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第24話

 結局、同じベッドの中に彼がいる、ということを正気の状態で経験するのが、あの小さかった頃ぶりで、僕は緊張して眠れなかった。気絶するように意識を手放したのが、外が白んできたほどだった。 「いってくる」  こめかみに、そっと吸い付かれて、柔らかく耳元で囁かれた気がして、は、と身体を起したが、もう部屋には誰もいなかった。時刻は、二時間目の中頃で、すっかり寝坊してしまい、寝汚いと思われてしまっただろうか、と不安と恥ずかしさで、誰もいないのに、髪の毛を耳にかけてもだついてしまう。  ダイニングテーブルには、卵サンドイッチと、簡単なサラダがラップかけて置いてあった。これ、彼が用意してくれたのかな、と考えると、身体の奥からじんわりと熱が全身に広がってきて、なんだか鼻の奥がつんと痛んだ。嬉しい、と思う。嫌われているはずなのに、昨日も今日も、こうやって僕の好きなものを覚えていてくれて、与えてくれる。大好きな彼のままだ。と思ってしまう。  洗面所に、彼のサイズにしては小さいシャツとパンツが置いてあり、それに着替える。これも、上質な有名ブランドのものだった。そして、僕のサイズにぴったりと着ることができてしまう。隣には、僕の制服もあった。おそらくクリーニングに出してくれたのだろう。スラックスのプレスもきちんとかかっていた。  柊は、どうしたのだろう。  今頃、何を思っているだろう。申し訳ないと泣いているだろうか。それとも、乱れる僕を見て、気持ち悪いと嫌悪しているのだろうか。どちらであっても、胸が痛んだ。大切な、初めてできた友達のような後輩に、マイナスな感情を抱かせてしまったのは、ふがいない自分のせいだから。僕が、あんな夢を見なければ。ちゃんと、あの時に誤魔化していれば、きっと柊に気を使わせて、迷惑をかけることはなかったのだろう。  着替えて、ここを出て行こうか。柊が泣いていたら慰めたいし、嫌われてしまったのなら最後にお礼を伝えたい。  でも、ここを勝手に出て行って、また無理矢理されてしまったら…。せっかく、彼と穏やかな時間を過ごせるようになってきたというのに、それは、とても苦しいことだと思い、制服をその場に置いてしまう。心の中で、落ち着いたら会いに行くから、と柊に謝罪をした。  彼が案内してくれた部屋で、座り心地の良い一人掛けのソファに腰掛けて、めいっぱい本を読んだ。大好きな作家に最新作を、シリーズ初刊から読み直そうと、五、六冊抱えて読み耽っていた。ガチャリとドアが開いて、彼がいきなり現れたのには驚いて固まってしまった。僕を見つけると、彼は一つ息を吐いて、ドアを閉めようとした。 「あ、…おか、えりなさい」  その前に、と声をなんとか絞り出すと、彼は閉めかけたドアをもう一度開いて、長い脚であっという間に僕の目の前に立つ。身をかがめて、僕の顎を掴むと、端正な顔がゆっくり近づいてきて、あ、と思った時には、唇が触れ合っていた。ばくばく、と心臓が暴れ、顔は熱くてたまらない。にじむ視界で彼を見上げると、小さく口角をあげて、彼は僕の頬をするりと撫でて、部屋を出ていった。 (…この感じ、一体、どういうことなんだろう。)  高鳴り続ける心臓を慰めるように、胸元を握りしめて、ソファの上で膝を抱えた。  優しくキスをされる度に、勘違いしてしまう。彼のキスは、まるで気持ちが入っているかのような、あまりにも甘いキスだから…。 (そんなわけ、ないんだ…)  彼は僕を嫌いなんだ。これは、仕返しなんだから期待しちゃいけない。いけない。  心臓が静まったのを見計らって、リビングに顔を出すが、彼はそこにはいなかった。一瞬だけ帰ってきたのだろうか。 (きっと、僕が逃げてないか確認しにきたんだ)  気に入っていたおもちゃが、勝手に手もとからいなくならないように確認しに来ただけなんだ。うっかりすると、涙があふれそうで、急いで目元をこすった。  逃げ出すことが正解なのか、ここにずっといることが正解なのか、わからない。どちらにしても、僕と彼が結び直せる糸は、きっとないのだ。 「本…」  今は、考えたくない。  本を読んで、とにかく現実から離れたい。  手元にあったものを読み切ってしまったため、立ち上がって本棚に戻す。天井の高さまである本棚には、びっしりと中身が入っている。好きな作家ばかりのそれを見ていると、一冊一冊、ここに本を収納している彼の様子を想像してしまう。どんな気持ちで、この本を選んで、読んで、この本棚にしまったのだろうか。  気まぐれでしかない。気まぐれでしかないんだ。  本を選んだのも、僕を選んだのも。  無意識に、唇を撫でる。じぃん、と甘く鈍く痺れる。  言葉にあふれてしまいそうで、戻すはずの本を強く抱きしめて我慢する。 「さく…」  彼には呼ぶなと許されなかった名前を、一人でつぶやく。小さな音は、反響することもなく、無数の本に難なく吸収され、なかったことのようになってしまう。  彼との不思議な共同生活は、そうして数日経った。  朝はいつものサンドイッチ。昼頃に彼は一度帰ってくる。一緒に昼食をとる時もあれば、キスをしてすぐに出て行ってしまう時もあった。夕食は、おいしいデリバリーをとってくれる。そして、同じベッドに入って、静かに寝る。  そうした、穏やかな共同生活。  毎日、複数回、ふとした瞬間に目が合うと、唇が触れ合った。甘く囁かれるような口づけに、僕はうっとりとしてしまい、拒否することなんか当然できない。その度に、これは彼の気まぐれなんだ、と期待してしまう自分に言い聞かせる。勘違いなんかするな、と。それでも、彼の出す空気は柔らかくなっていき、甘いいい匂いもよく漂うになっていた。  いつも、彼は僕に先に風呂に入るよう命令するので、今日は早めに入ってみた。彼が帰ってきて、すぐに入浴するという選択肢もできるように、と。髪の毛をタオルドライしていると、玄関が開く音がした。最近、言いなれた「おかえり」を言おうと、ドアに近づいたとき、彼の話し声が聞こえた。おそらく、電話をしているのだろう。 「その話は、何度も断っています…母様、学生の内は仕事に専念させてほしいと言ってるじゃないですか」  母様、という単語が聞こえて、手を止めてしまった。  あの華麗な彼の母親を思い出す。艶やかで、美しく、いつも薔薇の匂いをまとい笑うあのアルファの女性。あの時、盗み見てしまった、あの残虐な笑みを思い出して、背筋が凍り、その場から動けなくなってしまう。  がちゃ、がちゃ、と彼が、部屋のドアを複数か所開けて回る音がする。 「ですから、俺には番はまだ早いです」  すぐそこで大きな溜め息が聞こえる。  番、と彼が発したことに、どくん、と大きく心臓が揺さぶられた。 「はい、はい…見合いの相手のアルファは母様にお任せしますから…」  がちゃ、と目の前のドアノブが回されて、ドアが引かれた。現れた彼と思わず目があってしまうと、お互いに、ぎくり、と身体を固めた。  へらり、となんとか笑みを貼り付けて、彼の横を通り過ぎる。鼻は嫌でも、彼の特別にいい匂いを拾ってしまって、余計心が硬くなってしまうのを感じた。 「あとで掛け直します」  電話口で何か女性の話し声がまだ聞こえたが、彼は電話を切って、僕の手を取ろうとしたが、出来るだけ距離をとりたくて、その指はかすかに触れ合って空を切った。気づいていたが、振り返ったら、また上手に笑える気がしなくて、急ぎ足で寝室に入り込んだ。  番。見合い。アルファ。  それもそうだ。もう、僕たちは十八歳で、巷では成人だと言われる。いよいよ高校も卒業するわけで、力ある一族のご子息であれば、そういった話は山ほどあるはずだ。当たり前のことである。逆にない方が珍しいのだから。  だから、彼にそういう話があって当然なのだ。ない訳がないのだ。  アルファの身分が高い人は、たくさんのオメガと番い、愛人をどれだけ持っているかがステータスのようなところがあるらしい。  彼は、まだ早いと答えていた。  きっと、いつかは、そういった大人たちにならい、複数の美しいオメガに囲まれるのだろう。そして、たくさんの子どもを授かるのだ。  しかし、そういったアルファの男たちの正妻は、必ずと言っていいほど、ほとんどがアルファの女性だった。世の中では、アルファとオメガが結婚することも少ないながらにあることだったが、彼らのような世界に住む人々には、ほとんどないケースだ。だから、いつまでもオメガをペットのように扱えるのだろうといつも嫌悪する。  彼も、そうしたアルファの男になるのだろう。  彼の母親が、昔話していた内容がそうなのだから。  そこに、ベータの僕が入る隙間なんか、ないんだ。 「はは…」  乾いた笑いが出てしまう。  わかってた。  わかってたことなのに、どうして、こんなに胸が痛いんだろう。

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