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第68話

「僕、この瞳にいっぱいに自分が映ってると、嬉しくなる」  ゆっくりと近づいて、瞼に唇を落す。柔らかなそこが、ぴくり、と反応しているのがわかると、彼がちゃんとそこにいるのだと実感する。 「聖…」  彼は、苦しそうに僕の名前を囁く。だけど、その中に、僕への愛がにじんでいるように思えて、ゆるゆると笑ってしまう。それを見て、彼は顔を歪ませて、ごめん、と謝った。 「聖のこと、絶対に傷つけないから…」 「うん」 「聖が嫌なことは、絶対にしない」 「うん」  彼は誓うように、僕にいくつも言葉をつぶやいた。それに何度も僕はうなずいた。ほろ、と零れる雫がもったいなくて、吸い付くと、また瞼が持ち上がって、微笑んでいる僕が見える。唇を噛み締めるのを解放してから、一度湿らせて、言葉を紡いだ。 「聖に、触れても、いいのだろうか…」  僕はようやく前を向いてくれた彼が嬉しくて、破顔しながらうなずく。そろそろ、と震える指先が僕の頬に、ゆったりと触れた。何度も、その丸みを確かめるように撫でていく。それが、心地よい。目を細めて、彼の手に頬ずりする。 「僕、さくに触れてもらえると、ふわふわする…」  くすくす、と笑いながら、思ったままに伝える。本心を、迷いなく彼に伝えられることが嬉しくて仕方ない。今度は、僕も、彼の頬を柔くつまむように撫でた。薄い頬は、摘まめるほどの余分なものはなくて、精悍としている。さらさら、と心地よい肌を僕の指先が何度も往復する。 「本当に、怖くないのか?」  指先が不安げに僕を撫でる。大丈夫だよ、と彼の手を包んで、僕の頬に沿わせる。かさついた大きな手のひらが、すっぽり僕の顔を覆ってしまいそうで、なんだか安心する。 「さくには、嘘つかないよ」  意識せずとも柔らかい声で彼に囁く。今度こそ、彼はようやく、眉を降ろして、頬を緩ませた。それを確認できると、さらに笑みが深くなっていくのが自分でもわかる。目元を硬い親指が撫でると、背筋がむずむずする。 「ん…」  思わず息がつまるような声がもれてしまうと指先が固まる。すぐに彼が、嫌か?と心配そうに尋ねた。それに首をかすかに横に振って、頬を染める。何と答えれば良いのかわからなくて、言葉がつまってしまう。急に、自分が彼にとんでもなく恥ずかしいことを言っていたのだと気づき、彼の手首をやんわりとつかむ。しかし、今度の彼は、離れてくれなかった。  変わりに、親指が意思を持って、顔のあちこちを撫でてくる。目元を撫で、頬を撫で、こめかみをなぞる。その度に、肩が小さく、ぴくん、と跳ねてしまう。 (さっきまで、全然そういう感じじゃなかったのに…)  急に、色めきだったように感じられて、顔に熱が集まっていく。口もとを、するり、と撫でられて、背筋が伸びてしまう。ふるり、と唇から熱い吐息が漏れる。 「聖…嫌、か…?」  かすれたバリトンが聞こえて、ちらり、と視線をあげると、宝石がすぐそこにあって、熱を帯び、潤みがあり、輝きを増していた。彼からの戯れが久しぶりで、身体がざわめきたっている。それには、間違いなく高揚があり、期待に満ちていた。 「…ゃ、じゃない…」  自分から振った話なくせに、声がかすれて、さらに耳の奥でどくどく、と血液が強く循環していく。 (さく…、さく…)  だんだんと、彼の大きな身体が目の前に迫ってくる。思わず、唇を淡く噛み締めて、湿らせてしまう。それに、目の前の喉仏が、ごくり、と大きく上下するのがわかってしまって、身体が一層緊張に硬くなる。 「…聖…、いいか…?」  何を、と茶化すほど、僕も余裕がなかった。ぱち、ぱち、と細かく瞼が震えるように瞬きを繰り返すと、尖った顎が見えて、薄いけれど形のきれいな桃色の唇が見える。僕の頬を閉じ込めている彼の手の甲に自分の手を合わせるように撫でる。彼の水かきに、淡く爪をひっかけて、小さくうなずくと、吐息が重なり、そ、と唇が触れ合った。 「んぅ…」  ふに、と柔らかいそれが触れ合うだけの、たったそれだけのキス。  それなのに、相手に聞こえてしまうのではないかと思うほど、心臓が早鐘を大音量で打ち鳴らす。緊張して、息を止めてしまって、彼が離れていくのに合わせて、細く震える息を吐く。しっとりと濡れている睫毛を持ち上げると、頬を赤くした端正な顔がそこにあって、じ、と僕を見つめていた。それだけで、腹の奥が、ぎゅう、と絞られるように焦げ付く。 「聖…好きだ…」  まったく同じことを言われて、目を見張る。そのあと、すぐに目を伏せて、ゆったりとうなずいた。ようやく彼は、溶けた笑みを見せてくれて、もう一度、好きだと囁いた。  さあ、と温かな風が僕らを包むように吹き、桜の花びらを散らす。湿った唇の端に、ぴとり、と何かが貼り付いて、彼がそれに視線をやったのがわかった。急いで取ろうと指を動かすが、その前に、彼がもう一度背中を丸めて、僕に顔を寄せる。長い睫毛が伏せられて、すぐ目の前がそれでいっぱいになったと思ったら、唇を何か一枚隔てて食まれるような、柔らかな感触があって、すぐに彼が離れていった。その唇には、淡い桃色の花びらが一枚挟まれていた。  それを軽く歯を立てて下唇に押し付けながら、彼は微笑んだ。そこは、俺の場所だと言わんばかりの笑みに、さらに身体の熱が高まって、彼の胸元に倒れ込んでしまう。長い腕にぎゅう、と包まれて、身体いっぱいに彼の甘い匂いが吸い込まれてしまう。くら、と眩暈さえ覚えてしまう。 「聖、好きだ…、ずっと、こうしたかった…」  少し早い心音が、とくんとくん、と僕の鼓膜を揺らして、身体に溶け込んでいく。なんて心地よいのだろうと、夢なのかと疑う世界だ。  嬉しくて、涙が滲む。  三年間、見つめ続けた制服姿の彼に、この桜並木に隠れながら、愛を囁いてもらえる日がくるなんて、思いもしなかった。  彼に嫌われたと、毎夜、枕を濡らしていた自分に教えてあげたい。今度は、嬉しくて、しあわせで、涙出来る日がくるのだと。  しばらく抱き合ったあと、もう一度、彼がキスを強請ってきてくれて、しっとりと唇を合わせた。余韻に浸りながら、僕らは指を絡めて、桜並木を歩いた。もう人は減っていたが、すれ違う人々が僕らを見て、声をあげた。 「な、なんで帝王と氷の花が…!?」 「え?! 帝王、姫とデキてたの!?」 「眼福~!!」  口々にそう囁かれていたようだが、彼が僕を見せないように肩をきつく寄せて、周りを見させてくれなかった。

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