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第23話

 その日は、彼がデリバリーで和食を注文してくれていて、二人で並んで食事をした。昔とは違い、妙な緊張感があって、あまり味を楽しめなかったのが悔やまれた。おそらくとても有名なお店のもので、目の前のサバはふっくらしていて、とても匂いが良かった。ちら、ちら、と彼を盗み見しながら箸を進めた。昔と変わらず、箸使いがとてもきれいで、魚は太い骨以外まっさらなお皿にしてしまう。そういう気立ての良さが、好きだったなあ。としみじみ感じて、身体がほんのりと火照ってしまう。それを打ち消すように、だしの利いた味噌汁を流し込んだ。彼も、そうやって僕の箸使いを見ていることなんか、気づきもしないで。  意外だったのが、食器を彼がすべて片付けようとしたことだった。そもそもデリバリーできた食事もプラスチックの容器のままで食べられるようになっていたが、風呂に入っている間に彼が食器に盛り直してくれていた。片付けは僕がやる、と立ち上がると、嫌そうに睨まれたが、ただ飯を食らうだけでは、さすがに申し訳ない。怖気づかずに隣に並んで、粘ったが水仕事はさせてもらえず、食器を拭く係になった。  あんなに怖かった彼と並んで家事をしている事実が、すごく不思議だった。これこそ、夢なのではないかと思う。先週の僕は、こうなっていることを予想できただろうか。  彼が風呂に入っている間に、先に寝るのもためらわれて、ソファで間接照明の近くで大好きな本のページを捲った。最後のページまで一気に読んでしまい、本をたたんだ時に、は、と我に返った。気づくと、隣で彼がパソコンを開いて何やら作業をしていた。 「ご、ごめん…っ」  別に、何に謝るわけでもないのに、なぜかそう言葉が出てしまった。彼は、ちら、と僕を一瞥してから、すぐに元に戻ってしまう。ふと、彼が身にまとっているパジャマが、自分のそれと同じであることに気づく。シルク地の、僕よりも大きい、紺色のパジャマ。 「先に寝てろ」  冷たく言い放たれると、彼はパソコン作業に集中しているようだった。声もかけづらく、何かを言おうと何度か試みたが、何も言うことがなくて、しょんぼりとしながら、清潔なシーツに替えられていた布団にもぐった。  ダブルベッドのそれしか寝具がなく、ここに入っていいのか少し悩んでしまった。しかし、新たに寝具を要求するのも、ソファで寝ると言うのも、彼に迷惑をかける気がして、僕には選択肢がないのだと気づいた。  また、抱かれるのだろうか。  考えると、恐怖なのか、期待なのか、腹の奥がしくしくと反応していた。  今日のことを振り返っていると、そういえば、と思い出す。  いつも、僕は本を読みだすと集中しきってしまうところがあるらしく、僕が読書の満足するまで、彼は隣で待っていてくれてたことを思い出す。  何度も声かけたんだけど、すっごく楽しそうに読んでたから。と彼は、にこにこしながら話してくれたことがあった。ごめんね、と謝るのに、彼はなんだか嬉しそうだった。本を読んで、ドキドキはらはら表情に表す僕の素直さがおもしろいって笑われたっけ。  つい、くす、と当時を今のように思い出して笑ってしまった。あの時は、何を見ても、彼と一緒なら楽しかった。顔を見合わせてくすくす笑ってしまった。  好き。だったな…。  急いで、過去の意味合いを付け加える。誰も聞いていないのに、心の中でなんだか言い訳をし始めそうだった。もう、終わったことなのだ。昔のことも、その感情のことも。  今は、彼のただの、気まぐれなのだ。昔、遊んでいたおもちゃを他人にとられそうになって、焦っている子どものような。そう、気まぐれ。  そう自分が言ったのに、ずきり、と鼻の奥が鋭く痛んだ。ぐう、と心臓をつぶされるような感覚もあって、身体を丸めて堪える。  だって、そうでなければおかしい。彼が、僕をもてなしてくれたり、ここに押さえつけたり。考えれば考えるほど、そうと思えてきた。もしくは、昔、彼に迷惑をかけたことへの仕返しか。だとしたら、僕は彼のすべてを受け入れなければならない。なぜなら、僕のせいなのだから。  どちらにしても、彼が気のすむまで付き合うのが、彼に返せるものなのだと僕は思った。  彼からは、たくさんの素敵なものをもらった。大切な思い出。数えきれないほどの、楽しい時間。愛しい日々。だから、彼の気のすむままに、彼の望むままに、応えるのが義務なのだ。  後ろでドアが開く音がした。思わず、目をつむり、寝たふりをしてしまう。その分、彼の一挙一動の音が、やけに大きく耳につく。  すぐそこで、あの大きな手がシーツをするりと撫でる音がする。それだけで、身体の奥が、じりつくのを感じてしまう。静まれ、と祈るようにシーツを握りしめた。ぎ、とベッドが鳴り、ふ、とあの甘い匂いがする。彼の長い指が、垂れていた前髪を、さらりとこめかみをなぞって耳にかける。それだけで、ぴくん、と肩が揺れてしまったが、瞼を降ろしたまま寝ているふりをする。どきどきと心音があまりにもうるさくて、もう気づかれているかもしれない。ごそり、と彼が同じ布団の中に入ってくる。熱い体温に、連日の彼とこのベッドの上で過ごした時間を思い出す。恐怖と諦めと、快感。無理矢理の恐ろしいことなのに、少しだけ期待をにじませている自分が、一番怖く感じた。  どうしよう。今日も、する、のだろうか。  そう考えると、彼の体温がいつもより熱く感じられて、衣擦れの音ですら、反応してしまいそうになる。  次の瞬間、ぎゅう、と熱い身体に閉じ込められてしまう。は、と瞠目してしまい、声がこぼれてしまいそうになるのを、なんとか止めた。何度か抱き直されて、彼が気に入った具合になったようで、動きを止める。その間も、足が触れたり、腕が胸元を撫でたりするので、内腿に力がこもってしまう。ますます音を高鳴らせる心臓に、静まれと何度も脳みそは命令するのに、一つも静かになんかならなかった。  彼が、深く深呼吸を何度もする。その度に、吐息が毛先を泳がせて、くすぐったい。何よりも、その熱が僕に何かを灯させる。耳裏に、唇が吸い付き、何度かそうされてから、項を強く吸われる。肩が、ぴくん、と跳ねてしまい、声が漏れそうになるのを、息を飲みこんで堪える。 「おやすみ、聖」  低くかすれた、大人の彼の声が、僕の鼓膜を揺らすと、背筋をぞくぞくと電流が走る。仰け反りそうになってしまうのを、足先に力を込めて、なんとか耐える。しかし、彼は、そのまま僕を離して、寝返りを打って、眠りについてしまったようだった。しばらくしてから、こっそり身体を起して、振り返る。彼の大きな背中はすぐそこにあるのに、あまりにも大きな距離が空いているような気がした。胸元で手を握りしめて、震える呼吸を、彼に気づかれないように整える。火照った身体の熱を、早く冷まそうとするのに、より、腹の奥が重たくなっていくような感じがする。  は、と息をはいて、もう一度視線は彼を辿ってしまう。頬も紅潮しているのがわかる。吐息に、湿度がこめられているのもわかる。  今日は、しないんだ。  その事実が、彼の寝息から伝わってきて、肩を落としている自分に気づく前に、僕も寝ようと布団を被った。  先ほど彼にキスされた、耳裏や項がひりつくように熱く感じられた。

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