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第51話
からから、と控え目に音を立てながら、ドアが開かれた。昼から夕暮れの日差しに代わっている外を眺めていた視線をそちらに寄越すと、項垂れた彼がドア前に立っていた。
(何を、思っているのだろう…)
きっと、先生から話を受けたはずだ。その彼が、今、何を思って、この部屋に入ってきたのか、僕には全くわからなかった。
何を話せばいいのかわらかない。むしろ、話したくなかった。
(きっと、もう、いらないって言われるんだ…)
つい、と視線を外して、膝元にある指先を見つめた。
(これでいいんだ。僕たちは、最初から、そういう運命だったんだ。)
それなのに、なぜ、彼はまた僕の目の前にいるのだろう。
今更、好きだと抱きしめてきたのだろう。
聞きたいことはたくさんあるのに、それを聞く勇気はない。いや、知りたくないのだ。知ったところで、僕たちに未来はないのだから。
「大丈夫だよ」
気づいたら、そう口から零れていた。自然と笑顔もつくれた。視線はそのままで、彼に話しかける。
「僕、さくにひどいことされたなんて、一つも思ってないよ」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。他人事のように自分と彼を客観的に見ていられた。
「だから、さくが気にすることなんて、一つもないから」
大丈夫だよ。ともう一度囁いた。
もう、僕なんか気にしないで、自由に生きてほしかった。それでいい。僕と彼との運命は、たまたま幼い頃に近くにいただけのことなのだ。
しばらくしても、何も返答もなくて、顔をあげて振り返ると、彼はドアの前でただただ佇んでいるだけだった。もう一度、彼が僕を気にしないで、この部屋を出ていくように、僕を忘れてくれるように、大丈夫だと言おうとした時、彼が長い脚をゆっくり踏み出して近づいてきた。
「本当に、気にしないで…」
また一歩、彼が僕に近づいてくる。
じり、と彼に身体が反応するかのように、熱くなる。焦げ付くような身体の熱に、自分の身体を押さえるように抱きしめる。指先が、小さく震えているのを、シャツを握って誤魔化す。何かを思い出すかのように、身体がとくとく、と早く循環していく。
「…やだ」
思わず、漏れてしまった言葉に、彼が眉をぴくり、と動かして、足を止めた。揺れる瞳が僕を見下ろして、じっとそれを見つめていると、また彼が足を上げた。
ふと香った彼の甘い匂いに、ぞくりと肌が粟立ち、背筋が冷える。ぶるりと身震いをする身体を強く抱き込んで、ベッドにうずくまるように膝を立てた。
「来ないで…」
首をか細く振りながら絞り出すような声が部屋に滲む。
(怖い…)
自分が、怖い。
もう、嫌だと思うのに、それでも彼を求めている浅ましい自分が、恐ろしくも感じる。どうして、そんなに彼にこだわってしまうのだろうか。自分が自分でないように、制御が効かなくて怖い。
もう、終わりにしよう。
何度もそう決意するのに、どうして彼を前にすると、その決意は簡単に崩れてしまうのだろう。
自分を狂わしてしまう彼が怖い。
何を考えているのかわからない、彼が怖い。
(さくは、僕をどうしたいの…)
怒鳴って僕を押さえつけたと思ったら、猫のように甘くかわいがる。
お前だけだと瞳が訴えるのに、平気で違うオメガと戯れる。
それなのに、僕が違うアルファのもとにいると、こうやって連れ戻すように奪われる。
(僕は柊のとこでよかった…)
柊の隣で、安寧に暮らしていく。それでよかった。
たとえそこに、僕自身の意思が全く尊重されなくても。都合の良い人形のように扱われても。僕を僕として、大切にしてくれなくても。
それでよかった。
成り損ないのオメガには、申し分ない身分だった。それで、両親も、大切な使用人たちも救えるのだから。
柊だって、僕のことを好きだと言ってくれた。それは、アルファとしての本能に支配されたものだったかもしれないけれど。何番目かわからない、愛人として扱われる未来が待っていたかもしれないけれど。ただ、柊の優秀な遺伝子を残すだけの仕事になっていたかもしれないけれど。
それは、きっと、世間大半のオメガの中では、恵まれた方なのだろう。だから、良かった。それが、オメガとしてのしあわせだったのだろう。なら、それでいい。
(もう、疲れた…)
彼の一挙一動に心を大きく乱されることも。
彼の気まぐれに期待してしまうのも。
彼を、好きで好きでたまらなくなってしまうことも。
その度に、傷ついて、泣いて、苦しんで、自分を嫌いになって。
「柊のとこに、返して…」
(もう、僕を解放して…)
その瞬間、身体が何倍にも重く鳴って、重力によって身体を強く抑え込まれるような圧がかかる。びりびりと視界が揺れて、息が出来なくなる。見開いた目からは涙がこぼれて、何が起こったのかわからなくて視線を上げると、目の前の彼が、眉を吊り上げて瞠目し、顔を赤らめて僕を見下ろしていた。憤怒のあまり、髪も逆立っているようにさえ見えてしまった。
瞳が交わると、は、と息を飲んだ彼は、今度は顔を青ざめていき、身体にかかっていた負荷が一気にほどかれた。それが、彼の怒りのフェロモンによるものだとは、あまりにも強すぎて思いもしなかった。
「わ、悪い…聖、大丈夫か?」
「ぃやっ!」
彼が身体をかがめて、僕に手を差し伸べてきた。それを思わず、払い落としてしまう。弱っていた身体は、先ほどの強すぎる威圧によって恐怖でがたがたと震え、寒気がする。
彼は、僕を見つめながら、眉を寄せて、苦し気に顔を歪めていく。見開いた目の中で、瞳が小さく揺れている。
「ひ、じり…」
細く、弱々しい吐息と共に名前が囁かれる。息をついてしまうと、気が緩んで、つい、いつものように彼を許してしまいそうになる。それを、唇を噛んで、すべてを堪える。
「…さくは、僕のことなんかどうだっていいんでしょ? だから、ほっといて…」
視線をあわせていると、思いが溢れそうで、急いでそらして、顔を俯ける。絞り出すようにつぶやくと、隣で彼が息を飲むのがわかる。
(さくは、いつだって、僕を裏切る…)
好きだ、大好きだ、と言っても、僕がベータだとわかったら、僕を簡単に捨てた。なぜか、僕を裏切者だと言って。その真相はわからない。でも、僕には、彼に捨てられたという事実しかないのだ。
だから避けて、少しでも彼の目に入らないように、控え目に生きてきたのに、なぜか彼によってまた捕らえられてしまった。
逃げても彼は追ってきて、僕を怒った。
それから、ずっと僕の隣にいて、甘い時間をくれた。それなのに、簡単に違うオメガと寝ていた。
(僕は、ただのおもちゃなんだ)
違う。
僕は、一人の人間なんだ。
楽しいことがあれば心から笑うし、悲しいことがあれば息も出来なくなる。
好きな人に、好きだと言われたら、こんなに嬉しいことはない。
(彼と、両思いになりたかった)
僕の望みは、小さい時からそれだけだったのだと、今、気づく。
(大好きな人の、一番でありたかった)
僕以外、見てほしくない。僕だけを見て。
僕にだけ、好きだと言って。僕だけを抱きしめて。
(こんなわがままな僕、誰にも愛されるわけない)
だから、彼にだって愛想をつかされてしまったのだ。
裏切られる原因は、いつだって自分にあったのだ。
(もう、これ以上、自分を嫌いになりたくない…)
誰も、自分を愛してくれない。大切にしてくれない。自分が一番、自分を愛せていなかった。
そんな自分を、誰が愛してくれようか。
「そんなわけ、ないだろ…」
低く、彼の声が静まり返った部屋に響いた。鈍く、奥歯を噛み締める音も白い壁や床に沁み込んでいくようだった。
(最後まで、嘘、ついてくれるんだ…)
僕が傷つかないように、と思っているのだろうか。
(それが、嘘であるから、僕は余計に苦しいのに…)
昔、僕には彼だけだった時代。彼に、嘘はつかないと約束をした。それでも、僕は、自分の気持ちを押し殺して、彼に嘘をついた。なぜなら、それが彼のためになるから。彼の人生を、僕が邪魔するわけにはいかなかったから。本当は、ずっと隣にいてほしかった。ずっと手を握って、微笑みかけてほしかった。だけど、そのわがままを言ってしまえば、彼の迷惑になって、嫌われてしまうだろうことがわかっていた。
だから、嘘をついて、背中を押して、みんなの先頭に立つように促した。その結果、彼はどんどん遠い存在になって、僕はみるみる不安になっていって、オメガという性を使って、彼を僕に縛り付けようとした。結局、それは、ベータであるという事実を突きつけられて、彼をより裏切る形になってしまったのだが。
(柊も、僕と同じ…)
アルファという性を使って、オメガの僕の身体を支配しようとした。
心は目に見えない。縛り付けることもできない。だけど、身体は違う。
特に、オメガの場合は。
一度番ってしまえば、そのオメガは、番のアルファにしか反応しなくなる。これ以上の愛情表現があるだろうか。そう思ってしまうほどに。
(自分勝手な僕への、罰だったんだ)
しかし、その罰は、番として成立することはなかった。
(神様は、どこまで残酷なのだろう)
「さくには、僕よりもふさわしい相手がたくさんいるでしょ…だから、こんな出来損ない、もういいでしょ…」
心が、鋭い刃でえぐり取られてしまう感覚がした。胸が苦しくて、痛くて、涙が溢れた。どんなに涙が溢れても、僕の心についた傷は癒されない。嗚咽が漏れてしまいそうで、唇を震える指先で覆う。
他のアルファにマーキングされて、ましてや妊娠しているかもしれない、ベータの僕。何度も、何度も何度も、彼ではないアルファを受け入れてしまった身体。もうその事実は変わらない。例え、そのアルファにすら捨てられてしまったとしても。
僕には、まだ、ベータとして生きる道もある。きっと、山野井先生なら、相談すれば力になってくれるだろう。
(もう、アルファとかオメガとか、疲れた…)
ひとつ、深呼吸をすると、重かった胸が少しだけ晴れた。顔を上げて、彼を見上げると、はらり、と大きな涙が零れる。
「さよなら…さく」
ふわりと微笑むことができた。
目の前の彼は、茫然と、ただただ、だらだらと泣いていた。
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