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第72話
翌朝から、また具合が悪くなった。少し時間を空けてしまったからだろうか。より症状が重いような気がした。
目が覚めてから、ずっと眩暈がして、気持ちが悪かった。なんとかトイレに駆け込んで戻すけれど、一向に胃の違和感が取れなくて、下腹部の痛みも強くて、脂汗が止まらなかった。すぐに、執事たちが温かい湯たんぽや身体に良いとされているハーブティーなどを用意してくれた。その優しさに微笑む余裕すらなくて、ベッドでうずくまって自分を抱きしめる他なかった。
寝ているような、起きているような、酩酊状態でただただ苦しい時間が流れていく。
(これは、僕が選んだことなのだから…)
わがままを言ってはならない。あと、これを三か月くらい我慢すればいいだけなんだ。山野井先生は、うまく身体が反応すれば、ひと月ほどで副作用はなくなると言っていた。それに賭けるしかない。
副作用のひどさが聞いていたし、心配であれば入院してフォローすることもできると山野井先生は提案してくれていた。
(入院、すればよかった…)
そうしたら、先生が近くにいて、僕はこんな寂しい思いをしなくて済んだのだろうか。
思わずそう考えてしまうと、ベッドに横になっているはずなのに、浮遊感があって、ぐらり、と平衡感覚が狂う。それをきっかけに、また吐き気が強くなる。
こんこん、と控え目にノックがされる。返事をする元気もなく、ただうずくまっていると、静かにドアが開かれて小さい足音が聞こえる。ひんやりと冷たい指先が額に当たり、視線を動かすと、久しぶりに見る母親がそこにはいた。
「つらそうね…」
かわいそうに、と言って母親は大きな瞳に涙をいっぱいにさせていた。安心させたくて微笑もうとするけれど、こめかみが痛んで表情をつくることができなかった。
「最近は落ち着いていたから不要かと思ったのだけれど、良かったわ…」
小声でつぶやいて、母親はかさり、と小さな紙袋を枕元に置いた。
「山野井先生のもとに昨日行ってきたの。副作用を抑えることはできないけれど、吐き気止めにはなるんじゃないかって」
飲む?と聞かれて、小さくうなずくと、コップに少しの水を入れて、ベッドに腰掛けた母親は、ピンク色のいつものものよりも一回りも小さい錠剤を一粒出した。また薬を飲むのかと肩が落ちるけれど、少しでも楽になるなら、それに頼りたいという思いもあった。
なんとか身体を起して、母親からコップと薬を預かる。口に含んで、水を飲み下すと存在を示さないように簡単に錠剤は体内に吸収されていった。すぐに変わるわけないけれど、なんだか少し楽になった気がした。
ふ、と一息ついてお礼を言うと、母親は静かに微笑んで、はらり、と涙を一筋零した。
「母さん…」
「健康に産んであげられなくて、ごめんね…」
聖がそんなに苦しむことないのに。そう言って母は、細い指で涙を拭った。
「違うよ、僕が選んだ道だから…母さんのせいじゃないから」
泣かないで、と手を握ると、あまりにも細くて、冷たくて、小さい母親に驚いた。それから、母親は僕の顔を見て、真剣な顔つきで聞いた。
「本当に、聖はそれでいいの?」
涙で星粒をたくさん瞳が輝かせたまままっすぐに僕を見つめていた。今までに見たことのない瞳の力強さに息を飲んでしまう。
「本当に、聖は、いいの?」
「ぼ、くは…」
少し考えたあとに、うなずいた。それ以外の答えはないのだから。
「いいんだ、僕が、僕のために決めたことだから」
自然と笑えた自分に心底ほっとした。彼と結ばれることはないかもしれないけれど、少しでも彼の中に僕を残せるのなら、僕の身体も心も、彼でいっぱいにできるなら、それでいい。
「母さん、ありがとう」
そういうと、母親はまた一つ涙を零して、僕を抱きしめた。小さく細い母親を抱きしめ返す。柔らかなおひさまのような優しい匂いにする母親が僕は好きだった。
「応援してる。聖がしあわせになりますように」
微笑みかけてくれた母親に、少し胸が痛んだ。それに気づかないように、僕はありがとうとつぶやいた。
母親が山野井先生からもらってきてくれた薬は、思いのほか、僕を楽にさせた。ずっとあった吐き気は緩和され、胃の違和感も下腹部の違和感も、頭痛もまだまだあったが、ないよりかはずっと楽だった。少し起き上がって、勉強もできるほどになれた。食事はまだ難しかったが、心底母親に感謝をした。
夜になると空調は切って、窓を開ける。外からはにぎやかな虫の音が聞こえて、たまに吹く夜風が心地よい。その中で小さなライトをつけて、勉強をするとよく集中ができた。勉強に没頭している間は楽でいい。何も考えなくて良い。英文に目を走らせていると、ふ、と夜風によって、甘い匂いがした。なんだろう、と顔をあげて窓を見つめる。もちろん、そこには何もなくて、窓辺に近づくけれど、見えるのは庭の茂った木々だけだ。
すると、廊下の方から騒々しさが感じられて振り向く。荒々しい足音と共に、部屋の扉が勢いよく開いた。驚いて身を縮こまらせてしまう。そして、そこに立っている人物にもっと目を見開いて、言葉を失ってしまった。
「聖…っ!」
声をあげる前に、長い脚であっという間に近づいてきて、広い胸元に顔を押し付けるように抱きしめられてしまう。
「聖っ、聖…!」
強く抱きしめられると、もとから高い基礎体温が、さらに熱く感じられて、ワイシャツ越しにしっとりとしていることがわかってしまう。それに嫌悪を感じられないのは、相手が、彼だからだ。
会いたかった彼が今、目の前にいて、僕の名前を呼んでくれている。力いっぱいに抱きしめて、僕の匂いをかがれている。恥ずかしくて、身じろぐけれどそれを許さないとばかりに、ぎゅう、と腕で閉じ込められてしまう。む、と濃密に甘い彼の花蜜の匂いがして、くらり、と酩酊する。力が抜けてしまう、と倒れかけたところで、彼が僕の異変に気付いて、抱き方を変えた。
「聖?」
僕の顔を覗き込むようにして、太くかさついた指が、僕の頬を撫でた。優しいその仕草に、感情が溢れてしまう。
(我慢しないと…)
嫌われないように、面倒くさいと思われないように。
それなのに、そう思えば思うほど、涙が溢れた。
「なん、で…」
彼の帰国予定まで、あと二週間は残されていた。そ、とすぐ目の前にある端正な顔立ちに、指を這わせると、ぴくり、と小さく反応してから、彼は嬉しそうに顔を緩ませた。ちゃんと、ここにいる。彼が、今、僕の目の前にいるんだと再確認すると、そわ、と身体の奥から熱が生まれていくようだった。
「聖、ごめんな」
僕の手を握りしめて、彼は眉を下げて謝った。何のことだろう、と、じ、と彼を見つめていると、その瞳は不安そうに揺らめいていた。
「あの電話、あっちにいるいとこが勝手に取ったんだ」
そう言われて、先日、電話に出た女性のことを思い出した。は、と気づいてから、急いで視線を落した。そのあと、すぐにあからさまな態度にしてしまったことを後悔して、うっすらと濡れている目元を乱暴に拭い、彼に向かって急いで笑顔をつくった。
「そ、そうだったんだね! 女の人が出たから、びっくりしちゃったよ」
大丈夫。上手に笑えているはず。声色だってちゃんと明るくできた。そんな小さなことなんか気にしないって、へっちゃらな顔でいれば大丈夫。
「聖…」
それなのに、彼は、眉根を寄せて、僕を見下ろしていた。深い青色の瞳は何かを憐れんでいるかのように見えた。だから、全身が固まってしまった。
(僕は…憐れなんかじゃない…)
オメガとして、好きなアルファの番の一人になれるんだ。
それは、しあわせなことじゃないか。
(憐れなんかじゃない…)
たとえ、僕が一番でなくても。
好きなアルファの番になれるのは、しあわせなことだ。
彼の腕がほどけた。顔を上げることが出来なくて、ひきつった顔のまま、身体を翻して窓枠に手をついた。夜の空に星が瞬いて、木々が風に揺らいで、虫の音と共に楽を奏でる。それなのに、心が一つも穏やかにならなくて、ひそやかに呼吸をすることしかできなかった。
もう、夏が始まってしばらくするというのに、身体が冷えているようにかすかに震えていた。それが情けなくて、気づかれないように、力をこめる。
しばらくすると、背中から溶かすような温かいものに包まれて、両肩を力強い手のひらが押さえる。視線を降ろすと、彼の腕が僕の身体の前で交差していて、すぐそこに甘い香りが漂っていた。
「聖…悪かった…」
耳もとで吐息を吹き込むように、囁かれると、首筋がびり、と疼いた。鼻から声がもれそうになるのを、噛み締めて堪える。それなのに、彼が柔い唇で、こめかみを吸う。ちゅ、とリップ音が響くと、やけに現実的に感じられて、身体の緊張がほどかれていく。
「不安にさせて、ごめんな…」
頬を優しく吸われて、しっとりと濡れていることに気づいた。首を動かすと、すぐそこに彼の瞳があって、その中には情けない顔をした自分が映っていた。
「俺には、聖だけだ…」
そ、と睫毛を伏せると、大粒の雫が頬を滑り落ちるのと同時に、唇が合わさった。柔らかく、温かな彼の唇に、胸を降ろす。
(本当に、さくがいる…)
「さく…」
震える瞼を持ち上げると、そこには彼がいて。嬉しくて、指先が震える。顎先に触れると、彼の熱い唇が、何度も食むように合わさった。
(今、目の前には、さくがいて…。さくの目の前には、僕だけなんだ…)
そう思うと、高揚感に襲われる。身体を翻して、彼の首に腕を巻き付けた。彼の唇の動きに合わせて、僕も吸い付いた。とろり、と舌が唇をなぞると、浮遊感に包まれて、唇を開いて、僕も舌を差し出した。崩れ落ちてしまいそうになるほど、彼の口内は熱くて、甘い舌が僕の口内を蹂躙する。膝が震えて落ちてしまいそうになるのを、彼の腕が腰に回って身体を密着させられる。
「さ、ぅ…も、っと…」
じゅ、と舌を吸われたまま、唇が離れ、もっと、と強請ると、ぎらり、と瞳が月光を受けて鈍く光る。
「聖っ…」
「んぅ、んん…っ」
(もっと…)
身体が密着するように、片腕を彼の腕の下から背中に回して、しがみつく。もう片方で、彼の熱い首筋を手のひらで撫でると、ぴくり、と血管が動くのがわかる。そして、さらに強く、唇を吸われ、舌は暴れる。
(もっと…僕を、欲して…)
ふるり、と睫毛をうっすらと持ち上げると、すぐそこで海底のように深い青がある。
僕しか映さない、この瞳を見ていると、ひどく落ち着く。
(今は…、今だけは、僕のさくだ…)
今、彼がキスをしているのも、抱きしめているのも、欲しているのも、愛を囁くのも、僕だけ。僕だけなんだ。
だから、これ以上、欲張ってはいけない。
「聖…、好きだ…」
「っ、ん…さく、ぅ…」
唾液で濡れた唇を何度も彼が吸っては舐めて、さらに口内を舐め上げる。
このまま、彼の瞳に、僕だけがずっと映ればいいのに。
そんな考えは、心の奥底にしまって、鍵をかけた。
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