると、すぐそこに眼鏡に邪魔された端正な甘い顔があった。僕からは見えないけれど、柊は、僕をじ、と見つめていた。そして、その指で、頬を何度か撫でて、つ、と輪郭に沿って下りていき、唇の端に触れた。
「柊…」
ひそやかに名前をつぶやくと、彼の指が一瞬、ぴくり、と止まり、すぐさま手は離れていった。顔も背けられてしまい、笑顔で明るく言い放つ。
「いや~びっくりしましたね!食堂は人が多い!」
無理やりに、だはは、と変な笑い方をしているが、そうやって気をそらせようとわざと明るくしてくれている、かわいい後輩の優しさに、固まった心がほぐれていく。
「書類、僕が出してきましょうか?」
柊が再び僕に向き合うが、先ほどの神妙な面持ちはなく、いつもの明るい笑顔だった。預けていた身体を起して、一度眉間を揉んでから、立ち上がった。近くで、ずっと太い腕を僕に差し出して、いつ倒れてもいいように待っていてくれた。頼もしい後輩に、思わず頬がゆるむ。
「いや、さっさと出してくるよ」
そういって、一緒に職員室前まで行き、無事担任に会えて、今月の報告書を提出できた。月に一度ほどしか会わない担任は、学年の主任をやっている人で、僕に図書室を提案してくれた人だった。さすがの担任にも、顔色が悪いと心配されてしまう。笑顔を貼り付けて、大丈夫です、と言ってその場を離れる。柊が立つことによって、廊下が狭く感じられるな、と思い、くすりと笑ってしまう。柊はすぐに僕に気づくと、ぱっと華やいで笑顔でかけてきた。そして、予鈴が鳴り響く。ぱっと咲いた花は、すぐにしぼんでしまう。
「また放課後だね」
「先輩ぃ…」
ぐず、と鼻をすする後輩は、僕の手を握りしめて離そうとしなかった。
よく、犬は人の気持ちに聡くて、寂しいときはそっと寄り添ってくれると、動画で見たことがあった。それを思い出してしまう。だから、笑顔で彼の頭を撫でる。
「授業頑張って、早く図書室で過ごせるような成績を残すんだぞ」
「わ、わっ、せんぱっ」
いつもより乱暴に髪の毛をかき混ぜると、慌てた柊の眼鏡がずれて、長い睫毛が頬に影を作っていた。それが持ち上がると、まっすぐに、射抜くように僕を見やった。それに、捕食者になった気持ちになって、どきり、と身体が固まってしまう。たった一瞬のことだったはずなのに、数分のように感じられた。
柊は急いでずれた眼鏡を戻して、先輩?と首をかしげた。僕が何か話そうと口を開けた瞬間に、後ろから誰か知らない男の先生が「授業はじまるぞーいそげー」と声を出し、廊下に響く。それに、柊は、は、と顔をあげて、慌てて階段を駆けて行った。それを、仕方ないやつ、と笑いながら見送る。
柊がいなくなると、急に辺りが冷え込んでいるように思える。ぶる、と身震いをして、先ほど見た夢木美久と彼のキスシーンが脳裏に浮かぶ。
なぜ、夢木美久がいるんだ…。僕を蔑んだ、あのオメガが…
ど、ど、ど、と心臓が低く響き、耳裏が揺れる。僕は、誰もいない廊下を歩き出し、図書室に着くころには、すっかり走っていて、息がきれていた。いきおいよく入ったものだから、帰りの支度していた司書の先生が驚いて振り返っていた。それに、笑顔で謝罪をして、いつもの席へと飛び込んだ。指先を見ると、がたがたと大きくはっきりと震えていた。
何かが起ころうとしている恐怖に、自分を抱きしめる他に方法がわからなかった。
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