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第14話

 その頃から、夜、うまく眠ることができなくなっていた。  眠りにつくと、あの食堂での光景や、昔の彼から受けた仕打ちが瞼に浮かんで、冷や汗をびっしょりかいて起きてしまう。さらに、夢の中に、彼もよく出てきた。あのしあわせだった、大切な記憶。それが形を変えて、夢木美久にすべてを壊されてしまう夢。彼にとことん拒絶されて、ぼろぼろに傷つく夢。いろいろな形だったが、彼に許されない夢であることは共通していた。それは、僕をひどく傷つけ、疲労させた。  日に日に濃くなっていくクマに、柊だけはずっと心配し、労ってくれた。 「先輩、これ」  ずい、と目の前に寄せられたのは、アルミの小さな入れ物だった。受け取ると、中には、茶色の液体が入っており、もうもう、と湯気を立てている。 「リラックス効果のあるハーブティーです、安眠効果があるそうですよ」  ちゃぷ、と持っている水筒をかかげて、柊は笑んでいた。湯気の中から、漢方のような、独特のにおいが立っている。せっかく、かわいい後輩が、僕のために持ってきてくれたのだ。ゆっくりと、口をつけて、飲み込むと、生姜の辛みがあるあと、ほんのりと身体が温まり、後味は不思議と甘く感じられた。 「最近、冷房もつき出したから、意外と内臓が疲れていることがあるらしいです」  だからあったかいもので労わってあげると良いそうですよ、と、まだ半分以上残っているコップに、また注ぎたされる。 「柊も、眠れないことがあるのか?」  見るからに、健康優良児の柊に、こんな安眠効果のあるお茶が必要なのかと不思議に思って、お茶をすすりながら、尋ねてみる。 「全くありません!」  からっと笑って答えるのが、あまりにも柊らしくて、つい笑ってしまう。  柊から水筒を受け取って、もう一杯だけ飲む。お互い、期末考査に向けての勉強を始めた。柊が意外と、何事に対してもすぐに集中できるタイプだった。ぶつぶつ、と何か唱えてきて、ちらりと目線だけ柊にやると、国語の教科書を読んでいるようだった。いつもは、はつらつと元気いっぱいの大型犬は、こうしていると、とてもスマートで、大人の男の色気が感じられた。そんなことを考えている自分に、は、と気づき、急いで僕もノートにペンを走らせた。  しばらくすると、ペンの動きが止まり、うと、と微睡んでくる。 「先輩?」  僕の様子に気づいたのか、柊が顔を覗き込んでくる。瞼がやけに重くて、ちゃんと目を合わせられない。 「眠いの?」 「…ん…」  ごし、と瞼を軽くすると、その手を捕まれてしまう。温かく、硬い手のひらに、ほ、と身体の奥がほぐれていく。 「僕がいるから、安心して、寝てください」  右頬を、その手のひらがゆったりと撫でると、心地よさに瞼が下がる。そのまま、ゆっくりと机に伏して、僕は意識を手放した。 「おやすみ、ひーちゃん」  遠のく意識の中で、耳元で温かな息と共に、そう囁かれた気がしたが、朧気なまま状況を理解することは出来なかった。 「先輩、聖先輩」  肩を揺さぶられて、視界が明るくなる。声のする方に顔を向けると、すぐそこに、ビン底眼鏡があった。 「先輩、もう閉館時間です」 「んう…、しゅう…?」  ぽやぽやとする頭を起すと、肩からするり、と何かが椅子にかかる。僕のものよりも、一回り以上大きいカーディガンだった。柔らかいそれは、いつも柊が着ていたものだった。それを手に取り、軽くたたむ。ふわ、と甘くいい匂いがする。香水とは違う、優しい匂い。 「よく眠れました?」  ぽう、とはっきりしない意識の状態で固まっていると、僕のペンケースやノートを我が物顔でてきぱきとカバンにしまっていく柊にそう聞かれる。 「ん…、久しぶりに、こんなにねれた…」  口の中がまだはっきり回らない僕をみて、柊は頬を染めて優しく微笑んだ。 「先輩かわいい」  大きな手のひらが僕の頭を撫でて、そのまま前髪を横に撫でつけるようにして耳にかける。する、と弱いそこを指が通ると、ぴく、と肩をすぼめてしまう。吐息が鼻につまってしまう。 「しゅう…」  僕の手元にあった、カーディガンを大きなリュックにしまう彼を呼ぶ。 「ありがと…」  自然と顔がゆるむ。  穏やかに、隣で眠れる友人が出来るとは、思ってもいなかった。心を許せる相手なんて、一生できないんだろうと勝手に卑下していたが、不眠気味の僕のために、わざわざ調べてお茶を提供してくれる優しい後輩に心から感謝していた。  しばらく、柊は、じ、と僕を見ていて、もう一度名前を呼ぶと、は、と正気を取り戻したように、柊は立ち上がり、僕の腕をとって立たせた。 「さ、早くしないと昇降口閉められちゃいます!」  大きなリュックを背負って、僕のカバンもたくましい腕にかけて、背中を押してくる。電気を消して、廊下に出ると、もう六月だというのに、相変わらずひんやりとしているように思えた。長袖のシャツ越しに腕をさする。 「寒いですか?」  半袖の柊が隣に来ると、高い体温が感じられて温かい。一歩近づくと、腕同士がぶつかる。 「柊はあったかいね」  上にある頭を見上げて笑いかけると、口をへの字に曲げて、柊は僕を見下ろしていた。どういう表情なのかわからずに、また首をかしげる。 「は、早く、いきましょ!」  肩を抱かれて、早足で廊下をひっぱられていく。なんだか変な反応をする柊の耳先が真っ赤になっているのに気づく。それも含めて、不可思議で名前を呼ぶが、柊は関係ない話をべらべらと始めてしまった。  僕の視界には、暗闇の中に、すぐそこにある熱い身体の柊しかなくて、別棟の生徒会室から、僕らを見下ろし、舌打ちをする彼には、気づくはずもなかった。  それからも相変わらず、夜の寝苦しさも相まって、僕の不眠症は改善してく見込みはなかった。それでも、まあまあ元気に登校ができていたのは、放課後のお昼寝があったからだ。  あれから、毎日、柊は水筒を持ってきてくれて、僕にお茶を与えてくれた。申し訳なくて、自分で購入すると伝えると、柊は頑なにお茶については教えてくれなかった。さらにレパートリーも増えて、今日は、花の匂いのするお茶に代わっていた。それもまた、僕をぐっすり寝かしてくれた。  今日は、温かく柔らかな何かに包まれている心地よさが、覚醒していく意識の中にあり、状況を理解するのに少し時間を要した。 「聖先輩、起きた?」  ぱ、と手をついて起き上がると、手のは柔らかな感触があり、柊の胸を押し上げていた。  図書室には、リラックスして読書をたしなめるように、小さいソファが一つだけあった。それに、柊が身体を色々はみだしながらも、仰向きで寝そべり、その上に、うつぶせで僕が寝ていたらしかった。 「ご、ごめんっ」  さすがの後輩であっても、さすがに人様を布団替わりに寝ていたのが、恥ずかしく、申し訳なくて、急いで立ち上がろうとするが、強い力で腕をひっぱられてよろけてしまう。その力の出どころを目線で追うと、僕の腕を柊の手が握りしめていた。力に促されるままに、もとの態勢に戻ってしまう。そして、ぎゅう、と大きな身体に抱き込まれる。柊の甘い匂いが鼻腔いっぱいに広がる。どき、と胸が高鳴るような感覚があった。 「しゅ、しゅうっ」  慌てて名前を呼ぶと、さらに抱きしめる力を強められた。 「先輩…」 「う、しゅうっ…?」  耳元で、かすれたバリトンが鼓膜を揺さぶり、僕の心臓をも強く刺激する。いつもと違う柊の様子に、目を見張り、何度も胸を押すがびくともしない。もう一度、名前を呼ぶとようやく柊はいつもの柊に戻る。 「先輩、抱き心地悪い~」  そう苦々しそうにつぶやいて、腕の力を弱めた後輩の頭を思いっきり平手で叩き落とした。いたーいっ!と頭を抱えてうずくまる柊を他所に、僕は帰りの支度をする。 「安眠作戦にプラスで先輩ぷにぷに作戦を実行しなきゃ」 「ひゃっ」  急に、二の腕の辺りを、さら、と熱いものが撫で、目線をやると、むに、と二の腕をつままれた。薄い皮の部位を触られて、変な声が出てしまい、顔が熱くなる。恥ずかしい。 「触るな、つまむな、変な作戦増やすな!」  やわやわと二の腕とつまむ手を叩き落そうとするが、その前に、ひらりとかわされてしまった。ふー、と鼻息荒く、柊を見上げると、からからと楽しそうに笑っていた。  乱れた前髪を直すふりをして、頬に触れると熱い。  最近、柊との距離感がおかしくなっている気がする。  先ほども、机に伏して寝ていたはずだった。先日、目が覚めると、読書をしている柊の肩にもたれている状態だった。また別の日は、ソファで柊の膝枕で寝ていた。なぜ場所が移動しているのか尋ねると、「先輩、寝相悪くて机から落ちそうになってたんで」と笑いながら言われた。普段から、寝相は悪くないのだが、疲れも溜まっているし、あまりにも純粋に柊が親切心で言っているように見えたので、納得せざるを得なかった。ついに、柊を布団にして目が覚める日が来てしまった。 (やっぱり、近すぎる、よね…?)  友達付き合いをしてこなかった僕は、それが正しいものなのか、間違っているものなのかわからなかった。  彼とだったら、こういう距離感だった。  でも、それは、友達ではなく、もっと…。  そこまで考えて、また、もや、と嫌な気配がしてきて、首を振って、深呼吸をする。  もう、忘れるんだ。忘れなきゃいけない。  あの夜。彼に、裏切者、と言われた、夜。あれから六年が経とうとしているのに、未だに先ほどのことのように鮮明に思い出せてしまう。でも、それも、過去として、過ぎ去ったものとして、僕の中で消化する他ないのだ。  ぐ、と下唇を噛むと、ぱっと辺りが暗くなった。何事かと思って、視線をあげると、部屋の入口で柊が電気のスイッチをいじりながら、こちらを見ていた。にやにやと意地悪な笑みをして、ドアを閉めようとしてくるのを、溜め息をひとつ着いてから、駆けていく。 「先輩を取り残すなんて、悪いやつめ」 「いひゃいっ」  随分高い位置にある柊の頬を、細い指でつまむと、餅のように伸びる。柔らかいそこを楽しむように、もにもにつまむと、もごもご何か抗議する。何を言っているかわからなくて、百九十もある大男なのに、二十センチも身長の低い僕にいいように遊ばれている柊が、面白くて、ついつい笑ってしまう。 「行こう」  昇降口へ向かって、柊の背中を叩くとそれに従ってついてくる。  柊の隣は、本当に穏やかで楽しくて、居心地が良かった。  カバンを肩にかけなおすと、ふわ、と柊の甘い香りがして、どきり、としてしまう。先ほどまで、密着していたのだ、と改めて思わされてしまい、つい、腕の匂いを嗅いでしまう。自分ではよくわからない。 「どうしました?」  身体をかがめて、僕の顔を覗き込んでくる彼の眼鏡がややずれて、いつものエメラルドのような瞳が、きらり、と輝いて見えた。 「いや、なんでもない…」 「まだ寝てるんですか~?おんぶしてあげましょうか~?」  にやにやと茶化してくる後輩の脇腹をつつく。敏感にリアクションを取り大騒ぎする男を置いて、すたすたと先に上履きを脱ぐ。まだ後ろでわめている柊が面白くて、くすくす笑ってしまう。顔をあげたときに、は、と思うことがあった。  まただ。  最近、帰り際に、なんとなく口の中が、花の蜜のような、甘い時がある。もご、と口の中で舌を一回りさせると、やはり、ふんわりと甘味がある。 「も~先輩って本当に手が早いんだから~」  なんだか身体をくねらせて、いやらしい言い方をしてくる後輩は、もうローファーに履き替えて、間反対の三年生の下駄箱まで迎えに来てくれていた。大きな身体のこの男が、不思議な動きをしていると、生意気め、と怒りたいところだったのに、面白くて、声を出して笑ってしまった。もう、閉門時間間際の校舎は、静かで、じじ、と電灯にぶつかる羽音と僕たちの声しか聞こえない。それがまた奇妙なのに、なんだか楽しくて、急いで柊のもとへ大股で動く。隣につくと、長い脚を僕の歩幅に合わせて、すっかり葉桜になった桜並木を傘を並べて歩いた。  隣に並んで、僕だけを見て、一生懸命に青い豆の中ではスナップエンドウが好きだという話をしている。そういうくだらない話は、僕の経験してこなかった時間なのだ。この時間がずっと続けばいいのに、と、嬉しくて、自然と口角があがった。  その時、ただなんとなく、思いついてしまった。  最近、口の中に残る味。これ、柊の匂いを、味にしたらこんな感じかも。  ソラマメはダメなんだ、となぜだか一人で熱くなっている柊を見て、そんな訳ないし我ながらくだらないな、と、軽く笑い飛ばしてしまった。

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