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第49話
「聖…」
僕を当惑する花蜜の甘い香りが強く匂うと、頭がくらくらと酩酊しているかのような状態になる。
(会いたかった…)
何も考えていないと、勝手にそう思って、背中に手が回る。大きな背広に触れる前に、は、と意識を取り戻す。
(だめ…っ)
「ぃや…」
急いで胸元を押しやると、簡単に彼は離れた。
瞠目して僕を見つめる彼は、間違いなく、大好きだった咲弥だった。
しかし、切れ長の美しい目の下にはクマができ、うっすらと頬もこけたような気がする。顔色も悪く、焦燥している姿が痛々しくも見えてしまう。
「聖…」
たった数センチの距離を、彼は眉をひそめて苦し気に名前をつぶやいて近づいてきた。
目の前にある、開かれた腕の中に飛び込んでしまいたかった。思い切り抱きしめて、その分彼にめいっぱい抱きしめてほしかった。その匂いの中にずっと揺蕩っていたいし、たくさんその甘い声で名前を囁いてほしかった。もう離さない、と、もう一度目を見て誓ってほしかった。
しかし、今の僕には、もうそんなことは望めない。
「聖…?」
一歩近づくと、一歩後退り、首を振る僕に彼は絶望の色を顔に表して問いかけるように名前をつぶやいた。
「遅い…もう、遅いよ…」
はら、と温かい涙が頬を伝い落ちた。月明かりに波が反射して、そのこぼれた光で僕たちを包む。
「遅くなんかない…俺たち、もう一度始めよう」
真摯に語る彼は、それでも手を広げて僕に近づく。それを首を振って涙を散らしながら後退る。
「もう、嫌…きらい…さくなんか、きらい…」
涙が溢れて止まらなかった。言葉にしたら、自分が一番傷ついていた。
(どうして…)
待ち望んだ彼がこうして迎えに来てくれた。
僕は、オメガの身体になれた。
大好きな彼と、一生の契りを交わせるようになったのに。
(どうして、僕は、彼のオメガじゃないの…)
彼の腕に絡みついて、堂々と隣を歩ける、あのオメガたちが羨ましかった。
彼と一夜を共にしたと噂するクラスメイトが、嫌で仕方なかった。
そう思う度に、自分が大嫌いになっていった。
「嘘でも、そんなこと…言うな…」
彼は、顔をぐしゃりと歪めて、今にも泣きそうな顔で僕を見つめていた。ますます胸が苦しくなって、息がつまった。海風に乗って、嫌なのに、彼のフェロモンが香り立つ。
「嘘じゃない…さくなんか、大嫌い…っ」
近づく胸板を拳で押し返す。しかし、今度はびくともしなかった。見上げると、彼がじっと僕を見下ろしていて、その瞳は目の前の夜の海よりも、澄んで深く青に染まっていた。
「それでも、俺は、聖のことが好きだ」
ざざ、と波の音が抜けて、ひんやりとした風が二人の間を吹き抜けた。目を見張ると、雲に陰っていた月が爛々と輝き、彼の涙に光を溶け込ませた。力抜けた僕を、優しく身体の中に閉じ込める。厚い胸板の顔を寄せて、力強く抱きしめられた。
「好きだ…」
苦し気にかすれた声は、熱く僕の身体を溶かすようだった。
「聖…、ずっと、好きだった」
大きな音を立てる彼の心音が聞こえる。生きているのだと、実感させる強い心音に、また涙が零れる。
「う、そ…、嘘…」
「嘘じゃない」
僕の小さな独り言は、彼に届いて、硬い声で否定の返事が聞こえた。
「聖が…聖だけが、ずっと俺を惑わせる」
ぐう、とまた抱き込められると、うなるように僕にだけ聞こえる声で、好きだ、ともう一度つぶやいた。つ、と首筋に彼の温かい涙が伝って、海風で冷やされてしまう。その熱が冷めてしまうのを、もったいないと感じてしまう。
「さ、く…」
僕もだよ。
さくのことばっかり考えて、さくの一挙一動に、心臓を支配されている。
今だって、身体はさくのことばかり求めている。
厚い胸板も、力強い腕も、心地よい心音も、昔から大好きな花蜜の匂いも、僕を射抜いて離さないその瞳も。
ずっと、ずっとずっと、求めていた。探していた。手にしたかった。
(だけど、もう、僕は…)
「聖…」
顔を上げた彼が、僕をそっと覗き込んだ。深い青は、雫をまとってきらきらと星屑をたくさん込めた宝石のようだった。この瞳が優しくゆるむ時、僕はしあわせだった。この薄い唇にキスをされると、しあわせでずっとドキドキして苦しいほどだった。この高い鼻梁で鼻先をくすぐられると、恥ずかしてくつい二人で笑ってしまうのがしあわせだった。赤らんだ頬を撫でるとその熱さで思いの強さが指先から浸み込んできて、僕の好きが溢れていくのがしあわせだった。
「もう…もう、遅いよ、さく…」
くら、と視界が歪んで、僕が身体に力が入らずに、彼の身体に抱き留められるしかなかった。
瞼が明るくて、ゆったりと持ち上げる。真っ白な部屋に光が差し込んで、まばゆさに目をしかめる。すると、身体が鉛のように重くて動けない。ぼんやりとする頭で目だけ動かす。窓は白いレースカーテンがひかれていた。ベッドに横たわり、消毒液のようなにおいがする。衣類は入院着のようなもので、病院にいるのか、とだんだんと理解していく。そして、左手をずっと熱いものに覆われているのに気づいて、振り返ると誰かの頭がすぐそこにあった。左腕からは管が通って、点滴が打たれているのだとわかる。
重い右腕を動かして、その頭に手を差し込む。毛流れ沿って、指をするすると撫で落す。見た目よりも硬い、その毛質には覚えがあった。ふんわりと、彼の花の匂いがする。
(いい匂い…)
大好きな匂いだと思う。
彼だけの、純粋な匂いに、心がほどけるように柔らかく感じられた。
(好き…)
かさついた指先に彼のつややかな髪の毛がひっかかる。
(大好き…)
会いたかった。
迎えに来てくれて、嬉しかった。
ずっと好きだったと言われて、僕も、と答えたかった。
でも、それができなかったんだ。
残念なことに、どんどん現実を思い出していってしまう。
僕が、違うアルファの番になったということ。
そして、おそらく、そのアルファの子を妊娠している、ということ。
視界が滲んできて、手を引っ込めようとすると、ぱっと指先を熱に握りこまれる。
「聖っ…」
はら、と頬に大粒の雫が滑って視界が開かれると、顔を上げた彼が身を乗り出して僕を見つめていた。眉根をつめて、赤い目元が歪んでいく。次の瞬間には、もう彼の長い腕の中に閉じ込められていた。熱い身体が、冷たい自分の体温に浸食してきて、彼の生命力を分け与えてもらえる気がした。
「聖…聖…っ、よかった…」
力強く抱きしめられて、彼の鼓動が感じられる。どくんどくん、とたくましく跳ねる心音に心地よささえ思う。本当は、この広い背に手を回して、彼の首筋に頬ずりをしたかった。彼は惜しみなく、僕に頬ずりをして、肩口を湿らせる。でも、僕には、どうしてもできなかった。
「離して…」
あまりにもかすれた、情けない声だった。しかし、彼にはちゃんと届いて、身体をぴしりと固めて、そろそろと離れていく。うつむいた僕の顔をまっすぐに見つめる強い瞳を見なくても感じられた。
「聖…どうした…?」
大きな手のひらが、僕の肩を包み、落ち着けと言っているかのように、優しく親指が撫でてくる。その柔らかい愛撫が、さらに僕を苦しめた。ぐしゃりと顔がゆがむのがわかると、ぼろぼろと涙が溢れてこめかみを伝っていく。目元を腕で隠すように覆うけれど、涙が却って量を増やしていってしまった。
「聖…? なあ、聖…」
彼の声色に焦燥がうかがえた時、こんこん、と控え目にドアがノックされた。からからと静かにドアが開かれると、柔らかい声の男性が入室してきたのが、彼との会話で察せられた。
「九条さん、意識が戻られましたね」
よかった、と僕の顔を覗こうとするが、布団を被り直したため、顔は見られずにすむ。大きな白い塊と化した僕をどう思ったのかはわからないけれど、少しの沈黙があってから、足音があってドアが閉められる音がした。きしり、と小さく音がして、布団越しに肩を撫でられる。ぴく、と反応すると、優しい男性の声がする。
「大丈夫ですよ。西園寺さんには、一度退室いただきましたから」
だから、出てきてくださーい。と子どもに投げかけるような温かい声色で呼びかけられる。
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