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第15話

「聖」  見上げるほど大きな、鮮やかなマゼンダ色のつつじを見ていると、どこからか名前を呼ばれて振り返る。むに、と頬を指刺され、驚いていると、彼が楽しそうに笑う。 「聖のほっぺって、やわらかいよな」 「む、う、なに」  両手で顔を包まれて、軽く押されてもみくちゃにされる。僕は、彼の手のひらにされるがままで、抗議する間もなかった。むに、と押されて、唇が前に出る。情けない顔になっているだろうから、恥ずかして、離そうと手首をつかんだ時に、ふ、と唇に何か柔らかいものがあたった。すぐそこに、彼の瞼があって、また驚いている内に、頬を染めた彼がくすくすと笑っていた。 「もう!やめてよ」  恥ずかしくて、軽く彼の肩を押したら、後ろの木々の中に倒れていってしまった。僕よりも大きい身体の彼が、そんな簡単に倒れてしまうだなんて思わなくて、急いで木々をかき分けて、彼を探す。  しかし、そこには誰もいない。  気づくと、視線が高くなっていて、高校の制服を身にまとっていた。つつじと同じ背丈になっていた。これは、今の僕だ。さっきまでは、彼と出会った頃の、五歳の頃の僕だ。 「聖」  先ほどよりも、別人のように低い声が、僕の名前を呼んだ。すぐに彼だとわかってしまう。学校で会や式がある度に、壇上で話す彼の声を、耳が、頭が、はっきりと覚えているからだ。初めて、この声で名前を呼ばれる。急いで辺りを見回すと、遠くの方に、ネクタイをけだるげに締める彼がいた。 「さく…」  一歩近づくと、彼が僕から視線を外す。そして、彼の腕には、小柄な可愛い少年が抱き着いた。美久だった。そして、二人は仲睦まじそうに肩や腰に手を回して、寄り添って遠くへ歩いていってしまう。それを、手を伸ばしただけで固まっている僕。  待って。さく。話を聞いて。  心の中で、そう唱えると、彼が振り返る。どき、と心臓が大きく跳ねるが、勇気を出して、声に出そうとする。その時に、彼が、光のない、見下し、心から軽蔑した顔で僕に言い放つ。 「裏切者」  びく、と身体が大きく揺れて、意識が戻る。ど、ど、ど、と心臓がやけに大きく聞こえる。時計を見ると、ベッドに潜ってから、まだ二時間も経っていなかった。じわ、とにじむ汗が煩わしく、手のひらで額を撫でると、びっしょりと濡れていた。涙も出ていたようだった。  また布団をかけなおして、自分を抱きしめて固く目をつむる。早く、朝が来ることを祈りながら。 「聖」  まただ。  また、彼の声が聞こえる。  瞼を上げると、すぐ目の前に、彼がいる。眦が鋭くなり、骨格もすっきりし始めた、十二歳の頃の彼だ。 「ん」  ちゅ、と唇を吸われて、驚いて目をつむる。何度か唇を重ねたあと、熱い吐息があたり、そっと睫毛を震わせながら視界を開くと、情欲に瞳を濡らした彼が目の前にいる。 「さく…」  切なくて、彼の名前を呼んで、頭に抱き着く。  好き。好きだよ、さく。大好き。  言葉にしたくて、でもできなくて、涙が溢れてくる。 「あっ…」  する、とシャツの下に彼の手が入ってくる。脇腹を撫で、あばらを撫でて、背中に回る。肩甲骨の溝を丁寧に、焦らすように辿られて、ぞぞ、とうなじから上へ下へと電流が流れる。ぢゅ、と首筋から音がするよりも先に、じん、と痺れがくる。何度もそうされてるうちに、どんどん身体に熱がこもっていく。 「さくぅ…ん、ぅ…」  唇を噛んで、声が漏れないようにする。むず、と何だか気になる内腿を擦り合わせてしまう。すると、今度は別の場所がむずがゆくなる。 「ぁ…そんな、とこ…」  彼の長い指が、僕の胸を鷲掴むように揉む。男だし、細身の僕は、揉まれるようなものはそこにないのに、手のひらで尖りをつぶすように包まれてしまうと、むずむずしてくる。  指先が、弄ぶようにその桜色の粒の周りをなぞる。くるくる、と周囲を遊ばれると、なぜか背筋がびり、とした。恥ずかしいからやめて、と言おうとした瞬間、親指が先端を撫でる。ぞぞぞ、と内腿に何かが走って、震えてしまう。 「やめ、っ、くすぐった、い…」  親指で何度も撫でられたり、つままれたり遊ばれる。なんだかむずむずする。でも、くすぐったいような気もする。 「や、ってば…ぁ…」  肩を弱い力で押すと、鎖骨の辺りに歯を立てられる。身体が大きく跳ねた。熱い舌が鎖骨から、あがってきて、僕の小さな喉仏を吸って、さらに顎に軽く歯をたてて、もう一度唇に吸い付いた。頬裏をねぶられ、震える睫毛から、雫が溢れる。  気持ちいい。 「聖…」  つ、と銀色の糸が僕らをつなぎ、あっさりと切れてしまう。はあ、はあ、と肩で息をするが、視界はぼんやりとしている。名前を呼ぼうとすると、彼がうっとりと囁く。 「好きだよ…ひーちゃん」  は、と目を覚ます。がば、と身体を起すと、今日は、図書室の自習机で突っ伏していたらしい。肩には、いつもの柔らかいカーディガンがかけられていた。窓には、暗闇がはめ込まれ、電気に反射して、室内が映っている。振り返ると、誰もいなかった。 「柊…んっ」  柊がいない、と椅子を引いて立ち上がろうとした時、びり、と胸元から電流が走った。浮いた腰をもう一度降ろして、自分の胸元を触る。ひり、と痛みと共に、何かが腰にたまるようだった。胸の先端部分が、シャツに擦れて、むずがゆいような感覚を生み出していた。 (どうしたんだ…?)  気づくと、は、と熱い吐息が漏れた。なんだか、身体が火照っているように思える。汗も、じんわりとかいていた。図書室は空調が効いていて、寒がりな僕には、少し寒いくらいだった。だから、彼のカーディガンがかかっていると温かい。不意に、柊の匂いがして、ぞく、と内腿が震えた。 「…?」  ふ、とまた吐息が漏れて、シャツを握りしめる。ふと、制服が乱れているのに気づいた。いつもスラックスの中にしまっているシャツの裾が半分出ているし、柔らかいニットのベストの下のボタンは外れていた。首元できっちりと結ばれているネクタイも、ゆるくなっている。じん、と腰も重い感じがして、まさか寝ている間に一人でこんなだらしない恰好になってしまったのか思うと、か、と羞恥で顔が熱くなる。  がら、とドアが開く音がやけに大きく聞こえて、椅子から飛び落ちそうになるくらい心臓が縮んだ。なんとか急いで、シャツをスラックスにねじ込んで、ネクタイを強引に締める。ぎゅっと上げ過ぎて、苦しくなる。柊のカーディガンを前で合わせるようにきつく握りしめる。 「あ、先輩起きました~?」  へら、といつも通りに笑って、手をハンカチで拭いながら柊がいつもの大机に腰掛けた。 「…? どうかしました?」  ぎゅう、と前でカーディガンをあわせて握りしめて、口を一文字に引き結んで柊を凝視してしまう。 「顔が真っ赤ですよ」  首をかしげて柊は眉根を寄せて心配そうに言った。 「な、なんでもないっ」  椅子を思い切り蹴飛ばして立ち上がり、カバンにどんどん机上に出していたものを仕舞いこむ。なんだか口の端が濡れていて、それを手の甲で乱暴に拭う。それにも、なんだか自分がはしたなく感じられて、恥ずかしくて涙が滲んでくる。 「先輩、大丈夫?」  肩を優しく叩かれたのに、過剰に反応してしまい、後ろに飛びのいたら反対の肩が窓ガラスにぶつかった。  汗がつ、と頬を伝う。顔が真っ赤で、視界は情けなくてにじんでいる。息を飲んで彼を見上げると、眼鏡越しでも、彼が瞠目しているのを感じる。見つめ合っていたのが、一瞬だったかもしれないが、時間がすごく長く感じられた。ごく、と生唾を飲む音が、目の前の立派な喉仏が上下するのでわかった。なんだかそれが、やけに生々しく感じられて、気まずくて急いで視線を逸らす。 「なんでもないっ、なんか、熱いだけだから…っ」  ふ、と強い甘い匂いを感じて、一瞬、ぽや、と意識が鈍くなる。ふら、と足元がもたついたが、柊の腕に抱きとめられる前に、椅子が大きな音をたてて、意識が戻る。柊の方に振り向くと、居場所をなくした腕が宙に浮いて、居場所をなくしていた。 「先輩…」  詰まっていた息と共に、絞り出すように呼ばれて、なんだかわからない空気で、心臓がやけに騒ぐ。どうしていいかわからなくて、カーディガンを強く握りしめるしかできなかった。 「聖先輩…」  じり、と柊が近づいてきて、これではいけない気がして、わざと大きい声をあげる。 「じ、じかんっ!」  ガラス窓に背中をつけて、身体を丸めながら、視線は柊から離さずに声を荒げる。 「時間!もう、閉門時間!急がないと!」  ねっ!と力強く念を押すと、柊から、覇気のような、毒気のような、何かが抜けて行って、いつもの柔和な柊に戻っていくのを感じた。ようやく、僕に背を向けて、離れていく大きな身体に、ほっと胸を撫でおろしている自分が不思議だった。

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