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第45話
睫毛が揺れながら、ぼやけた視界が次第に見えてくる。白い天井が見える。どこだろう、ここ。曖昧な脳がじわじわと回り出す。
身体を起そうとすると、頭が猛烈に痛み、ぐるりと視界が回る。全身がぎしついて鈍く痛み、内臓が縮みこみ、吐き気が催されて急いで口を覆って身体を横向きにする。起き上がろうとするが間に合わずに、枕の横に嘔吐してしまった。
「ぅえ…え…っ、ぐぅ」
は、は、と短い呼吸しか出来なくて、吐瀉物は胃液しか出ないようだった。苦い味が口の中に広がり、唾を飲むこともためらわれて、ぽた、ぽた、と唇から垂れ落ちる。寒気がして、ぶるぶると強く身体が震える。
(何、これ…)
体験したことのない恐ろしい身体の異変に、瞬きすら出来ない。
「ひーちゃんっ!」
後ろで、ドアが開く音がして、その場にがしゃんと陶器などが落ちて割れる音が響き、肩が勢いよく跳ねる。振り返ると、顔を真っ青にした柊が僕の肩を抱き寄せて、背中を撫でる。
「大丈夫っ? まだ吐きたい?」
ホットタオルを手にした柊は、僕の汚れた口元を優しく拭う。そして、親指で柔らかいそれを撫でるように触れてくる。その瞬間、む、とバニラの香りがして、口元を押さえて先ほどの態勢に戻る。
「うえっ、え…」
「ひーちゃんっ…」
胸元をぐしゃりと握りしめて、なんとか呼吸だけはする。気持ち悪くて、すべて吐き出したいのに、胃の中には何もなくて、ただただ胸や胃がむかむかして涙が溢れて止まらない。
背中を温かい手のひらが撫でてくる。流れる冷や汗や唾液を、温かいタオルが拭ってくれる。何度も焦燥した声色で名前を呼ばれる。
(そうだ…僕、オメガになって…)
柊と病院に行って検査を受けて、それでオメガになることになったんだった。
(お腹が熱くて…それで…柊と…)
曖昧な記憶を辿っていくと、柊とここずっと睦ぎ合っていた時間が確かにあったのだと思い出す。
何度も、何度も何度も、やめてと心で叫んだ。それでも、柊はやめてくれなくて。いや、そうじゃない。僕が、僕が求めたんだ。柊に熱を収めてほしくて。でも、全然収まらなくて。むしろ、どんどん身体が渇いていって。
柊に、慰めてもらったんだ。
ひくん、と下腹部の奥で何かがひきつるように主張した。また視界が大きく揺れて、吐き気が増す。じわ、と下半身が湿る感覚があって、全てが居心地悪くなる。苦しくて、ここから助けてくれるならなんだって良かった。あの時もそうだった。
なんだって良い。でも、僕のもとには、柊しかいないのだ。
「ごめんね…ごめんね…」
ぎゅう、といつの間にか横から抱きしめられていて、耳元から熱い吐息と共にかすれた囁きが聞こえる。視線を移すと、柊は瞼を真っ赤に腫らして、泣いていた。
「僕が、無理させたから…ひーちゃんが、こんなに、苦しんでて…」
何度も、ごめんね、と柊は泣きながらつぶやく。
(じゃあ、なんで…)
ごめんね、なんて言うなら、なんで僕をオメガにしたの。
「うっ…」
また内臓が痙攣してせり上がり、柊の肩を押して俯きえづくが、液体しか出ない。しくしくとずっと気持ちが悪い。
(もう、嫌だ…)
生理的な涙が、今度は色を変えて、溢れて止まらなくなっていく。
あんなに、オメガになりたかったのに。
どうして、僕がオメガじゃないのか、あんなに恨んだのに。
どうして、彼が、アルファなのか、あんなに憎んだのに。
運命の番だって、一生一緒にいようって、約束したのに。
僕がベータだから、一緒にいられなかったのに。
どうして、今、オメガになるの。
今、オメガになったって、僕の欲しい人はいない。
僕の、運命のアルファは、もういない。
やけに熱を持って痛みを訴える首裏から、もう僕は、彼以外のアルファと番ってしまったのだという現実がありありと実感せざるを得なかった。
(もう、いい…)
消えてしまいたかった。
彼の隣にいられないなら、もういなくなりたいと思った。
いつか、どこかで、彼が迎えに来てくれるかもしれないと、先日のあの夜の、彼の甘い微笑みを思い出して、祈ってしまうときがあった。でも、それはあり得ないことで、願ってもいけないことだと何度も言い聞かせた。それでも、僕は、どうしてもその希望を捨てきれなかった。
小学生の時に諦めた彼が、入学式で再会することになって、そして、大人になった低い声で大切に名前を囁いて、抱きしめもらえた。
(本当に、ひどい人…)
思わず自嘲が漏れてしまう。
どうせ捨てるのに、なんで、僕に淡い夢を見させるのだろう。
迷惑をかけた僕への復讐なのだろうか。だとしたら、大成功だ。もう、僕の心は、ずたずたに引き裂かれて、最後の一本の糸でつながっているような状態だからだ。
その一本も、項の痛みによって示される現実によって、切り落とされる瞬間なのに。
(こんなことなら、言えば良かった)
迷惑かけてごめんね、って。
ベータでも僕を傍にいさせて、って。
出会った時から、ずっと、僕の心はさくだけのものだよ、って。
どこに至って、僕の王子様はさくだけだよ、って。
ずっと、ずっとずっと、大好きだよ、って。
(でも、もうそれも許されない)
もう、僕は、彼の前に現れていいような身体ではない。
完全に、違うアルファのものになってしまった。僕が望んで、今ここにいるのだから、何も言ってはいけない。
これは、僕が決めた運命なんだ。
何度も何度も、自分に言い聞かせてきたことだった。
わかっていることなんだ。
それなのに、どうして涙が止まらないんだろう。
どうして、身体が、このアルファじゃないと柊のことを思ってしまうのだろう。
どうして、こんなにも、胸が苦しいのだろう。
柊の熱い身体に抱きしめられながら、眦から一粒の雫が溶けだすように溢れ出た。
(さく、会いたい…)
それから三日後に僕はようやく目を覚ましたらしい。
柊とつながってから、昼夜を忘れて発情のような状態になり、数日そればかりの生活をしていたらしい。すると、僕の意識が戻ってこなくなったのに気づき、様子を見ると高熱を出していたとのことだった。医師を呼んで、診察を受けて、点滴をうけ続けた。それでも、なかなか意識は戻ってこなかったらしい。まるで、戻ってくるのを嫌がるように。
柊はずっと泣いていたらしく、瞼は腫れ上がって、美しい翡翠が半分も見えなくなっていた。横になったままの僕の手を握りながら、何度も謝った。
「僕、怖かったんだ…」
ずび、と鼻をすすりながら、柊は気持ちを話してくれた。
「どんどんひーちゃんのことが好きになってて、絶対離したくなくて…だから、誰にも触れさせたくないし見せたくもなくて…」
執事も医者も解雇したのはそうした理由だとぼろぼろ大粒の涙を流しながら説明をする。
「結婚の約束もして、ひーちゃんは僕の奥さんになってくれたけど…それでも不安で…どこか、違うアルファのものになっちゃうんじゃないかっていつも不安だし焦ってた…」
違うアルファ、という言葉に、力の湧かない身体でもどきり、と心臓を収縮させてしまった。
柊は、気づいていたのだろうか。
僕と、彼のこと。
柊は、身を乗り出して、ベッドに肘をついて、僕の顔を両手で優しく包んだ。前髪を流して耳にかけるように撫でつける。ぼんやりとする目元をかさついた指で撫でる。
「だって、ひーちゃん、こんなにきれいで、優しくて、いい匂いがして…本当に、女神様みたいなんだ…」
重い瞼をゆっくりと瞬きをさせると、ぽたり、と頬に温かい涙が零れ落ちてくる。一つ、二つで、ぽたぽた落ちて、僕の頬を撫でて、枕に伝い落ちる。
「僕みたいな、アルファの出来損ないを、こんな綺麗な人が本当に求めてくれるのか不安で仕方ない…。絶対に、離したくないんだ…」
腫れた瞼のせいで、潤んだエメラルドは半分も見えない。それでも、そこがどれだけ不安そうに揺れているかはわかった。柊が、本当の気持ちを僕に見せてくれているのだということが伝わってくる。
「だから、婚姻よりも、もっと強いものが欲しかった…」
そう告げられて、僕はあることに気づいた。
(同じだ…)
「もっと、ちゃんとひーちゃんと相談すれば良かったよね…ごめんね…」
柊は端正な顔をくしゃりと歪めて、僕の胸元でまた、えんえんと泣き始めてしまう。
(僕と、同じ…)
人気も地位も才能もある、あのオメガと自分を比べて、彼に選ばれたくて必死だった、あの時の僕と一緒だ。小学生の時の、彼と初めて結ばれたあの日。
僕の見舞いに来てくれた彼の様子がおかしかったのはわかっていた。急に変貌していく彼が怖くてたまらなかった。突き飛ばして逃げ出すことだってできた。それでも、そうしなかったのは、彼と番になれれば、強い結びつきが生まれて、一生離れられなくなると思っていたから。
(ああ…これは、罰なんだ…)
彼の意思を無視して、番わせようとした、僕への、罰。
魅力的な彼を独り占めしようとした、僕への罰。
わがままで、自分のことしか考えない、僕への罰。
だから、目の前の僕の番は、彼ではないのだ。
運命だと思っていた、アルファではないのだ。
「ごめんね、ひーちゃ…っ、でも、うっ、…きらいに、ならないでぇ…」
鼻水をすすることもしないで、僕に必死にしがみついて泣く大きなアルファは、子どものようだった。
(これは、僕だ…)
重怠い腕を動かして、柔らかいふわふわの赤毛を撫でる。柊は、は、と顔を起して僕を見上げた。僕は、出来るだけ笑顔になるように口角に命令する。
「大丈夫…」
(柊は、悪くない…)
「ひーちゃ…」
(求めすぎた、僕がいけないんだ…)
「大丈夫だよ」
白い指先で、柊の大粒の涙を拭うと、長い赤毛の睫毛を降ろして、ぼろぼろとまた泣き始めてしまう。彼の涙が、僕の指先から、手のひらへ、そして、手首を伝って、シャツの下へと流れてきた。冷え切った身体には、火傷しそうなほど熱く感じられた。
柊は、僕の手を宝物のように、両手で出来るだけ優しく握って、頬を擦り寄せて縋るように泣いた。
「好き…ひーちゃん…好きだよ、きらいに、ならないで…っ」
「うん…大丈夫だよ…柊…」
もう片方の手で、硬い肩に手を滑らせると、ぎしりとベッドが鳴って、柊は僕を抱きしめた。その広い背中に手を回す。ひっく、ひっく、と痙攣しているかと思うほど、震えている。
(不安だよね)
好きな人と、ずっと一緒にいたいって思うよね。
好きだから、誰にも捕られたくなくて、不安になるよね。
たった一人の、好きな人だから、一生離れたくないよね。
(好きなんだね…)
こんなにも、愛してくれるアルファが目の前にいてくれるのだ、と、耳元で柊の涙で毛先が束をつくっていき、実感していく。
(わかるよ…)
慰めるように、力ない指先で、背中を撫でる。
(僕も、それだけ恋焦がれたことがあるから…)
もう、その恋は、絶対に叶わないけれど。
柊の苦しさが、僕にはわかる。
その恋の思いが、自分に向けられているのに、僕の心は驚くほど波一つ立たない、静かなものだった。
僕が彼にそうだったのと、きっと同じように、柊は僕に恋心を向けてくれている。
「ひーちゃん…」
頬を擦りながら顔を上げた柊の瞳が、光に反射してたくさんの小さな星を輝かせているように見えた。泣きわめきすぎてかすれた声で囁いて、熱い吐息が唇をなぞる。だんだんと睫毛が降ろされて、近づいてくる。
(ああ、そうか…)
僕は、ひどく冷静に考えていた。
(彼も、きっとこうだったんだ…)
柊は、艶やかな厚い唇で、僕の唇を覆った。柔らかく触れ合い、そっと離れていく。ゆったりと宝石が僕を見つけると、またぼろりと涙を零す。
「大好き…ひーちゃん…大好きだよ…」
今度こそ、柊は僕をきつく抱きしめた。逞しい身体は少し薄くなったように思えた。
(可哀そうな柊…)
指先を髪の毛に差し込んで地肌を撫でた。それから、髪の毛を梳くように何度か撫でて柊を慰める。
(彼も、こうやって僕に同情してくれて、付き合ってくれてたんだろうな…)
いつだって、僕は自惚れで、わがままで、周りの迷惑なんか考えられなかったんだ。
(もう、やめにしよう)
もう、僕は、柊のオメガなのだから。
(僕には、柊だけなんだ…)
どんなに望んだって、最初から、叶うはずがなかった。
結ばれるわけなかったんだ。
マゼンダに囲まれて誓ったあれも、小さくて独りぼっちだった僕を、憐れんだ彼が、優しさで言ってくれたマヤカシだったんだ。
それを、それだけを頼りに、ここまで生きてこれた。
(それだけでも感謝しなきゃ…)
それなのに、どうしてこんなにも、胸が痛いのだろうか。
涙が止まらないのだろうか。
耳元で囁く声も、体温も、匂いも、耳裏に強く吸い付く唇も、全部全部、僕が求めているものではない。
でも、これが現実なんだ。
これが、僕の番なんだ。
「大好き…僕のオメガ…」
うっとりと囁くアルファと、愚かな自分に、また一つ、涙が溢れた。
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