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第66話
僕は、ぼんやりと桐峰学園の桜並木を見つめた。ベンチに座って、見上げると、一面がピンク色で幻想的だった。遠くで、にぎやかに卒業生を祝う声が多々聞こえる。
今日、無事に桐峰学園を卒業した。
あの日、公園で、彼と話をして、少し考えてから、卒業したい意思を親と彼に伝えると、すぐに動いてくれた。いくつかの簡易なテストを受けて、特別優遇措置として、無事に単位を修得させてもらって、彼と同じ卒業式に参加することができた。
ふわり、と頬を柔らかな桜の花びらが撫でる。今年は暖冬で、桜の咲きも早かった。桐峰学園は、生徒会の引継ぎや新入生への指導などによって、高校にしては珍しく卒業が遅い。それもあって、この美しい姿を、最後に見ることが出来た。
(もう、二度と、この風景を見ることは出来ないと思ってた)
だけど、こうして、穏やかな気持ちでいられるのは、間違いなく、彼のおかげなのだ。
校舎を出る前に、僕はお世話になった先生に挨拶に行った。そこで、本当の話を、ずっと僕に良くしてくれていた長田先生から聞いたのだった。小柄で愛らしい見た目の長田先生は、見た目に反して、自分よりも大柄の生徒たちをいつもまっすぐに指導していた。ずっと前に、長田先生もこの学園の卒業生で風紀委員長を務めていたという話を聞いたことがあった。生徒思いで、誰よりも正義感強く、正しいことをきちんと教えてくれる、数少ない大人だった。
その長田先生は、もとから彼と面識があったらしく、僕をたくさん気にかけてくれていた。図書室への特別措置を提案してくれたのも、長田先生だった。しかし、先日、それは、彼が長田先生に提案したもので、色々な先生たちにかけあって、頭をさげて、僕の居場所を作ってくれたのだと聞いた。そして、卒業できるようにかけ合ってくれたのも彼で、長田先生はそれを後押ししただけだと教えてくれた。
「無事に九条が卒業できて本当によかった。がんばったな」
涙目で笑いかけてくれた先生に、僕は涙がこぼれた。頭を深々とさげて、感謝を伝えた。それから、ぶんぶんと大きく手を振って送り出してくれた先生の左手の指輪がちかり、と光って、まぶしかった。
(早く、さくに会いたい…)
生徒会の引継ぎがあって、それが終わったら迎えに行くと、待ち合わせをした。桜並木の奥にこっそりとある中庭のベンチで約束をして、僕はそこに座って彼の迎えを待っている。
卒業生代表として、堂々とスピーチをしていた彼は立派だった。演台で話をする彼は、遠い存在だった。演台から僕を見つけた彼と目があった気がした。優しい微笑みを見せた彼と目があった。しかし、周囲の生徒から、感嘆の声が聞こえ、僕に向けてではないかもしれない、と自惚れた自分が恥ずかしくてすぐに視線を落してしまった。何千人も前にして、最後の最後まで帝王の姿を見せつける彼に、見惚れると同時に、僕は改めて住んでいる場所が違う人なのだとも思い知らせれてしまった。現に、卒業式後に、すぐに同級生や後輩たちに取り囲まれる彼を、職員室前の廊下の窓から見下ろした。生徒会メンバーがいるだけで常に人だかりはできる。それは、当たり前のことなのだ。だけれど、やっぱり、小柄で、可愛くて、アルファに愛されるために産まれてきたのだとすぐにわかるような美しいオメガたちに囲まれる彼を見ると、どうしても心が落ち着かなくなる。
もう、過去のことなのだからどうしたって仕方ないとわかっているけれど、どうしても、あの子たちと夜を過ごしたのだろうかと下劣なことも考えてしまう。そうすると、胸が苦しくて、自分が嫌になってきて、急いで僕は、彼と約束したここに駆けてきたのだ。
思い返すと、心がざわざわして、じっとしていられなくなる。それに、僕にとって、この学園での思い出は、彼と過ごしたことよりも、柊と過ごした時間の方が長かった。分厚いビン底眼鏡をかけた、赤髪の大型犬のような愛らしい彼を思い出す。どうして、最後は、あんな別れ方になってしまったのだろうかと、ふと疑問に思ってしまう。それでも、彼の家に閉じ込められて、自由を奪われた時間を思い出すと、身体にぶる、と悪寒が走る。僕には、柊しかいなかった。助けてくれるのも、地獄に突き落とすのも、柊だけだった。
そこから救い出してくれたのが、彼だった。
ひゅ、と吹く風が、冷たい風で、思わず腕を握りしめる。
(早く、きて…)
わがままだけれど、早く彼に会って、彼の笑顔を見て、瞳いっぱいに自分しか映っていないことを確認したかった。相変わらず、自分の欲深さを痛感させられる。だけど、早く、安心したかった。
ざ、と強く風が吹くと、ちらちらとピンクの花びらが舞い落ちる。ふ、と、甘い匂いが風に流れてきて、顔を上げると、がさり、と枝のこすれる音がして、垣根が分け開かれる。驚いて身構えるも、すぐにそこから彼が姿を現して、思わず立ち上がる。
「悪い、聖。待たせたな…」
制服についた葉を払い落としながら、彼が僕を見つけて微笑んだ。
「ど、どうしたの?」
いつも颯爽としていて抜け目なくかっこいい彼が、こんな隠れるように現れたことに驚きつつも、急いで駆け寄って、肩についた葉を軽く払う。一通り払えたかと身体を見てから視線をあげると、すぐ傍で彼が僕を見下ろして、溶けたように笑っていた。
「早く聖に会いたくてな。煩わしいのを避けるために、裏道を通ったんだ」
本当はもう少しまともに登場したかったが、と彼はくすりと笑って、僕の髪に指を通した。彼からそうやって触れてくることは滅多になくて、どきり、と一気に体温が上がるのがわかったが、彼の指先に一枚の花弁があって、それを取っただけなのかと思うと、少しさみしさを感じてしまった。そんな自分が後ろめたくて、視線を降ろすと、ふと、彼の制服に異変がないことに気づく。
例年、生徒会や人気のある生徒たちは、こぞって制服の一部をねだられている。歴代の先輩たちは、ほぼ裸に近い状態で返っていくのだと噂で聞いたことがあった。彼ほどの人気ある人が、ネクタイも、ボタンも、そのままでいることに驚いて、思わず顔をあげると、変わらない表情で僕を、瞳いっぱいに映していた。
「なんで?」
その瞳に、心底ほ、と息をつけて、思わず言葉がこぼれていた。ん?と小首をかしげて、彼は僕を見つめたまま、次の言葉を待ってくれている。その温かな間でさえも、胸が絞られるように、きゅ、とする。
「な、んで…何にも、捕られてないの…?」
そんなことを聞くなんて、恋人面しているみたいで、気恥ずかしくなって、途中から声も小さくなるし、視線もそらしてしまった。だけど、彼は当たり前だと言わんばかりに、真摯に答えた。
「渡すわけないだろ。全部、聖のものなんだから」
は、と顔をあげると、彼は先ほどと同じくずれた表情のまま、気にも止めずに、ベンチに座るように提案してきた。導かれるままに、先ほどまで座っていた場所に腰を下ろす。
隣に、彼がいる。
風と共に、ふわり、と大好きな彼の花蜜の匂いがする。そして、ちら、とピンク色の可憐な花びらも散っていく。ちらり、と彼に視線を移すと、彼は僕を見つめていた。
「な、なに…?」
むずむず、居心地が悪くて、つい聞いてしまった。前髪を耳にかけながら、ちら、ちら、と彼をうかがう。彼は、とろり、と瞳を細ませて、柔らかい声で囁く。
「この景色を、聖と一緒に眺められるなんて、思わなかった」
嬉しいんだ…。
ぽそり、とにじむようにつぶやいた彼に向き合う。彼越しに、ちら、ちら、と舞う花びらが美しい。幻想的で、これは夢なのではないかとすら思ってしまう。じわ、と嬉しさが身体に沁み渡って、なんとなしに内腿を擦り合わせる。じりついた彼が、僕に向き合うようにすると、彼の膝が僕に触れる。たったそれだけのことなのに、簡単に僕の心臓は跳ねて、目の前の彼のことで頭がいっぱいになる。
「…諦めないで良かった」
腿の上で、固く握りしめられた彼の拳が見えて、視線をあげると彼の瞳は潤んでいるように見えた。慰めるように、そ、とその拳に細い指をかける。
「ぼ、くも…、この桜を、さくと一緒に、み、たかった…」
節張った彼の手は、僕の手よりも一回りも二回りも大きい。ほどかれた手は、僕の指を撫でてて手のひらに収めた。爪の生え際をくすぐるように撫でられると、背中がびりびりと何か変な感じがしてくる。頭上で、しっとりと名前を呼ばれて、ためらいながらも顔をあげる。
制服姿の彼と、こうして過ごすのは、初めてのことだ。
今まで、見つけても誰かが隣にいて、僕を冷たく一瞥するだけだった。その彼が、今、こうして、僕だけを見つめて、大切に名前を囁いてくれる。その事実がどうしようもなく嬉しくて、眦に熱が集まる。
「たくさん傷つけて、ひどいことをして、悪かった…」
眉根を寄せた彼が、深い声で囁く。泣き出しそうな顔に、僕は身体を寄せ、両手で彼の手を握りしめた。けれど、なんと言葉にすればいいのかはわらかなくて、ただ、口を開け閉めして、また地面に向き合うしか出来なかった。こうやって、上手に彼を慰めたり、僕のことでいっぱいにしたり、そういう技術があればいいのに。不器用な自分を叱咤したくなる。
だから、今の僕に出来る精いっぱいを伝えようと、彼の温かな手を握りしめた。
「今日…長田先生から、聞いたんだ…」
ぴく、と彼の指先がかすかに反応した。だけれど、彼はじ、と僕の言葉を待ってくれている。だから深呼吸して、声が乱れないように言葉を続ける。
「さくが…僕に気づかないところで、僕を大切にしてくれてたんだって…」
当時は、理解ある良い先生に出会えてよかったとしか思っていなかった。もちろん長田先生が素敵な先生だったのは間違いない。しかし、その裏には、違う人物がいた。
風に誘われるように、睫毛をあげると、前髪がさら、と流れる彼がいた。毛束の間から見える、深い海の瞳は、僕を静かに見つめている。
「僕も、気づけないで、ごめんね…」
前のめりになりながら、一生懸命に、彼に僕の心が届くように伝えた。本当なら、この心臓を見せたいくらいだった。
もう、謝らなくていい。
僕たちは、もう一度、始まったのだから。
だから、過去を思い返して、傷ついた顔を、彼にしてほしくなかった。
「聖が謝ることじゃないっ、…俺が、勝手にしたことだから…」
それと比べると俺がしたことは、許されることじゃない。それなのに、聖は…。と、彼は、風に乱れた前髪をそのままに、僕の前髪を指先で軽く払ってくれる。する、と肌をかすかに、彼の指先が触れて、くすぐったいけれど、ぞわ、とする心地よさがある。思わず、瞼を降ろして、背中がか細く震え、息がつまった。
「じゃあ、触って…」
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