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第55話

「聖」  なんでもない振りをして、皮張りのソファに腰かけて、紅茶を一口すすった。ごくり、とやけに飲み込む音が大きく響いた気がしたが、そっとソーサーにカップを置いて、ローテーブルに戻す。振り返ると、コートを腕にかけた彼は、花柄の包装紙に包まれリボンでくるまれた何かを持って、眦を下げて、頬を染めて僕の名前囁いていた。何度見た光景でも、心臓が跳ねて、身体に温かな血流を強く流し込む。とくとく、と心地よい温かさに、気を抜くと、僕もうっとりと笑んでしまいそうになるのを、きつく唇を引き結ぶ。  大丈夫。昨日、ちゃんと考えた。今日も朝起きた時から、ずっと決めていた。  もう、戻らない。  元のようには、返らない。  本当に、終わりにするんだ。  そう胸を小さく叩いて、固く目をつむる。 「今日は、一段と冷える。だから、これがいいと思ったんだ」  柔らかな声色で、そう話しかけてくる彼は、僕の足元に膝をついて、プレゼントを捧げてきた。それを冷たく睨みつける。 「もう、やめてください…」  彼が、ひゅ、と息を飲むのがわかる。それほど、彼に過敏である自分が嫌だった。でも、もう、なんとしてでも終わりにしないといけない。  それでも、彼は、また笑顔を張り付けて、僕に優しく話しかける。 「聖が、本を読んだり、勉強をしたりする時、いつも集中しすぎて身体を冷やしていたから、温かいものを選んだんだ」  ほら、と言って、彼は僕の膝にそっと柔らかなその包みを置こうとした、意を決して、僕は悪役になりきろうと努める。そのプレゼントを僕は、乱暴に掴んで立ち上がる。そして、思い切り、しゃがんでいる彼にそれを叩きつけた。 「もうやめてって何度言えばわかるの!? 迷惑なんだってば!」  彼は、唖然として、僕を見上げて、名前をかすれた声でつぶやいていた。それが痛々しくて、胸が押しつぶされそうで、泣いてしまいそうになるのを必死にこらえて、声を張り上げた。 「こうやって施しをすれば、僕がなびくと思ってるの? そんなに僕って甘く見られてるんだね? そうだよね、ずっと僕は、おもちゃでしかないんだから。そのおもちゃが、意思を持って離れていったら面白くないよね?」  滲む涙を堪えて、眉根を寄せて、腕を組み、鼻で笑う。本当に哀れな僕。可哀そう。  何度も、それを愛だと勘違いしては傷つけられてきた。 「聖っ、それは違う!」 「違くなんかないっ!」  彼は急いで立ち上がって、僕に歩み寄ろうとした、それを首を横に振って必死に拒絶する。 「都合の悪いことはいつだって黙ってきたじゃないかっ! 僕のことなんか、物としか思ってないくせに、今更都合良すぎる!」  これを言ったら、終わりだってわかっている。  けれど、言い出したら、止まらなくて。もう、ここまできたら、すっきり終わりにするしか道がない。  目の前で、彼が目を見開いて、今にも泣きそうに瞳を揺らめかせていた。傷ついた彼の震える唇を見て、涙がついにこぼれてしまう。 「聖…話を聞いてほしい…」  手を差し出す彼を必死に睨みつけた。それと同時に、絶望もした。  すぐに、否定してほしかった。それを、彼は固まって、何も言わないで、僕を見ているだけで、それから言い訳を始めようとしていた。  もう、だめなんだ。そう感じた。 「柊はそんなことしなかった! 僕を一番に愛してくれた! 他の誰のことも見なかったし、身体の関係だって持たなかった! だからっ、」  柊、と名前を出した途端、彼からは強いフェロモンが溢れた。瞳が先ほどとは打って変わって、鋭くなり、剣呑にぎらりと光った。  怖い。  上位アルファである彼の威圧は、いとも簡単に僕をいつだって支配してきた。  それでも、僕は、負けるわけにはいかなかった。  これで、終わりにしないといけないのだから。  彼はこれから、きっと親の会社を継ぐのだろう。世界で名を響かせる、あの大企業のトップに立つ。何万人もの社員を持つ彼は、僕とは違う。持つ者なのだ。何も持たない僕とは違う。  その彼が、信用を失い、ただのおもちゃでしかない僕に、なぜか固執している。終わらせないといけない。  彼の、将来のために。彼がしあわせに過ごすために。  彼のしあわせが、僕にしあわせだから。  だから、僕は、やるしかなかった。  ひきつる喉を叱咤して、溢れ出る涙が、唇を撫でて顎を伝った。自分の背中を押すように、強く口元を手の甲で拭って、強く睨み返すと、彼の怒りに染まった顔は、簡単に情けない表情に戻っていった。そして、顔面蒼白で僕を茫然と見下ろす彼に声を張り上げてぶつける。 「僕は、柊との子どもを産むし、イギリスで家族になるんだ!」  わざとらしく、腹部を撫でながら、はっきりと伝える。彼の瞳は小さくなり、か細く震えて、かすれた声が聞こえる。 「ど、どういう…こと、だ…」 「番になり損ねたけど、僕は、柊と番になる…この子と一緒に、イギリスで暮らすんだ」  腹部を撫でる僕の手と僕の目を交互に見やって、彼は、大きな身体をかたかたと振るわせていた。顔は青白く、汗もにじんでいる。 (あと少しだ…)  もう、あと少しで、彼と僕は、終わるんだ…。  もう一度、深く息を吸って、喉を絞る。はっきりと、間違いなく、彼に届くように。本当のことは、伝わらないように。 「あなたのことなんか、…っ、邪魔でしかないんだっ!」  とうとう彼は、大きな身体から力が抜けて、膝から崩れ落ちた。そして、土下座するかのように地面に蹲り、彼は情けなく伏せていた。  可哀そうで、今すぐにでも抱きしめて、慰めてあげたかった。 (嘘だよ)  踵を返して、僕は廊下へと足を進める。 (邪魔なんかじゃない) 「…わかったら、もう、二度と、僕の前に現れないで…」 (会いにきてくれて、微笑んでくれて、僕のことたくさん考えてくれて、ありがとう)  リビングを出来る前に、最後に一言付け足す。震える奥歯を噛み締めて、必死に絞り出す。 (とっても、うれしかった…) 「さくなんか、ずっと…」  ばらばらと次から次へと涙が止まらなくて、嗚咽を堪えるのも、もう限界だった。 「…っ、大嫌い、だった…!」 (これからも、きっと僕は、ずっとさくだけが、好きだよ)  ばたばたと駆け足で階段を上り、自分の部屋と滑り込んで、強くドアを閉めた。そして、そのままドア伝いにしゃがみこみ、息も出来ないほど泣き崩れた。 (さく…しあわせになって…)  僕の分まで。  大好きだよ。  これで、本当にさようなら。  僕の王子様。  僕の、運命。  僕の、初恋。  僕の愛する人、しあわせになってね。

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