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第65話

(やっぱり、嫌なんだ…)  言葉を選ぶ、ということは、何かやましいことがあるからだ。  ずがん、と頭を思い切り殴られたかのような痛みがある。寒さもあって、鼻も出てきた。そんな情けない顔を彼に見られたくなくて、空いている手が口元を覆い、俯く。 「聖、誤解している」  僕の様子に気づいて、彼が急いで、そう言葉にした。珍しく動揺している声色に、ますます疑念が強くなる。 「違う…その…、幻滅しないで、聞いてほしい…」  思っていた言葉ではないものが、彼から出てきて、思わず顔をあげると、バツが悪そうに視線を反らしていた。 「今から、俺は…相当、嫌なことを言う。聖に嫌われたくないが、またすれ違って聖を苦しめるのは絶対に嫌だから…」  前置きをしっかりとした彼は、ひとまず、近くにあったベンチに座ろうと長い脚を動かした。先に彼がベンチにたどり着いて、手のひらを当てる。首に巻いていた彼の大判のマフラーをといて、ベンチの上にたたんで置いた。彼が座るのかと思ったら、その隣に彼は腰掛けて、僕にその上に座るように促した。 「よ、ごれちゃう…」 「いいから」  心苦しかったけれど、彼が腕を軽く引っ張って、座れと強請るので、渋々座る。ふわり、と温かいストールが僕を包んだ。それから、隣で彼は、何度か深呼吸をしてから、話を始めた。 「…俺の中で、聖がベータであってほしいと思う自分と、オメガであってほしいと思う自分が、半分ずついる」  やっぱり。  僕が、オメガになることは、迷惑なんだ…。  俯いて、唇を噛み締めると、顔を覗きこまれる。 「やっぱり、幻滅したよな…」  彼からも、やっぱり、という言葉が出てきた。 「もちろん、聖が決めたことは応援する。俺にとって、聖のバース性は大きな問題ではない」  しかし、と彼は言葉を濁らせながらも、重い唇で話を再開する。 「聖が、オメガになってしまったら…俺よりも、いいアルファを見つけて、どこかに行ってしまうんじゃないかと、不安、なんだ…」  思ってもない言葉に、瞠目して、彼に振り向いた。どこからか現れた、風が運ぶ枯れ葉を見つめながら彼は言葉を続ける。 「俺たちは運命の番だ。間違いない。…ただ、そう確信しているのは、きっと…俺だけだ」  間違いかもしれない。  言い切れるほど、俺は、自分を、聖にふさわしい人間だと思えないんだ。  自業自得だけどな。  そう言って彼は、眉を寄せて嘲笑するかのように小さく息をついた。 「そんなことない…っ」  思わず、コート内の彼の手を、きゅう、と強く握りしめた。顔を上げた彼は、僕を見て、眦を染めて微笑んだ。 「こういう聖の、優しくて、まっすぐなところが、好きだ」  だから…、そう言って、彼はまた視線を元に戻す。 「だからこそ、聖を、他のアルファに見つからないように、俺がいない場所に置いておきたくないし、閉じ込めてしまいたいという欲望がある」  顔に皺を寄せて、奥歯を噛み締めるように彼はつぶやいた。  アルファの独占欲は強い。それは、自分の縄張りを荒されることへの嫌悪感からなるものだ。  彼は、苦し気な表情を見せるのに、僕は、その対象になっていることに、思わず嬉しさを感じてしまっていた。じわ、と指先がじりつくように熱くなると、す、と彼の切れ長の目元が僕に向けられる。 「それに、アルファとオメガの本能からなるものだと、俺の気持ちを誤解されたくない」  彼の吐いた息が白くふわり、と漏れて、溶けていってしまう。今、頬や鼻先が赤く見えるのは、寒さのためなのだろうか。 「それもゼロではないかもしれない…。…でも、俺は、聖だから好きになった」  聖でなくてはだめなんだ。  その瞳は僕を射抜いて離さない。  寒さも感じないくらいに、全身が熱くなる。耳の奥でうるさいほどに心音が高鳴っている。こく、と唾を飲み落とす。 「…僕が、ベータだったら、さくの不安はなくなる…?」  彼と向き合うように少しだけ身体を動かしたら、膝頭が彼にこすれた。彼の硬い太腿に触れてしまい、より熱を増すように感じたが、それを気にしていられる余裕もないほどに、僕は彼の瞳から逃げることが出来なかった。  僕の言葉に、彼は少し目を見開いて、視線を落す。 「…いや。…きっと、なくならない、…と、思う…」  頬が緩んで、つい、ふふ、と笑ってしまった。その反応に彼は驚いたようで、俯き加減のまま視線を戻した。 「なら、僕は、オメガになりたい…。さくの番になりたい…さくを、僕だけの番にしたい…」  だめかな…?  彼を覗き込むように、小首をかしげる。  僕への好きを惜しみなく言ってくれる彼が、愛おしかった。  不安を、ちゃんと僕に伝えてくれる彼が、もっと好きだと思った。  だから、彼の隣を歩きたい。彼の隣にずっといたい。  身体の奥の方から、穏やかで温かい泉が湧き出でるように、心も満たされて、地面に足がついていないような幸福感が僕を支配した。 「俺を、聖のアルファにしてくれるのか…?」  顔をあげて向き直る彼は、より強くポケットの中に忍ばせた僕の手を握りしめた。その痛いほどの強さが、彼の思いの強さなのかと思うと、勝手にゆるんだ顔のまま頷いてしまう。  じわ、と耳先を赤くした彼は、彼の膝の上にのせていた僕の手を、冷えた手で覆った。その手を、そっと持ち上げると、額をつけて、絞り出すように囁いた。 「ありがとう…聖…」  愛してる…  大切にそう囁かれると、ひゅ、と冷たい風が頬を撫でた。先ほどまでは芯まで冷えそうなほど残酷に冷たい風だったのに、今は火照った頬にちょうど良いものになっていた。  彼は、この公園での僕を覚えていると言った。  僕は、この公園での彼を覚えていない。  だけど、また今日、こうして、絶対に忘れられない大切な思い出を彼と作れたことが何より嬉しかった。  その瞳が、また僕を、僕だけを、まっすぐに映している。  それだけでも充分だと思った。  彼の瞳の中にいる自分と目が合って、むずむずした気持ちになって、つい、だらしなく笑ってしまう。それを、彼も、嬉しそうに微笑んでくれる。僕たちが、ちゃんと歩み寄って、一緒に進めているのだと確信した。  彼が、身体が冷えると僕を心配して、ベンチから立ち上がる。その手にひかれて、僕も腰をあげると、彼は僕の下敷きになっていたマフラーを手にした。そのマフラーを握った手に飛びつく。 「ごめんねっ、僕、洗って返すから…」  だから、と言葉を続けて、片手でなんとか自分のマフラーを解く。そして、彼の首元にふかふかの白いファー素材のマフラーを巻く。クールな顔つきの彼にはいくらか違和感があるが、せめてものお返しに我慢してもらう。 「それじゃあ、聖が余計冷えてしまう」  そう言って、僕が巻いたマフラーを解こうとするから、僕は僕で急いで彼のマフラーを首に巻いた。ネイビーのカシミア素材のマフラーも柔らかく、軽いのに非常に温かかった。 「これで大丈夫」  ね、と微笑みかけると、彼は少し目を見開いたあと、甘く蕩けた笑みを見せる。彼が納得したのだと胸を撫でおろして、隣に並んで歩み出す。彼の長い脚は、僕の小さい歩幅に合わせてゆったりと歩いている。  す、と息を吸うと、いつもよりも強く、彼の甘い、花蜜のような匂いが漂ってくる。 (どうして…?)  純粋に疑問に思って考えてみると、すぐ、口元に覆われている、彼のマフラーからの匂いだと気づき、ずっと彼に包まれているかのような強い匂いに、酩酊感を覚えてしまう。 (自分からやっておいて、なんて、恥ずかしいことを…)  僕のマフラーは臭くないだろうか、と気になって視線をあげると、彼は僕のマフラーを口元まで引き上げていた。同じことを、思っているのだろうか。  目があうと、彼は砂糖菓子のような甘い笑みを見せてきて、心臓が痛いほど高鳴る。なんだか落ち着かなくて、つながれた腕に身体を寄せる。ウールの厚手のコートが邪魔だと思ってしまう自分が、恥ずかしい。  でも、ずっと彼と一緒にいたい。  出来れば、触れ合いたい。  彼の温度で溶けてしまいたい。 「そういえば」  彼がふと口を開いた。ポケットの中で指を絡ませて、握り直される。 「聖は、卒業したらどうするんだ?」  頭一つ分高いところにある瞳が僕を見る。肩に頬を擦り寄せるほどの距離にいる僕は、それを見上げて答える。 「いや…、というか、卒業、できるのかな…」  ぽう、と彼のことばかり考えている頭はよく働かないが、なんとなしに答えはする。 「聖の頭脳があれば、出来るだろう?」  慰めるように、ポケットの中の指が、僕の爪先を撫でる。ぞぞ、と何か背中を疼くような、痺れるような感覚に、肩がぴくり、と跳ねる。 「…わ、かんない…」 「聖ならできるさ。大学入試だって間に合う」  でも、もう勉強だってしばらくしていないし、卒業だって出来るかわからない。  それに、妊娠していたら、自分はまず子育てに明け暮れるだろうこと。そして、それ以前に、柊からはずっと家にいることを命じられていたため、もうそんな未来が自分にあることすら忘れていた。 「聖は勉強が好きだろう?」  きっと大学は聖に合う。  彼はそう言って、僕に笑いかけた。 (…僕でも、大学に行っていいんだ。)  本当は、大学に行きたかった。  専門的な勉強もしたいし、幅広い学問にも触れたかった。いつか、人の役に立てるような弁護士などの仕事に就きたいと思っていた。  ただ、それも、もう開かれない未来なのだと、勝手に確信していた。  それを、彼が、一番、僕が認めてほしかった彼が、なんとない会話の一つとして、笑顔で僕に提案してくれた。  きゅう、と胸の奥が握られるように痛んで、苦しくて、息が吸えなくなった。 (…好き)  僕のことを、わかってくれて、応援してくれる彼が、心から好きだと思った。  楽しそうに、僕の未来について話している彼に何も答えられなかった。胸がいっぱいで、視界が潤んできたようにも感じられた。 (好き、すっごく…、さくが、大好き…)  言葉に出来なくて、柔い唇を淡く噛み締めて、うつむいてしまう。すると、ふ、と足が止まって、優しく深いバリトンが僕の名前を呼んだ。  しばらくして、何度も出ては返っていって、迷った彼の長い指先が、そっ、と僕の頬を撫でた。緊張しているかのようにか細く震えているようにも感じられた。 「聖…?」  する、垂れた髪の毛を耳にかけられる。それでも、僕は何も言えなくて、顔もあげられなかった。 「聖、どうした…?」  迷った指先が、視界にちらつく。その手を取って、僕の頬を包むように誘う。指先は、ぎくり、と最初強張ったが、僕が擦り寄るように彼の大きな手のひらに頬をつけると、太い親指が、僕の目元を撫でる。その優しい指先に、じん、と腰の辺りがざわつく。  その手に誘われて、顔をあげると、彼と目があった瞬間に、ぼろり、と大きな雫が睫毛から零れ落ちていった。  彼は驚いて瞠目している。彼の手に重ねてた自分の手を、今度は、彼の美しい輪郭に沿えた。  僕の名前を大切に呼ぼうとする、薄い桃色の唇に、僕は背伸びをして、自分のそれで吸い付いた。少しかさついていて、でも、柔らかで、しっとりと吸い付いた。 「…僕…、さくが、好き…」  大好き…  たまらなくて、涙が思わず溢れてしまったのと同じように、今度は言葉が溢れる。  彼は、驚いたあと、顔をしかめた。片腕ですっぽりと僕を抱き込んで、強く強く抱きしめた。 「聖…っ、絶対、離さない…」  奥歯を噛み締めながら、うなるように囁く彼に、うなずきながら、僕も離さないと、その上質なウールコートに爪を立てた。

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