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第34話

 僕は靄がかかったように明瞭にならない頭のまま、ベータ寮を出た。誰にも会いたくなかったから、まだ辺りが薄暗い早朝に寮を出る。荷物は少なく。勉強道具くらい。あとは、すべて実家にあるから。  寮から歩いて数十分のところにある駅から電車を乗り継いで、実家の最寄り駅につくと、ちゃんと綿貫が車の前で待っていた。久しぶりに会う家族に、思わず足が軽くなる。 「坊ちゃま、お変わりなく」  恭しく頭をさげる綿貫は相変わらずだった。歳を重ねても、ちゃんと美しくいる、背筋が正しい従者を誇りにも思える。 「綿貫も元気そうで」  にこりと笑えたつもりだったが、目があった綿貫は、緩めた頬を、引き結んで眉を寄せて僕の顔を見つめていた。しかし、賢い彼は、すべてを察する。小さい頃からそうだった。僕から荷物をスマートに受け取り、車内へと誘う。  綿貫との沈黙は、穏やかで気負いすることがなく、僕が心を置ける少ない居場所だった。するすると車は進む。素晴らしい彼の運転技術は健在だった。  景色は、ここを出ていった時から、何も変わらない。街路樹の緑も、街の賑わいも、建物の白さも。何も変わらない。そして、僕の隣に彼がいないことも、変わらない。何も、変わらないんだ。  しかし、家の中は変わらず、ではなかった。  事前に、実家に帰る旨を連絡していた際に、大事な話がある、といつもとは違う返信に、嫌な予感はしていた。それは当たっていたらしい。  帰ると、執事に案内されて、リビングへと向かう。そこには、両親がすでに着席していた。ローテブルを前にソファに腰掛ける二人は、顔色は悪く、クマもはっきりとついていた。いくらか老け込んだようにも見える。状態の悪さを視覚で判断し、僕は静かに空いているソファに腰掛ける。 「聖、帰ってきて早々で悪いのだけれど」  重い空気を断ち切ったのは、母親だった。おかえり、もなしに、渇いた唇を動かして母親は続けた。 「実は、この人の事業がうまくいっていないの…」  この人と、母親は長い睫毛を伏せて横目で示す。その先には、顔面蒼白の父親がいた。 「うまくいってないって…」  二人の姿を見てなんとなく大変なことなのだと感じてはいるが、そう尋ねてみる。母親は、ソファに深くもたれかかり、眉間を押さえた。深く溜め息をついてから、細々と続けた。 「多額の借金があるの。そのせいで、この家も売りに出さないといけないかもしれない」  考えもしなかった事態に僕は目を見開いて、母親と父親を見比べる。ごく、と唾を飲んだ父親が顔をあげて、僕に向き直った。 「でもな、実は、支援してくださる方が現れたんだ」  口角をあげているが固まった笑顔で、血の気がなく本当に僕の知っている父親なのか疑うほど、おかしな表情をしていた。両手を広げながら、必死に僕に明るく努めようとする。 「借金も肩代わりしてくださって、おまけに新事業の後継人になってくださると言うんだ!」  嬉しそうに父親は話すが、母親はちっとも嬉しそうではない。唇を噛んで、そっぽを向いている。話が見えずに、僕は父の方を向いたまま固まる。それでな、と父は僕に詰め寄り、僕の前で膝立ちになった。急に距離をつめられて、ソファに座り直す。 「相手の方が、聖を非情に気に入ってくださっているんだ」 「…え…?」  よくわからずに目を白黒させていると、急に両手を掴まれてる。幼少期ぶりに触った父の手はあまりにも冷たく、かさついており、死人のようだった。 「一度会ってみてほしいんだ! 若くして会社を上場なさった超切れ者の方だから、絶対聖も気に入るぞ」  なあ、と強請る父親の目は血走っていて、僕は背筋が震えた。僕の知っている、穏やかな父親はそこにはいない。  僕が心身ともにやつれきった時もずっと心配して、そっと見守ってくれていた優しい父の目はそこにはなかった。 「頼む…頼むよ、聖…」  僕が答えられずにいると、父の頭はどんどん下がっていき、床に額をこすりつけ始めた。こんな、父の情けない姿、見ていられなかった。 「わ、わかった、わかったから、父様…顔を上げて」  ソファから降りて、父の目線に落とす。顔を上げた父は震えていた。 「本当か…聖…」 「…うん、いいよ」  父は僕の手を額に当てて、ありがとう…と呻くように泣いていた。その背中をさすりながら、僕はあまりにも小さい父の身体に衝撃を受けていた。  落ち着いた父は、その場を離れて相手に電話を入れるようだった。  父と入れ違いに、執事が温かい紅茶を持ってきた。  執事がいなくなったのを見送ってから、母親が、カップに唇を寄せて香りを味わっていた。それから一つ溜め息を漏らして、紅茶を飲むと僕に話しかける。 「あの人、若いオメガに乗せられて詐欺にあったの…」  ぽつり、とこぼした母の言葉に驚いて振り返ると、かしゃん、とソーサーにカップを乱暴に落とすように戻した。母は涙を堪えるように震える吐息で続けた。 「聖、私とあなたでこの家を出て、新しい生活をはじめることも出来るわよ」  母は真摯に僕に囁いた。しかし、その瞳は不安に揺れていた。アルファとして生まれ、生まれた時から何不自由なく暮らしてきた母が、浮気をされ、さらに離縁までし、貧乏な暮らしに耐えられるはずがなかった。ましてや、旦那をオメガに盗られた、ということは、きっとアルファの母のプライドをひどく傷つけたのだろう。その虚勢でしかないのだ。  冷静に分析できてしまうほど、僕の心は冷え切っていた。だから、平気で笑うことができた。 「ありがとう、母様。でも、僕、たくさん二人には迷惑かけてきたでしょ? それに、屋敷のみんなのことも大好きだし…」  僕が返せる恩はこのくらいしかないから。  そう伝えると、母は、ごめんね…と言いながら、泣き始めてしまった。初めて見る母の涙は、苦しかった。僕がベータだとわかったときも、優しく背中をさすってくれた。大丈夫、と囁いてくれた。あの力強く感じた手は、あまりにも細くて、さすった背中には、背骨がごつごつと浮き、ちょっと叩いたら砕けてなくなってしまいそうだった。  なかなか、いい人生かもしれない。  ベータの僕が、世話になった両親に、身売りをすることで恩返しができるのであれば、それは上出来な人生なのではないだろうか。  どうせ僕は、一番恋い慕う相手のもとに一生添い遂げることはできないのだから。  充分すぎるほど、しあわせな夜をたくさんもらった。  それさえあれば、どこであっても、誰といても、僕は、いい人生だったと振り返ることができるだろう。  だから、もう、いいのだ。  帰ってきた父は、明日に会う約束を取り付けたと鼻息荒く携帯電話をかかげていた。僕は眉を下げて、小さく笑って、紅茶をすすった。もう冷めた紅茶は、匂いも味も何もなかった。僕の未来のようだった。

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