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第67話
吐息混じりにつぶやくと、彼の指先はすぐにひっこめられてしまった。両手でつかんでいた手すらも逃げようとする。大げさなまでの彼の反応に、疑念が浮かぶ。
(どうして…?)
彼は、極端に僕への接触を拒んでいる。いつもその指先は、悩むように宙を蠢き、僕に触れることなく、もとに戻っていく。
先ほど、かすかに触れた肌が、じりじり、と熱をまだ孕んでいるのがわかる。それほど、僕は彼の体温に恋焦がれているというのに、彼は違うのだろうか。
僕が怪訝な顔をしていたのだろうか、その表情に気づくと、彼は視線を迷わせてから、深呼吸をして僕を見つめた。
「聖は、怖く、ないのか…?」
何が?と聞くと、彼は、小さく、俺が…と答えた。
どういう意図で聞かれているのかも全く分からずに、眉間に皺を寄せたまま首をかしげた。
「何も怖くないよ?」
「っ、…聖は、優しいから…」
俺に気を遣っているんだろう…?
そう言って、僕が握り手を、また引こうとする。それを、ぎゅ、と力強く握りしめて、僕は逃がさなかった。彼が本気を出せば、僕なんか簡単に吹き飛ばせる。しかし、彼はそうせずに、僕のしたいままにさせてくれる。
怯えたように顔をゆがめる彼を見て、僕は心臓を手づかみで握られたように苦しくなる。
「なんで、さくのことが怖くなるの?」
素直に疑問をぶつける。彼は、気まずそうに唇を噛みながら、少し間を置いて口にした。
「俺は…聖に、ひどいことをした…ここに来るまで、その後悔がずっと俺を苛めていた…」
ひどいこと、と言われて思い浮かぶものは、彼が日々、違うオメガを抱いていたことだった。しかし、それは彼が、僕に触れるのをためらう理由なのかとさらに眉間の皺が濃くなっていく。ただ、彼が、そうした日々を後悔していること、未だに消せない過去に苦しんでいることだけはわかる。
「…だったら、僕だって、…さく以外にアルファと、関係を持ったことを、後悔してるよ…」
当時は、それ以外選択肢がなかった。けれど、それは彼を裏切る行為だったのはわかっていた。自分の心を無視して、身体を差し出す行為が、どれだけ自分の心をずたずたに踏みにじったのかもわかっている。そして、それは、それだけ僕を大切にしてくれていた彼の心を傷つけたのかも予想ができた。
「それに、さくのこと…大っ嫌いって、言っちゃった…」
彼のしあわせを願うあまり、彼との関係を切ろうとしたこと。それでも、彼は僕を諦めないで大雪の中会いに来てくれたこと。それが、どれだけ嬉しかったかも、僕はちゃんと思い出せる。
「…それは…、俺が聖にしたことと比べれば、大したことはない」
「そんなことないよ」
ようやく彼が、目線を上げて、僕を瞳に映してくれた。焦燥しきったその顔つきは、春の光景とは真逆なもので、痛々しくも思えた。
「違う、違うっ…俺は、聖に…暴力を振るったじゃないか…」
奥歯を噛み締めて、震える彼は顔を真っ青にして、絞り出すようにつぶやいた。
ようやく僕は、彼が言っている意味がわかった。
彼に無理矢理腕を引かれて、部屋に連れ込まれたこと。乱暴に身体を暴かれたこと。暴力を振るわれたこと。
忘れていたわけではないけれど、僕にとって、それが彼を恐れる理由にはなり得なかった。
あの時、僕は、期待しないように、これ以上自分が傷つかないように、とにかく心にバリアを張っていた。それでも、彼の暴力的な行為が、今、目の前で見える彼のように、痛々しくて、可哀そうでたまらなかったことも覚えている。だから、帰れと涙ながらに震える彼の言葉に反して、彼の傍にいることを選んだし、彼を抱きしめたのだ。
目の前の、今の彼も、頭を下げて項垂れている。
「俺は、許せない…っ、自分のしたことが、自分のことが…っ」
だから、聖が怖がることは、したくない…
息をつまらせながら、彼は教えてくれた。彼の本当の気持ちを。
ちゃんと、僕たち、前進めているのだと、彼とこうして、本心をぶつけ合う度に、安堵する。嬉しくなる。胸の奥が、きゅう、と鳴って、また彼への愛おしさが身体にこみ上げてくる。
大きな身体の彼が、目の前で小さくなっていく姿が哀れで、かわいくてたまらなくなる。
そ、とその身体を包み込むように抱きしめた。びく、と立派な体躯が揺れたが、僕は逃げないように、強く抱きしめた。硬い髪の毛に頬を寄せる。上品なシャンプーの匂いと、甘やかな匂いが漂って、彼だけの匂いに身体が淡く疼く。
「怖がらないで」
見た目はすっかり成人男性のようなのに、今、目の前で蹲るように小さくなっている彼が、出会った頃の、幼少期の彼のように思えた。マゼンダの中で、一緒に笑った、あの時のままのようだった。埃っぽい図書室で、こっそり二人で過ごした、あの小学生時代の彼のようにも思えた。
あの時から、僕たちは止まったままだった。それが、ようやく最近、少しずつ動き始めたのだ。
今、こうして、本当の気持ちをちゃんと伝えあえる関係性であること。また、彼を腕の中に抱きしめられることが、じんわりと現実味が出てきて、嬉しくて、涙が滲む。
「僕、さくのこと、大好きだよ」
だから、怖がらないで。
彼が、怖がっているのがわかった。
僕をまた、傷つけるのではないかとためらい、それを犯した過去の自分に嫌気がさして、自分を責めていたのだ。一人で、そうやって傷ついて、自分が嫌になっていくのは、わかる。だって、僕もそうだったから。
それと同時に、それだけ彼に愛されているのだと思うと、指先が痺れるほど多幸感に溺れた。
「一人で傷つかないで…」
不安なことも、怖いことも、二人で分け合おう?
つむじに、そ、と唇を落して囁いた。
大きな身体がのそり、と動いたので、腕をほどいて、彼の輪郭を撫でた。すぐそこに、震える吐息が感じられて、温かな彼の肌に触れて、長い前髪を払ってあげられた。彼がそうしてくれたように。しっとりと頬は湿っていて、指で拭う。つやめく睫毛が、そ、と持ち上がると、宝石のように深い青のきらめく瞳が見つかる。ようやく、彼と触れ合えたような気がして、頬がゆるんでしまう。
「さくの瞳、宝石みたいで、とってもきれい」
ふふ、と笑いながら、彼の前髪を耳にかけながらつぶやく。
「聖…」
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