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第52話
僕は、退院をして、実家に帰ってきていた。後ろめたさを持ちながら帰ったが、両親も執事たちも笑顔で僕の帰りを喜んでくれた。両親は泣きながら僕を抱きしめて、謝ったり慰めたりと忙しかった。
それから、実家でゆっくりと療養した。その間に、母親から、柊のことを聞いた。
イギリスの小さな会社を、たった数年で、しかも学生のうちに大きくした柊には、やはり黒い噂がついていた。それを、咲弥が暴いていった。柊は、もともと持っていた貿易のラインに、違法薬物の売買を扱っていたらしい。その国では合法の薬物であっても、他国では違法であるものは、多くある。そういったものを、上手に売りさばき、富を得たのが、柊だった。もちろん日本国内でもその売買は行われており、警察から追われる身となってしまった。現在は連絡もつかず、行方もわからないらしい。
その話を聞いて、僕は、なんだか納得することが多かった。
(やっぱり、図書室で飲んだお茶…)
柊と一緒に勉強をしていた時、不眠に悩んでいた僕に、進めてくれたお茶には、何か入っていたのだろう。リラックス効果があるものだと言え、あれは明らかに効き過ぎていた。柊の話しぶりからして、僕を睡眠薬のような、なにか薬で眠らされて、性的ないたずらを受けていたのだろう。やけに身体が疼いていたのも、気怠かったのも、それでようやく合点がいく。
それほど、柊の、アルファとしての僕への執着の強さを見せつけられたようで、寒気がした。
あのパーティーの日。母親は柊から一通の手紙を預かっていており、それは僕宛てのものだった。当初は、新郎の粋なサプライズかと思っていたが、その事件があってから、どうすれか悩んだ結果、この話を聞いた時に僕の手元にやってきた。簡易に封されたものを開くと、中からは、一枚のカードが出てきた。それは、眠っている僕をしあわせそうに抱きしめる柊との写真で、裏には、
「必ず迎えにいくから」
と柊の字で書かれていた。まるで、別れを予知していたかのようなものだった。
しかし、もう柊とは、会わない気がする。感覚的なものだが、そうだろうとなんだか思えた。
なぜなら、それを許さない人がいるからだ。
こんこん、と小さく、自室のドアがノックされる。すぐに名前を呼ばれて、その声で母親だとわかる。
「聖、今日もお花、届いたわよ」
ドアノブが回って開かれると、母親が大きな花束を持って、入室した。可憐な母親に似合う、淡い色でつくられた花束は美しかった。これは、僕が入院している日から、毎日届けられているものだった。おかげで、広い屋敷中、花束まみれで、ずっといい匂いがしている。執事たちが、丁寧に管理してくれているらしく、良い花なのもありなかなか枯れない。
また今日もか、と溜め息を零す。
母親の後ろに、昔から母についている執事が、僕の枕元にある、昨日の花瓶を手に取り、母親が今日の花瓶を置く。部屋中に今日の甘い花の匂いが広がって、心をほぐす。
(花に罪はないから…)
今日届いた立派なトルコキキョウの柔らかな花びらを撫でた。真っ白で清廉なそれは、彼のようだった。背筋を伸ばして歩く彼は、この花のように雄弁で美しかった。
「はい、聖」
物思いにふけっているのを見て、くすりと微笑んだ母は、僕に今日も花束に刺さっていたのであろうそれを渡した。
白い封筒。これも、花束と共に、毎日僕に届くものだった。
母がベッドに腰をかけて、封筒を撫でる僕の手をその細い指で握りしめた。顔をあげると、美しく化粧をして、艶やかな唇をゆったりと引き上げて、僕を見つめる優しい母がいた。
「咲弥さん、毎日来てくださってるのよ」
この花束は、彼が自分で持ってきているらしい。最初の頃は、何度か母に声をかけられた。わざわざ来てくださってるんだからご挨拶くらいしなさい、と。それをずっと拒絶し続ける僕に、母は母で感じるところがあったらしく、それからは、こっそりと母が受け取ってくれているらしかった。
「お仕事の合間に、お忙しいのに毎日足を運んでくださってるのよ? そろそろ、お礼くらい言ったら?」
母は、優しい声色で微笑みながら僕に提案した。僕は、母と手元の手紙を何度か往復させながら、言葉を濁した。そんな僕の気持ちを母は察知しているらしくて、僕の手を柔らかい両手で包む。
「聖が嫌ならお断りするけど、お礼くらいは伝えないとね」
温かい手が僕の冷たい手を撫でる。なんだか、母にはすべてを見透かされているような気分になって、居心地が悪くなる。髪の毛をさらりと撫でて、母は部屋を出ていった。ドアが閉まる風圧で、部屋の中の空気が巡り、花の匂いが鼻腔をかすめる。振り返ると、立派なトルコキキョウがそこにはある。
毅然とした花が、僕を責め立てている気がして、溜め息をひとつついて、手元にあった手紙の封を開けた。
聖へ
体調はどうですか?
昨日は出張で日光に行ってきました。紅葉が鮮やかで、昔聖と一緒に見た、裏庭の景色を思い出しました。
また一緒に見られる日を願って。
愛しています。
彼らしい、角張って均整の取れた美しい字が並んでいた。そして、封筒の中から、真っ赤な紅葉が一枚、ひらりと舞い落ちてきた。それをつまんで、くるりと回した。
彼の家の裏には、立派な森があった。森と言っても、彼の家に雇われた庭師たちが美しく整えていた。季節ごとに見える景色の異なるそこは、彼と僕の大冒険の秘密基地を潜めた、大切な場所だった。彼に手を引かれて、たくさん走り回って、こけて膝を擦り向いたっけ。あまりにも僕がどんくさくていつもこけるから、彼は絆創膏を常備するようになって、毎回、キャラクターの異なる可愛いものをポッケから出して、僕の膝に貼ってくれていた。ちちんぷいぷい、と小さな手を膝小僧に当てて微笑んでくれる彼が頼もしくて、優しくて温かくて、大好きだった。
紅葉の落ち葉を集めたベッドは、ふかふかで、香ばしい秋の良い匂いがした。そこで、彼と何が面白いわけでもないのに、くすくす笑いながら、手を握って昼寝をした日も覚えている。あの匂いも、温度も、愛おしい気持ちも、全部、覚えているのだ。この身体が、心が。彼を、覚えている。
ぽたり、と白い便箋に雫が落ちる。紅葉を握りしめた手の甲で、眦を拭う。また、泣いてしまった。彼から送られる、一字一字、丁寧につつられた手紙を読んでは、毎日涙していた。
(もう苦しいのは、嫌…)
つらいのも嫌。
それなのに。
(会いたい…)
彼に会いたい。
心が叫んでいる。
(でも…)
もう、裏切られるのも、期待するのも、嫌。
自分を、彼を嫌いになるのが、嫌。
卑怯な僕は、今日も涙を乱暴に拭って、すっかり体力の落ちた身体を起して、机の上にある四角い缶の中に手紙をしまった。缶を開けると、ほんのりと彼の匂いが漂うで、毎回身体がじわりと熱くなる。それほど、恋しいのに、会いたいのに、叶わない恋がつらくて、目を背けてしまう。
毎日送られてくる白い手紙は、もう三十通を越そうとしていた。
はっきりと、さようならだと、別れを伝えたのに。
なぜ、僕を構うのだろう。
仕事の合間に、わざわざうちまできて、花を届け、手紙をしたためて。
(どうして…)
また期待しようとしている自分に気づいて、喉がつまり鼻の奥が鈍く痛んだ。急いで缶のふたを閉めて、ベッドに戻った。腹が、しくしくと痛む。最近、少し膨らんだ気もする。そこを撫でる度に、僕はどうなってしまうのか、不安でたまらなくなる。
もし、ここに子どもがいるのだとしたら、僕は、産むという選択以外をとる気はなかった。なぜなら、子どもに罪はないから。例えそれが、本当の番でない子だとしても、僕の子であることは間違いがないのだから。途端に、酸っぱいものが食べたくなり、枕元にあった柑橘のジュースを開ける。今日は、すだちのビンのもので、一口飲めば、すっと口の中の嫌悪感が薄れた。
(どうしよう…)
今度、山野井先生の診察の時に、勇気を出して聞いてみようか。
毎回、そう思うのだけれど、いざその時を迎えると、怖気図いてしまう。もう、産むと決めているのに、聞くことをためらってしまう。ベータの身体なのだから、おろせと言われたら、僕はどうするのだろう。産んだとしても、この子をしあわせに出来るのだろうか。こんな僕が。人に迷惑ばかりかけている僕が。誰が、喜んでくれるのだろうか。
考えれば考えるほど、良いことは浮かばなくて、一人暗闇の中で、底なし沼にはまるように落ちていくことしか出来なかった。
そんな時ですら、僕を助けてくれる、と期待して勝手に頭に浮かぶのは、彼で、その事実に毎回、傷ついてしまう。浅ましくて図々しい僕が、さらに嫌になって、瞼をきつく降ろし、睫毛を濡らした雫を枕に吸わせる。
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