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第35話

 十五歳の誕生日に、父がプレゼントしてくれたフルオーダーのスーツに久しぶりに腕を通して、夜景の美しい超一流ホテルのレストランへと両親と共に入店した。  髪型をオイルで軽くまとめ、ちゃんと母親のチェックも入り、こぎれいにしてきた。身体は、ここ最近、変わらずに怠い。なんだか熱っぽい気もするが、疲れているだけだろうと、もう一度ネクタイを締める。少しきついくらいの方が、丁度いい。  目の前には、一人分のカラトリーしかセットされていないかった。隣から母が、僕の手を細い指で握りしめた。ひんやりと冷たい。 「実は、お相手のグレイスさんは、聖と昔遊んだことがあるのよ」  腕の立つメイドに化粧をさせた母は美しく変貌していた。慰めるように僕に柔らかく囁く。初耳なことに驚く。  相手の名前はグレイスと言うらしい。フルネームはわからない。ただ、イギリスで若くして、最近大成功を納めて名前を売っている超やり手の青年らしい。そんな海外の友達と遊んだことがあったか、と記憶が巡らすが、グレイスという名前に一切の覚えがなかった。  でも、そんなことどうでもいいか。  ベータだとわかった時、まさか自分が、イギリスの人のもとへ嫁ぐなんて夢にも思わなかった。  いや、嫁ぐ、なんて虫のいい話ではないか。  上級民の方々はベータなんか家族にしない。きっと、一生愛玩動物として飼われるのだろう。  そう思うと、もう覚悟していたはずなのに、急に身体が震え出す。どうなってしまうのだろうか。彼のいない世界なんて、生きていたって仕方ない、とすら思っていたのに、いざ自分が絶望的な場面に出くわすと、逃げ出したいという生への渇望を抱いてしまう。結局、僕はその程度の浅ましい人間なのだと、さらに絶望の淵へと追いやられてしまう。 「いらっしゃったぞ」  父親が急に大きな声を出して勢いよく立ち上がった。それと共に、僕と母も腰をあげると、個室のドアがウエイターによって静かに開けられて、暗い廊下から現れた大柄の男に僕は目を疑った。 「グレイスさん、本日はありがとうございます」  父親がすぐに入口に立ち、頭を何度も下げる。それに、相手の男は柔和な笑顔で適当に応えてから、すぐに僕の前の椅子に立つ。  見上げるほどの高い身長。イギリスらしく洒落たスーツは、彼の逞しい体躯にふさわしく見える。白い肌をピンクに染めて、高い鼻梁と肉厚な唇。そして、いつもはふわふわと遊ばせている赤毛をスタイリングさせて、まとめつつも遊びのある今時なヘアスタイリングを施す彼は別人のようだった。しかし、見覚えのある、翡翠のような瞳は、光を集めてきらきらとまばゆく輝いている。ゆるゆると頬を綻ばせて、僕を見つめるその瞳は間違いなく、彼のものだった。 「会いたかった、ひーちゃん」  聞きなれた軽く柔らかい声色に、目の前の青年が、迷うことなく柊なのだと突きつけてくる。  食事会は滞りなく終わった。  柊は実に器用に、両親の機嫌を取った。父親と時たまビジネスを話をしつつ、母親のアクセサリーを褒めた。両親は柊に気を使い、僕と柊の二人を置いて先に帰ってしまった。終始無言の僕に柊は変わらない優しい微笑みで、ホテルの中庭の散歩を提案する。するり、と手をつながれて、僕は導かれるままに、足を進めた。 「四季折々の花が咲いていて、日中もすごくきれいなんですよ」  ライトアップされた庭は、整頓されたもので人工的に切りそろえられており、そうした点では美しいと言えるだろう。中心には大きな噴水が飛沫にライトを反射させて幻想的だった。 「先輩、怒ってる?」  壮大な噴水を見上げていると隣から声をかけられた。振り向くと、端正で甘い顔立ちのアルファの男が、眉を垂らして僕を見つめていた。声も仕草も、話し方もすべて柊なのに、どこか遠くの人のように思えた。答えずに、じっと見つめ返していると、先に柊が観念して、近くのベンチに座ろうと勧めてきた。隣に腰掛けると噴水越しに都内の夜景が小さくもまばゆく光っていた。 「そうだよね、怒ってるよね…」  独り言のようにつぶやかれた言葉に、振り返るとしょんぼりと大男が項垂れていた。垂れた耳が見えたような気がして、ワックスでセットされて硬い髪の毛をやんわりと撫でる。すると、ぱっと華やいだ顔でこちらを見ると、すぐに眉を下げて寂しそうに笑った。 「驚かせてごめんね…先輩に嘘つくつもりはなかったんだけど…」  サプライズしたら喜んでくれるかなあって思って…。そう語尾をもごもごとさせながら、男はつぶやく。  本当に驚いた。まさか、柊が出てくるなんて。  なんだか安心したような、裏切られたような、疑問とか、不安とか、色々な感情が錯綜して、どう表現すれば良いかわからなかっただけだった。  だけど、目の前のアルファは、僕のリアクションに悲しんでいるらしかった。ホテルからここに来る道中も、レストランで食事をしている間も、特別な日にカップルで過ごすことに適したここにくるカップルの視線を独り占めしていた。頬を赤らめてぽうっと見惚れる相手に、ぎすぎすとした表情で柊を睨む人もいたくらいだった。それほど、目の前の男は完璧だった。聞くと、柊の祖母がイギリスの方らしかった。聞くと、その祖母もハーフだということだった。だから、この緑の瞳は、彼の子孫が受け継いだ様々な国の血筋の美しい部分を集めた、本当の宝石なのだと思った。目元を指先で撫でると、頬をほんのりと染めて、嬉しそうに僕の手を捕まえて、手のひらに頬ずりをしてきた。 「僕、先輩の力になれればって、思ってて…噂でお父様が困ってらっしゃると聞いて、居ても立ってもいられなくて…」  そしたら、お父様がなんだかとんとん話を進めてくれて…と、どんどん顔を赤くしていった。昨日の話は、本当だったんだ、と思うと、指先がむずむずとして手を離してほしくなる。でも、柊はそれを見透かしているかのように離してくれない。 「でも、僕、本気だよ」  握った手に指を絡めて、握り直されると、柊は真摯な瞳でまっすぐに僕を見つめた。その迫力に、思わず息を飲んでしまう。 「嫌なことはしない。ただ、傍にいてほしい」  その手を持ち上げられて、視界に入ってくる。自分の指先を眺めていると、彼の肉厚でピンク色の唇へと誘われる。爪先を淡くキスされる。 「僕と結婚してほしい」  長い睫毛が宝石を囲むようにびっちりと映え、ばさりと持ち上げられる。噴水のきらめきのように、彼の瞳からもたくさんの小さい星が飛び出してくるように輝いていた。ひくん、と喉あたりがうずいた。 「でも、僕は…ベータだよ…?」 「関係ないっ!」  ぎゅう、と強く握りしめられた手と共に、ずい、と顔が近づいてきた。いきなり距離がうまって驚いて後退るが、柊はその分、間をつめてくる。 「僕は、ひーちゃんだからいいんだ…ひーちゃん、好きだよ…」  出会った時から。  そう柊は囁いた。  ひーちゃん。  その言葉の響きに、ある記憶が呼び起こされた。  あれは、七歳になった頃だった。あるパーティーに呼ばれたけれど、彼もいなくてつまんなくて、庭先で遊ぼうと抜け出した時だった。立派なつたが、カーテンのように外壁につながっていて、すごいなあと見上げていると、何かにつまづいた。その何かは、子どもだった。 「ご、ごめんねっ」  すぐに膝をついて、顔を覗き込むと、その子はうずくまって泣いていた。僕のせいだと思って、たくさん謝って、背中をさすったり頭を撫でたりしてたくさん慰めた。なんとか顔をあげたその子は、髪がふわふわの赤毛で、大きい瞳はエメラルドに輝いていた。そして、鈴のような高く澄んだ声で可憐な少女は聞いてきた。 「お兄ちゃんは、僕のこと、こわくない、の?」  小さい唇はぷるぷるとつややかで、また顔をぐしゃりと歪めて泣き始めてしまう。どうやら、目の前の子は、外見のことで揶揄られたらしい。 「なんで? とってもかわいいよ?」 「かわ、い…?」  僕の言葉を聞いて、その女の子は首をかしげた。泣きわめいていたのが、その瞬間おさまった。 「うん、とってもかわいいよ? 肌はまっしろでおもちみたいだし、目なんて、宝石みたいっ! すっごくきらきらしててきれい」  思ったことをそのまま伝えて、にこりと笑うと、その女の子はどんどん顔を赤くしていった。 「はじめて、いわれた…」  もじもじと爪先を擦り合わせている姿も小動物のようで、愛らしく、思わず顔が緩んでしまう。 「そうなの? じゃあ、周りの子たちは、きっと君のことが好きだからいじわるしてるだけだよ」  だって、どっからどうみてもかわいいもの!  大げさに身振りをつけながら言い放つと、泣きわめいていた女の子に笑顔が宿った。ふわりと笑うと、羽が舞うような可憐な笑顔で天使を連想させられた。 「じゃあ、お兄ちゃんは、お友達になってくれる?」  地面と僕をちらちらと見比べながら、小さな声で恥ずかしそうに女の子は言った。もちろん、と笑顔で大きくうなずくと、彼女は嬉しそうに綻んだ。 「お兄ちゃん、お名前は?」 「聖だよ。そういえば、僕も、ひじきって名前でいじめられたことがあったな」  今まで忘れていた程度の記憶で、すぐに彼が相手を説き伏せてくれて全然覚えていなかった。目の前の女の子を少しでも笑わせてあげたくて、ふと思いついた過去の話をしてみる。すると、その子は、僕の手を両手でぎゅっと握りしめた。 「そしたら、僕が悪い人からひーちゃんを守る!」  眉をきゅっと寄せて見つめてくる瞳は、先ほどの涙が残っていてうるうると澄んだ海面のようだった。僕よりもずっと小さい女の子にそんなことを言われて、可愛いなあと緩んだ頬で、ありがとう、と囁いた。ぱあっと顔を明るくしたその子は、いきなり僕に抱き着いて頬ずりをした。 「えへへ、ひーちゃんだいすき」  会ったばかりの子だったけれど、僕よりも小さい女の子だったし、嫌がる必要もないと、迷ったけれど頭を撫でてお返しをした。  それ以降もそれ以前も、僕を「ひーちゃん」と呼ぶ人はいない。目の前にある瞳を見つめて、ぱちくりと瞬きを繰り返した。 「え…もしかして、あの時の女の子…?」  だって、僕よりも小さかったし、見た目はまったく女の子だった。それと目の前にある、図体のでかい大男とは、瞳と髪色しか一致するものがなかった。信じられない、と険しい顔で見つめていると、柊は眉を下げて寂しそうに笑った。 「やっと思い出してくれた。サプライズしようと思って変装眼鏡かけてたのに、全然気づかないから言うタイミングなくしちゃってさ…」  頭をかきながら柊は笑う。確かに、特徴的だった宝石のような瞳は柊を象徴するものだった。 「だって、あんなに小さかったし、女の子だと思ってた…」 「それもあってたくさんいじめられました。でも、先輩に出会ってから、僕は変わりました」  僕と会話をしたあの一瞬の夜は、彼を大きく動かす瞬間だったらしい。柊は、深く息を吸ってゆったりと話す。 「ひーちゃんを守れる男になるために、たくさん食べてたくさん寝て、たくさんトレーニングして、たくさん勉強しました」  そしたらこんなに大きくなりました!とまぶしい歯を見せながら、腕を上げて明るく柊は笑った。そのあと、僕の手のひらを丸い爪先で柔くなぞりながら小さくつぶやいた。 「親と離れてつらくても、ひーちゃんのことを思い出せば、なんだって頑張れた」  哀愁漂う微笑みに、思わず胸の奥がきゅう、と絞られるように痛んだ。  先ほどの会食で、両親のことを聞かれると柊は困ったように笑いつつも、何をやってもダメで出来損ないだと捨てられました、と話していたのを思い出す。  柊は、もう一度僕の手を握りしめて、額に当てた。そして祈るように囁く。 「だから、僕はひーちゃんに家族になってほしい」  ひーちゃん以外はいらないんだ。  はっきりそう言って、顔を上げると、まなじりをじんわりと染めて、眉を寄せ、今にも泣きだしそうな顔をして、僕に懇願していた。  今までの彼の生い立ち。そして、あの一瞬の夜の出来事を大切に思ってくれていること。  そして、食事後に、父がこっそりと僕に、頼んだぞ、という一言。  目の前の柊は、僕がベータであっても関係ないと断言してくれている。今まで過ごしていて、柊が僕にすごくよくしてくれていることもわかっていた。何よりも、両親を支援してくれるという。  柊は、幼いうちに両親に捨てられ、慣れない外国での暮らしたという。僕よりも遥かに小さく、か細かった少女と間違われる柊が、どれだけの苦労をしたのか想像できない。それに対し、僕は、両親にたくさんのわがままを叶えてもらった。今、好きに勉強できているのは、僕が苦しかった時も悩んでいる時も、そっと背中を押してくれた両親のおかげだった。それを思えば思うほど、両親には恩返しをしなければならない。柊の思いを無碍にすることはできない。  ちらり、と頭の中に、彼が浮かんだ。  つつじ咲き誇るマゼンダの海の中で笑い合った、一生を約束して、キスを交わして誓い合った、彼。  でも、その彼には、僕は選んでもらえなかった。  今、僕の手を握るアルファは、僕がいいと長年募らせた思いをまっすぐにぶつけてくれた。  柊の手を取ることは、両親への恩返しにもなるんだ。  僕に選択肢は、ひとつしかなかった。 「ありがとう、ひーちゃん」  柊に返事をした途端、大きく熱い身体に抱寄せられた。強い力でぎゅうぎゅうと抑え込むように抱きしめられる。その強さが柊の思いの強さを表しているかのようだった。 「大好き、ひーちゃん…絶対、しあわせにするから」  一緒にしあわせになろうね…  うっとりと囁き、涙を流して喜ぶ柊の唇を、拒むことが出来なかった。眦から零れた一粒の涙に気づかれないように、僕から柊の胸に飛び込んだ。

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