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第50話

 この人に罪はないから、仕方なしに涙を拭いて顔を出すと、眼鏡をかけた黒髪の白衣を着た男性が、にこりと微笑んだ。目尻に笑い皺が寄って、この人の人と柄が見える気がする。 「はじめまして。九条さんの担当医の山野井と言います」  そう話すと、頭を下げて挨拶をしてくれた。僕も、顔を出して、小さく会釈する。それを見て、先生は笑みを深めた。 「僕はバース性専門の医師です。必ず、九条さんの力になれます。だから、安心してくださいね」  布団越しに、肩をぽんぽん、と先生の細い指が叩く。優しい微笑みと声に、ぐちゃぐちゃに絡んだ糸が少しずつほどけていくようだった。 「九条さんの身体のことをお話したいのですが…西園寺さんがどうしても同席したいと希望なさっています。どうしますか?」  どきり、と息がつまり、布団を強く握りしめる。バースの専門医が僕の身体について話をしにきた。それは、つまり…色々と考え込んでしまっていると、先生は、九条さんの意思を尊重します約束します、と真剣な眼差しで添えてくれた。  今、彼が隣にいても、どう反応していいかわからない。  僕が、もう違うアルファの番だと知れば、彼は、僕をどうするのだろう。  今度こそ、本当に、別れの時なのだろう。  そうならば、一緒にいる時間は短い方が良い。  もう、彼を思い出せないくらい、早く過去の一瞬として、時を過ぎ去っていきたい。  また涙がこみあげてきて、目元を覆ってから、小さくうなずくと先生は、わかりました、とうなずいてくれた。 「その前に…」  先生は立ち上がって、部屋の奥へと進んでいった。しばらく帰ってこなくて、様子をうかがおうと、なんとか身体を起すが、座る体制になったほどの時に、ティーセットを持って先生が帰ってきた。 「寝起き早々で失礼しました。少し、お茶にして、リラックスしましょう」  サイドテーブルにそれらを置いて、ゆっくりとポットを傾けて、二つのカップに柔らかな湯気を立てる紅茶を煎れる。 「僕のお気に入りのハーブティーです。ハーブの癖が少なくて、リラックスできますよ」  熱いので気を付けてください、と微笑みながら、僕にティーソーサーに乗せたものを渡してくれた。かすれた声でお礼を言って受け取る。先生も先ほどの椅子に腰かけて、カップを持つと、もくもくと眼鏡が湯気で曇ってしまった。 「わわっ」  真っ白な眼鏡に先生は驚きながらも、慣れたように、器用に紅茶を啜った。 「ん~、今日もおいしいです」  口元しか見えないのに、にっこりと笑っている目元が見える気がして、僕はようやく固まった顔の筋肉をほぐすことができた。くすりと笑えた僕も、カップを口元に運ぶ。紅茶の温かな湯気の中から優しい匂いがする。口に含むと、湯気の割には飲みやすい温度で、フルーツの甘みが口に広がって、最後にハーブらしいすっきりとした鼻通りの良さが心地よい。こくりと、飲み干して余韻を味わうと、じんわりと身体の奥が温まって、長い溜め息が漏れた。その様子を、先生は微笑みながら見つめていて、まだ淵側が少しだけ曇っている眼鏡越しに柔らかい栗色の瞳と目があった。先生は、ソーサーにかちゃりとカップを落して、波だった水面を見つめながら、ぽつりと話した。 「バース性って、すごく繊細で重要な事柄なのに、日本はまだまだ研究が遅れています…だから、より強い不安を抱えながら苦しんでいる人がたくさんいます」  僕自身も、バース性専門医と言う先生には初めて出会った。大体、内科と併合されていることが多く、バース性検査専門と言われるが、検査する人たちは医師ではない。この国では、ほとんどいない貴重な先生らしかった。 「わざわざ僕を西園寺さんは探して、九条さんを連れてきてくれました。だから、安心してください」  彼が、専門医を探して、僕を連れてきてくれた…  その事実に、狼狽えてしまった。何を気づかれているのか。と思うが、すぐに、反射的に項を触れていて、そこに触ってもわかるほどくっきりと証がついていることを思い出した。  指先から冷たくなっていって、どんどん血の気が引いていく。最初からわかっていたけれど、改めて、自分がオメガとして番にされてしまった事実を突きつけられる。  その僕の手を、柔らかい先生の手のひらが包んで、身体を倒して視線をあわせてくれる。温かな栗色の瞳が、まっすぐに僕を見つめる。 「結論から言います」  先ほどよりも硬い口調で話す先生に、僕は身体を固めた。冷や汗が、項の傷跡をなぞる。 「九条さんは…ベータです」  怖くて、思わず目をつむってしまっていたのを、その言葉を受けて、瞼を上げる。ぱちぱち、と数回瞬きをするが、先生は変わらない真剣な表情のままだった。 「え…?」  小さく首をかしげると、知らずの内に力んでいた肩がすとんと落ちて、息をつけた。 「正しくは、現状は、です」 「つ、つまり…」  汗が気持ち悪い項を手のひらで拭う。 「失礼ですが、その噛み跡は、西園寺さんですか?」  そうであれば、良かったのに。  未だに望んでしまう自分が、ますます嫌になって、勝手に顔が下がってしまう。力なく首を横に振る。 「なら、早く彼に教えてあげてください」  どういう意味なのかわからず、視線をあげると、先生はふんわりと微笑んでいた。 「もともと、九条さんの身体はオメガです。しかし、思春期のホルモンバランスの不安定さにより、この国のずさんな検査ではベータ判定が出てしまうこともままあります」  その被害者が九条さんです。  先生は、はっきりとそう言った。 「そのずさんさを問題視しない、時代遅れで頭の悪い医者がこの国はまだまだ多いですから」  先生は、眼鏡を反射させて、うっすらと口角を上げた冷たい笑みを浮かべていた。思わず、僕も生唾を飲んでしまう。 「九条さんが眠ってらっしゃる間に、精密検査も行いました。九条さんは、間違いなくオメガです」  眼鏡を、くい、と持ち上げて直すと、はっきりと瞳が見える。先生の言葉を、ゆっくり処理していくが、言葉に矛盾があるように感じ、視線が泳いでしまった。 「しかし、ホルモン治療というのは、一日二日でなんとかなるものではありません。ですから、これから、ゆっくり身体を整えていけば、自然の摂理通りに、九条さんの身体は八十パーセントほどの確率でオメガになります」  だから、まだ現状は、ベータなのです。  その言葉が、じわじわと身体に沁み込んでいくと、涙が堰を切って溢れ出た。 「で、でも…僕…っ」  言葉がうまく出なくて、前のめりで、先生の手を握りしめて、片方の手で項を何度も擦った。そこには間違いなく、柊の大きな歯型が残っている。  その僕に優しく先生は微笑んで、ゆったりとした口調で、はっきり述べる。 「アルファとは、好きな人には本能的に、暴力的になる人が多いです。ましてや、九条さんはオメガ性を秘めていますので、九条さんを強く求めるアルファほど、その本能は発揮されたと思います」  そんな話を、本で読んだことがある気がした。  しかし、それが自分の身に起こるなんて、思いもしなかった。  柊の様子がおかしかったのは、柊がアルファである証拠だったのか。 「この国では、アルファは優位種だという考えがまだまだ根強いですが、一番本能的なバースはアルファです」  欲しい番は、どんな手を使ってでも手にいれる。それが、時に人としての道を外れることも多い。相手の意思を無視して、暴力的になったり、束縛が強かったり、本能的に番を守ろうとする。だから、アルファとオメガの事件は減らないのだ、と先生は教えてくれた。 「恋や愛は、本能と直結します。その人が好きであればあるほど、相手を傷つけてしまうのがアルファなのです」  顔を上げると、先生は眉を下げて、笑っていた。 「もちろん医師として断言はしません。そういう傾向が強い、という統計的な意見ですよ」  柊からも、彼からも、暴力的な一面を受けたのは、そういう理由だったのか。  先生は、すべてを見透かしたかのように、陰っていた思考を晴れるように一つひとつ語りかけてくれた。 「その項を噛んだ相手。よほど、九条さんのことが好きだったようですが…まだベータの身体の九条さんとは番えていません」  はっきりと先生はそう話した。  番になっていない。  目を見張って、先生の顔を穴が開くほど見つめるが、もう一度先生が答えた。 「九条さんの身体はベータですので、番は成立していません」 (そう、だったんだ…)  喜びや悲しみといった感情はなく、ただ、僕の心の中には、波の立たない静かで澄んだ海のようだった。全身の力が抜けて、今にもベッドに倒れ込みそうだった。  しかし、すぐに、あることに気づく。 (でも、ベータとアルファでも、妊娠はゼロではないと聞いたことがある…)  嘘か真かはわからないが、そういう噂は聞いたことがあった。柊とは、何度も交わった。記憶にある分だけでも、執拗にナカに出されて、一番奥に大量の精子を注ぎ込まれた。さらに、明らかに体調が悪かった。つわりの状態があった。それを聞こうと何度か息を飲んだが、その事実が肯定されてしまったらどうすればいいのか、今度こそ暗闇に落ちて行ってしまうのではないかと怖くて、口にすることが出来なかった。 「今、九条さんにお話しした内容は、西園寺さんに伝えてもよろしいですか?」  先生からの質問も、放心状態で、あまりちゃんと考えずにうなずいてしまった。 「しばらくは毎週、診察に来てください。あと数日、体調がもう少し戻るまで入院もしてください」  一緒に考えていきましょう。  そう先生は優しく微笑んでくれて、僕は、よろしくお願いしますと頭を下げた。しばらく、関係ない話をしながら紅茶を啜って、飲み干したカップを先生がさげてくれて、お礼を伝えると部屋には僕だけになった。 (僕のこと、さくは知らなくても良いんじゃないかな…)  静まりかえった、昼下がりの清潔な病室で、改めて考え始めてしまう。  この先生をわざわざ紹介してくれた本人に伝えないのは、なんだか申し訳なくて、良いと返事をしたのだが、あとから、これを彼が知ったとして、どうかなるのだろうかと不安になってくる。  僕が番ってないと知ったら、どうするのだろうか。  不完全なオメガだと、やはり捨てられるのだろうか。  それとも、珍しさに、また興味を示してもらえるのだろうか。 (どうあっても…)  きっと、彼と僕が結ばれる運命でないような気がした。  完璧な彼の隣には、完璧な人がいるべきだと思うから。 (結局、僕がオメガでなくたって、彼の隣にいる資格なんか、ないんだ…)  いるかどうかもわからないけれど、何かを感じられる下腹部を思わず撫でる。しくしく、と腹の奥で何かが反応している気がした。

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