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第71話
温かく、溶けたおかゆを口に流し込む。とろり、と喉元を通り、しくしくとざわめく胃に沁み渡る。ようやく、ほ、と息をつけた。昼間、吐き気と格闘し、少しベッドで眠りにつけた。執事が持ってきてくれた食事を、今、口にできたことにひどく安堵した。柔らかな湯気が立ち、優しい出汁の香りが心をゆるめてくれる。
しかし、これもいずれ、僕を苦しめて流されてしまうのかと思うと、悲しくて、二、三口食べて、匙を置いてしまった。その横にあるカップを持つと人肌程度に温められたハーブティーが入っていた。一口舐めると、華やかな香りの後にはちみつの甘みが残って、身体が勝手に脱力していくのを感じる。胃に負担をかけないように温度調整されたそれに、使用人たちの優しさが沁み込んでいる。そのカップだけベッドサイドのテーブルにおいて、申し訳ない気持ちのまま、食事のトレイを部屋前に出しておく。
明るい廊下から、小さな灯りしかつけていない部屋に光が差し込む。それがゆっくりと扉が閉まって、また部屋が暗くなる。それだけでも寂しさがこみあげてくる。
胃を撫でると、くる、と小さく鳴る。ちゃんと身体が生きていて、食べ物を消化しようと働いているのを感じる。机の上にある錠剤を見ると、半日前まであって苦しい時間を思い出して、口の中が嫌に気になる。たった二つの白い粒によって、自分の身体が変えられて、苦しめられるのか。
やめてしまおうか。
そんな弱気な考えが頭をかすめて、ひや、と背中が冷たくなる。軽く頭を横に振って、気の迷いだと自分に言い聞かせる。水差しからカップに錠剤を飲み干すだけの水をそそぎいれる。ぐ、とカップを握りしめて、錠剤を見つめる。
(さくの声が聞きたい…)
彼の声を聞いたら、こんな小さな錠剤、簡単に飲み干せてしまうだろう。
カップと錠剤をそのままに、僕はベッドヘットにあった携帯を取り、月明かりの刺す窓辺に寄った。外からは夏虫の鳴き声がうっすらと聞こえる。空調が効いており、外の気温はわからない。薄手の長袖が、細くなった腕からするり、と抜けた。
(この月を、さくも見るのだろうか…)
ププ、といつもと違うコール音が鳴る。彼と僕を国際電話がつなげているのだとわかる。彼の声が聞けるという高揚感に、久しぶりに自分の体温を感じられた。
スリーコール鳴っても、彼は出ない。少し、時間がかかるな…、と不安になってしまう。やっぱり、タイミングが悪かったのだろうか。
ちらり、と時計を見る。彼がいる国は、朝方だろう。疲れて、まだ寝ているのだろうか。
次のコールで出なかったら、切ろうと肩を落としながらも耳を澄ます。電子音がプー、と鳴り、出る気配がない。予想以上に胸が締め付けられるように苦しくて、悲しかった。仕方ない、また今度…と画面の赤い受話器をタップしようとした時、音が替わった。電子音から、がさ、と何か物音が聞こえた。急いで耳に当てて、口を開く。思わず口角があがって、一気に体温が上昇するのも感じられた。がさ、がさ、と布がこすれるような音がしていて、おそらく寝起きなのだろうと推測して、大きな声を出さないように注意を払いながら声を出そうとした時、僕は硬直した。
『だれ~…? 朝からうっさい…』
知らない、女性の声だった。
がん、と思い切り後頭部を殴りつけられたかのような衝撃があって、急いで無言のまま、電話を切った。画面には、彼の名前がしっかりと映し出されていた。
(どういう、こと…?)
強く心臓が鳴って、こめかみをどくどくと乱暴に血液が巡る。そこに滲む汗が冷たい。呼吸が浅く、肩が上がり、暗い画面の携帯電話を抱きしめたまま、その場にしゃがみこんだ。立っていられる力がない。
(今、女の、人…だった…)
かすれた、明らかに寝起きの声だった。
手の中にある真っ暗なディスプレイをもう一度見ると、そこには月明かりに照らされた、青い白くやつれた自分が映っていた。すると急に、その画面が着信を知らせる。彼からだった。
訳がわからなくて、うまく回らない頭のまま、反射的に受話器を取ってしまった。
『聖っ?』
耳に当てると、彼の声が聞こえた。
『聖? 聖だよなっ?』
慌てた彼の声を聞くと、急に現実なのだと重くのしかかってきて、恐怖で急いで電話を切ってしまった。しかしすぐに、彼からの電話がかかってくる。手の中で、ブー、ブー、とバイブレーションが痛いほど働いている。煩わしくて、そのまま電源を落してしまった。
(やっぱり、さくの、電話…なんで、それを…)
頭がよく回らなくて、明るさがあって顔を上げると、半分の月が煌々と光っていて、その周囲がぼやけて滲んでいた。ひや、として、頬に触れると大粒の涙が零れていた。
(なんで、泣いてるんだろう…)
自分の気持ちと向き合う元気すら、もう僕にはない。
その日の夜は、そのまま眠りについた。翌日の朝は、身体が軽くて、すごくすっきりとしていた。胃痛も吐き気も、頭痛もなくて、穏やかな朝だった。
なぜだろうと部屋を見回すと、机の上に、水の入ったカップと出された二錠の白い粒がそのままになっていた。
(薬を飲まないと、こんなに楽なんだ…)
机の前に立って、錠剤を爪で叩く。たったこれだけのことなのだと思うと、なんだか馬鹿らしくなってくる。
(なんで、飲むんだっけ…)
ああ、オメガになりたいからだ…。
でも、僕が苦しんでも、何かいいことがあるんだっけ…。
くう、と胃が鳴る。空腹を久しぶりに感じる。いつも着ているパジャマから、半袖のシャツとスラックスを取り出して着替える。久しぶりにちゃんとした衣服になって、気が引き締まる。サイズにゆとりが生まれていることを思いながら、リビングへと降りる。
久々の僕と対面する執事たちは心配の色をにじませていたが笑顔で迎えてくれた。優しいおかゆを、ぺろりと平らげると、身体が温かくなって、力が湧いてくるようだった。
自室に戻ると、執事たちが簡単に室内をきれいに整えてくれていた。置きっぱなしだった水差しも新しいものに変えられて、錠剤はペーパーに包まれて、小皿の上に置かれていた。僕はそれを、何の考えもなく、そのまま紙に包んで、ゴミ箱に落とした。
窓を開けると、む、と湿気の高い風が入ってくる。夏だと実感できるそれを肺にめいっぱい送り込んで、息を吐くと、ようやく生きている心地がした。窓をそのままにして、机の前に座る。いつものテキストとノート、ペンを取り出して、入試に向けての学習をようやく再スタートさせた。
三日目の夜、いつものようにテキストを広げて勉強をしていると、は、と顔をあげた。
「く、くすり…」
夢から覚めたように、急に全身から血の気が引いた。
(僕は、何をしていたんだろう…)
薬を飲まないと…!
せっかく服薬を頑張ってきたのに、やめてしまってはあの苦しみが泡と消えてしまう。慌てて、引き出しの中から錠剤を取り出して、ぱき、とパッケージを割る。かつん、と音を立てて机に落ちた白い粒は、跳ねて床へと転がっていってしまった。机の下に隠れてしまった薬を探すために、椅子から転がるように降りて、床に膝をつく。すぐに見つかった錠剤を手に握るが、躊躇ってしまう。
(これを飲むと、また苦しい毎日に戻るんだ…)
なぜ、そんな思いをしないといけないんだっけ…。
混濁する頭で少しずつ整理して考えていく。オメガになりたいから。
オメガになって、何をしたいんだっけ…。
オメガになって、アルファと番になりたいんだ。
誰と…。
それは…。
ぽた、と手の甲に雫が落ちる。一つ落ちると、次から次へとぽたり、ぽたりと、雨のように落ちていく。
(僕が、一緒にいたい相手は…今…)
誰といるのだろう。
電話口に聞こえた、知らない声は、誰だったのだろう。
朝方に寝起きの声で、女性がいて。それだけの条件で、彼のことを疑うのは、決して安直ではないだろう。なぜなら、彼は、それだけ魅力的なアルファだからだ。ただの男でなく、ただのアルファでもなく、全国でトップに入るような大企業の御曹司であり、見た目も能力も抜きんでた極上のアルファなのだ。
その彼が、薬で身体を変えないといけないような得体の知れないオメガに縛られるはずがないのだ。
本当に自分の決断が正しかったのか自信がない。けれど、それを肯定してくれる人も、否定してくれる人も、ここには誰もいない。ただ、傍にいてほしかった。けれど、それを望むことは、間違いなく彼の未来の選択を狭める行為であって、彼のしあわせを妨害することなのだ。そんなこと、僕にはできない。
(飲みたくない…)
はっきりと意識の中で言葉にしてしまう。
(苦しみたくない…)
元気でありたい。ぐっすりとベッドで眠りたい。夏の匂いをめいっぱい吸い込んで、健やかな気持ちになりたい。勉強をしたい。たくさん本も読みたい。おいしいものも食べたい。それから、それから…。
けれど、そんなどの欲よりも、僕が欲しているのは、たった一人の男だった。
(傍にいてほしい…)
背中を撫でてほしい。抱きしめてほしい。あの甘い花蜜の匂いで身体を満たしてほしい。よく頑張ったな、と頭を撫でてほしい。労わるように、優しく、キスしてほしい。隣で、名前を囁いてほしい。笑いかけてほしい。好きだよと、頬を撫でてほしい。
思えば思うほど、遠いものだと実感して、指先から冷えていく。ぶるぶると身体が震える。
(僕が、オメガになって、番になったとしても…)
アルファの彼は、いなくなってしまうかもしれない。
オメガは番相手にしか性的欲求を満たしてもらえなくなる。フェロモンの匂いも番のアルファにしか届かない。番以外に粘膜接触をされると強い拒絶反応が出てしまう。つらい発情期を慰めてくれるのは、番契約をしたアルファしか成し得ない身体になる。
それを僕は、一生のつながりであって、愛だと思っていた。
けれど、アルファは、いつだって自由だ。
番がいたとしても、アルファは他のオメガを番にできる。上流階級の一部の古いアルファは、オメガの番の数をステータスだと思っている人種もまだいる。僕が読む物語は、アルファは一人のオメガを一生をかけて愛すし、オメガも一生を誓ったアルファに愛されて、しあわせなものだった。現実はどうなのかを、僕は知らないでいるほど子どもではなかった。
彼ほどのアルファは、多く遺伝子を残すべきなのだ。いつの時代だって、優秀であればあるほど、その遺伝子を多く残すことを求められてきた。
だから、彼の持つ番の、大勢いるうちの、一人でも良かった。
それでもいいと思えるほど、僕は彼と一緒にいたかった。
それなのに、いざ彼が違う人と共にあることを知って、こんなに深く傷ついている。いっそ、消えてしまいたいと思うほどに、あちこちが痛む。
彼が、誰に微笑みかけても、誰と関係を持っても、僕と同じことを誰かに言っていてもいい。そう思っていた。そう思わないと、僕は彼と一緒にいられないと思っていたから。
そのくらい必死にならないと、僕は彼と一緒にいられない。
だから、どんなに苦しくても、早くオメガになって、彼と一生消えない契約を持ちたかった。例え、彼が違うオメガに心奪われたとしても、僕に見向きもしてくれなくなっても、その契りさえあれば、僕は一人でも生きていけると思っていたから。
手のひらを開くと中心には、小粒の薬がある。真っ白なこれが、僕をあんなに苦しめるものだなんて、思いもしない。そこに、ぱた、と雫が落ちて、薬をじんわりと溶かす。いけない、と思い、手のひらで口を覆い、そのまま涙と共に、体内に飲み込んだ。
(僕が、欲張りだから…)
欲張りだから、彼が嫌になって、離れていってしまうんだ。
何も、望んではいけない。
静かに、耐え忍ぼう。
彼に嫌われないように。この前みたいに、好きだと微笑んでもらえるように。大切な宝物みたいに、しっとりと名前を囁いてもらえるように。
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