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第56話

 泣きつかれて、ベッドで気絶するように眠っていた。窓枠がガタガタとうるさくて目が覚める。瞼が重くてほとんど開かなかった。それでも、軽く指でこすって、身体を起す。窓から白い光が鈍く差し込んでいた。暖房の効いた部屋は暖かく、窓に近づくと、結露が滴っていて、外では激しく吹雪いていた。初めて見る猛吹雪にもっと驚きたかったが、心も身体も重く、ぼんやりと外を眺めるしかなかった。  後ろでドアが控え目に叩かれると執事の声がする。 「ご昼食はいかがいたしますか?」  もうそんな時間なのだと時計を見ると、もうすぐ二時になる頃だった。食欲はわかず、いらないと答えると、少しでも、と食い下がられてしまって、後ほどリビングに降りると伝える。何をするにも億劫で、のろのろと着替えをして、部屋を出る。促されるままに、風呂に入り、湯船に浸かると柔らかい匂いのする入浴剤が心身ともにほぐしていく。ふ、と息をつくと、勝手に涙がこぼれてしまう。止めようにもなぜ涙しているのかがわからなくて、とてつもなく寂しくて、悲しくて、苦しくて、漠然とした大きな不安が僕を包み、広い浴槽で独りぼっちで膝を抱えた。  風呂を上がると、ふわふわと湯気を立てるおかゆが用意されていて、少しずつ食していった。出汁の効いた優しい味が、また身体に沁みて、涙があふれそうだった。  ソファにくつろぎながら、紅茶を啜る。ただ、ぼう、と窓の外を眺めるだけ。それ以外は、動く気にならないのに、紅茶を舐める度に、時計を見てしまう。  ああ、もう三時を過ぎてしまった。  来るはずないのだ。  もう、あれだけ話したのだから。むしろ、あれだけ伝えたのに、今日、変わらずに来られてしまったら、もう僕にできる術はない。  諦めよう。  諦めて、彼が望むように、応えよう。  その一抹の希望に、縋ってしまっている自分に気づかないふりをして、外の白雪に目を移す。  遠くで、電話のベルが鳴り、すぐに誰かが受話器を取る。ぱちぱち、と暖炉が爆ぜる音がして、その炎を見ていると、空っぽの心がふんわりと温まるような気がする。  昔も、こうやって、大吹雪の日に、暖炉を眺めていたことがある。  それは、彼の別荘に遊びに行った日で、ウインタースポーツをやろうと誘ってくれた。しかし、あまりの吹雪に、身動きが取れなくなってしまって、停電もしてしまった。怖くてたまらなかったけれど、震える僕の小さな手を、少しだけ大きい手がずっと握りしめてくれていて、大丈夫だよ、と微笑んでくれた。同い年で、幼い彼も不安だったろうに、涙ぐむ僕を一生懸命励ましてくれた。楽しい話をたくさんして、笑わせてくれた。  彼の家の暖炉は、僕の目の前にあるものよりももっと立派で大きいもので、その前に二人で横になって、顔を寄せあって、本も読んだ。間違い探しを見つける本で、今思えば、とっくに彼は答えを見つけていたはずなのに、僕が見つけると、すごいな、聖の方が早い、とたくさん褒めてくれた。それが嬉しくて、温かくて、ずっとここに二人でいたいと願ったのを覚えている。  彼の誠実で、優しくて、甘い微笑みが、大好きだった。 「坊ちゃま」  控え目に呼ばれて振り返ると、執事が頭を下げてこちらに向いていた。ず、と鼻をすすると、頬がぐっしょりと濡れていることに気づいた。手のひらでそれを急いで拭う。 「旦那様も奥様も、どちらもこの雪で身動きが取れず、今晩はあちらにお泊りになるそうです」  今日は、彼の家のパーティーが、ここから遠い、何県も挟んだ場所で行われていた。  そうか、じゃあ、今日、彼がここに来るなんて、ありえないんだ。 「…もう少し、薪を足しましょう」  生まれた時から、老爺の執事は、何も言わなくても、僕の気持ちを汲んでくれる。優れた執事だった。  この薪を足して、部屋の温度を上げたって、僕の心の温度は上がらない。 「ありがとう…」  それでも、慰めてくれるようなその心配りに、僕は穏やかな気持ちでいられた。  ふと気づいたら、辺りは暗くなっていて、暖炉の炎が温かく周囲を照らしていた。いつの間にか、眠りについていたらしい。また眦が濡れていて、泣いていたのだ、と自分に呆れてしまう。身体には、何か心地よい柔らかなものがかけられていて、手に取ると、毛布しても小さく、ひざ掛けにしても大きいものだった。毛足が揃っていて、肌触りは非常になめらかで、何かミルクのような、良い匂いもする。温かな桃色のような色味は優しくて、好ましいものだった。とても温かくて、胸元から膝までをすっぱりとかかるようにかけなおす。するり、と身体に沿って撫でる。心地よくて、またうとうととしてきてしまう。すごく、安心する。  ちら、と視界に灯りが見えて、首を動かすと執事が、ランタンを持って近づいてくるところだった。 「ご夕飯にいたしましょうか」  先ほど食べたばかりだと感じているが、そういうので、うなずいておく。それから、ローテーブルの上にランタンを置いて、僕に頭を下げる。 「そちら、お気に召しましたか?」  いつも眦を下げ、上品な執事が微笑みながら僕に話しかける。なんのことだろう、とぼんやりとする頭を巡らせると、手元に抱き寄せている、このひざ掛けだと気づく。 「ああ、ありがとう…」  そんなこと、いつもなら言わないのに、どうしてだろう、とさらに首をかしげる。執事は頭を下げて、言葉を続けた。 「差し出がましいと思ったのですが、西園寺様が、坊ちゃまに、と置いていかれましたので…」  西園寺、と彼の名前を聞いて、反射的に身体が前屈みに起された。  そうか、これ、昨日、さくが僕にプレゼントしたものだったのか…。  感触も大きさも、確かに包装紙越しに感じられたものだった。もう一度、一撫でする。物に疎い僕でもわかる上質さで、彼が送る相手を思いやって選んだものだと感じてしまう。 (さく…)  どれだけ泣いても、枯れない雫が、視界をにじませていく。  その時だった。鐘の音がする。玄関で、来客を知らせるものだった。執事は、僕をちらりと見て、微笑みながら、廊下に消えていった。  こんな遅くに誰だろう。しかも、こんな天気で。  なんとなくだった。  なぜなら、こんな天気で、あれだけのことを言いつけて、彼がやってくるはずはないのだから。  執事が玄関で話している声が聞こえて、顔を出す。ひやりとする外気が僕を震えさせて、顔をしかめ、そっと瞼を開けると、それは閉じることなく見開かれた。一気に血液が、どっと身体を巡り、心臓がどくりと大きく主張する。地に足が着いてないような浮遊感に見舞われて、すべてのものがスローモーションに見えた。 「玄関で申し訳ない」  とんでもございません、と執事は答えて、急いで上質なウールのコートを後ろから預かっていた。紺色のコートは、雪で真っ白になっていて、肩にも頭にも、積もっていた。それを、玄関でさっさと落とす。 「どうして…」  執事にスマートに対応する背の高い男は、バリトンのよく響く声で、礼を伝えていた。後ろから現れた別の執事が、タオルを持って駆け寄る。  僕の小さな独り言はその騒音に消されてしまったはずなのに、男は、は、と顔を上げて、真っ先に僕を見つけた。そして、眉を下げながら、にこり、と微笑んだ。最近、見慣れてしまった、彼の自信のない、微笑みだった。 「どうして…」  一歩、廊下に出ると、もう身体は勝手に、彼に吸い寄せられるように近づいていった。執事たちが、浴室へ案内しようとしているが、彼は靴を脱いでから立ったままで、僕を待っていた。近づくと、彼のスラックスは濡れていて、骨ばった指先は、真っ赤になっていた。そっとそれに触れると、氷のようにきんきんに冷えていて、痛々しくも感じられた。コートを着ていたはずなのに、肩口もうっすらと濡れているようだった。頬も耳先も鼻先も真っ赤になっている。彼の長い睫毛には、雪が溶けて、小さな雫がいくつか乗っていた。それが、彼がふるふると細かく瞬きをすると、さらさらと落ちていく。毛先から、水滴がぽた、と落ちて、彼の手を握っていた僕の手に落ちてきた。冷たさに、肩がひくん、と跳ねてしまう。 「聖…」  熱い吐息がすぐそこにあって、は、と顔をあげる。かすれた声で僕をまっすぐに見つめている、深い青色の瞳は、間違いなく彼だった。 「さ、く…」  思わず名前が漏れだすように口からあふれた。それから、彼は、ふんわりと微笑んで、僕に謝った。 「遅くなった、ごめん。雪のせいで、飛行機も車も、全部ダメでな」  ごめん、ともう一度囁くように僕に謝った。 「無理いって、ジェットと徒歩で頑張ったんだが、この時間が精いっぱいだった」 「べ、別に…」  ふと握っていた手を離すと、それを追うように、冷たい指先が僕の指を捕まえた。は、と顔をあげると、瞳が揺れていて、苦し気に彼が囁いた。 「ごめん。また、聖との約束、破ってしまった…」  ごめん。  そう言って、彼は頭をさげて、僕の手に縋るように額をこすりつけた。ぽたぽた、と雪解け水が、僕の手を、玄関のカーペットにしたたり落ちる。 (もう、ダメだ…)  我慢の限界だった。  抱き寄せた身体は、指先と同じで、冷え切っていた。いつもは、熱いほど高い体温も、今では消え入りそうな灯のような温度感だった。 (こんなに冷えて…)  それでも、僕のもとに来た。  あんなにひどいこともたくさん言ったのに。 (たくさん、傷つけたのに)  最低なこともたくさん言った。  柊のことも引き合いに出して。  僕は、最低だ。  それなのに。  彼は、三時過ぎに来るという約束を、この悪天候の仕方ない条件下であっても、心から謝罪している。 (ダメだ…)  もう、止めることが出来ない。  無理だと決めつけていた。  だから、今日、もし彼がきてくれたら。  自分の中で、夢物語として、抱いてしまっていた一抹の希望が、今、叶えられてしまった。 (好き…)  ぎゅう、と彼の頭を抱き寄せると、温かなカーディガンに冷たい水が沁みてくる。それでも、身体はなんだか火照っていて、寒さなんて感じられなかった。 (大好き…) 「聖…」  身体を起した彼は、控えめに背中に手のひらを回してきた。それが嬉しくて、より強く彼を抱き寄せる。彼が、息をつめて、呻くように僕の名前を囁いた。ばらばらと涙が溢れて止まらない。 「さく…っ、さく、っさく…」 「…っ、聖…聖…っ」  彼の太い腕に強く抱き寄せられて、ようやく僕は、この大きな身体に閉じ込めてもらえた。  ずっと望んでいたことに、身体も心も、歓喜で震え、頭の奥も身体の奥も、じんじんと焦れるようにうずく。 「聖…、好きだ…、好きだ…」  耳朶にかさついて唇が撫でるようにあたり、吐息と共に吹き込まれるように囁かれて、脳が溶かされていくように身体に響く。腰が抜けそうになるのを、必死に彼にしがみついて、うなずく。 「聖…傷つけて、ごめん…俺なんかが、好きになってごめん…」  そんなこと言わないで、と首を横に振る。  だけど、彼はずっと、僕への愛と謝罪を囁いた。

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