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第73話

 月見用に用意していた、一人用ソファーに彼が腰掛けて、その膝の上に僕を横抱きにして置いた。彼にもたれて、耳をあてると力強い心音が聞こえて、心地よい。目をつむって浸っていると、彼がいたずらにキスをする。それが、放置されて拗ねている子どものように見えて、勝手に頬が緩んで、身体を伸ばして、慰めるようにキスをした。すると、嬉しそうに目を細めて、眦を染める。胸の奥から、温かいものが溢れ出て、涙が出そうになって、彼の首に腕を回して抱き着く。ふんわり、と優しく包まれるように抱きしめられて、頬ずりをすると、くすり、と耳元で彼が笑う。 「聖は、俺に会いたかったか?」  当たり前だ。  愚門に頬を膨らませて、睨みながらうなずくと、彼は僕のすぼめた唇に嬉しそうに吸い付いた。 「かわいい…聖、好きだ…」  好き、と言ってもらえると、頭の髄がじぃん、と熱くなって、何もかもがどうでもよくなってしまう。うっとり、と精悍な彼の輪郭をなぞって堪能していると、その手を握られてしまう。 「俺のこと、好きか?」  そんな当たり前の質問をわざわざしてくる理由がわからない。いつも自信で満ち溢れている彼の表情が、不安げにゆらいだ気がして、小首をかしげた。先を促すように捕らえられた指先に口づけが降って、爪の生え際を、くちゅ、と赤い舌がなぞる。そこから電流が生まれて、背中を通って腰に溜まる。思わず鼻から息が漏れて、肩が浮いてしまう。恥ずかしくて、うなずき、俯いて誤魔化す。 「ちゃんと言って」  ぢゅ、と指先が口に含まれて強く吸われる。びくん、と身体が跳ねてしまって、彼の膝の上でうずくまるように縮こまる。今、口を開いたら、変な声が出てしまいそうで、手で覆う。頭上で、くすり、と笑った気配がして、ちらり、と上目で伺うと、瞳を潤ませて、つやめく唇を緩ませた彼が僕を一心に見つめていた。 「聖」 「ん…っ」  しっとりと耳元で名前を囁かれると、妙に内腿がぴくぴく、と反応していた恥ずかしさにさらに顔が熱くなる。 (好きだよ…)  意を決して、僕は彼の顔を震える指先で引き寄せて、首筋に小さく、強く吸い付いた。うっすらと淡く色づいたキスマークに僕は少しだけ優越感を覚えた。 (このアルファは、僕のものなんだ…)  たとえ、今だけだとしても。  これがつまらない小さなことだとわかっていても、それでも、僕は、彼が僕のものだということを主張したかった。顔を離すと、彼は瞠目して僕を見ていた。そのリアクションを見て、まずい、と血の気が引いた。嫌われるようなことをしてしまったかもしれない。表情を読むのが怖くて、そのまま彼の首に両手を回して抱き寄せた。 「さく、大好き…大好きだよ…」  恥ずかしいけれど、求められていた言葉を絞り出す。 (嫌いにならないで…、また会いに来て…)  目を固くつむり、強く願いながら、さらに力をこめて抱き着いた。 「聖…」  彼の低い声に、温度がわからなくて、身が硬くなってしまう。彼の大きな手のひらが後頭部に宛がわれて、長い指先が髪の毛を割って、地肌をなぞる。ぞぞ、とそこから全身が痺れるように熱を持つ。 「あっ!」  ぢゅ、と骨から直接響くように、脳が揺れる。何度も彼が吸い付いて、耳裏の薄い皮膚が、じりじり、と火傷のようにうずいた。 「さくぅ、あっ…、んう…」  今度は、着ていた薄手のパジャマの襟を引っ張られて、さらけ出された鎖骨の辺りに、彼がかがんで唇で吸い付いた。きゅう、と歯が当たるような鋭い痛みがあって、彼のシャツを強く握りしめる。痛いはずなのに、身体はぴくん、ぴくん、と悦に浸っているようだった。ざら、と舌の表面で味わうように舐め上げられると、もうすべてを明け渡したくなる。涙が零れて、彼を見下ろすと、月明かりが真っ赤な舌を艶めかしく映し出す。  僕の瞳とぶつかると、彼はとろり、と赤く染めた頬を緩めて、自らのシャツのボタンを一つ外した。 「聖も、もっとつけろ…」  自身の襟を引っ張って、跳ねばった美しい鎖骨を惜しげもなく僕にさらした。久しぶりに見る、いつも衣類で隠されていた彼の身体の一部に、心臓が大きく跳ねて、耳鳴りがしそうなくらいに心音を速めた。 「ご、ごめ…嫌、だったよね…」  ほら、としつこく迫ってくるため、きっと嫌なことをした仕返しの嫌味だろうと思い、急いで謝る。  考えてみればそれはそうだ。こんな痕をつけて帰ったら、他の人に嫌な顔をされるのは当たり前だ。子ども騙しの所有印のようなキスマークだが、それは明らかに誰かの香りを残すものだからだ。  僕は、つけられて嬉しい。  彼のものだと主張されているようで、街行く人全員に見せつけてやりたいという乱暴な発想にさえなってしまう。しかし、彼は違う。  僕は、彼だけのものだけれど、彼は、僕だけのものではない。  思えば思うほど、今度は頭は冷えていって、涙が溢れた。先ほどまでに、熱い涙ではなく、冷え切った涙だった。 「…聖?」  彼の戸惑った声色に、は、と顔をあげると、眉根を寄せて僕を見下ろしていた。せっかくいいムードだったのに、僕が壊してしまったと思うと、さらに頭は冷えていき、嫌われないように取り繕わないと、と必死に頭を回す。  急いで身体を起して、彼の膝の上に跨る。内腿に、彼の硬い太腿が擦りあわされて、むず、と恥ずかしくなるが、彼の端正な輪郭を両手で包み、唇に吸い付いた。 「こ、こっちの方が、良かった…よね?」  悩みながら、横に首を倒すと、ちり、と彼の瞳の奥で何かが小さく弾けて、強い力で引き寄せられて唇がふさがれる。大きな舌が、唇をべろり、と舐めて、惜しみなく、とろり、と唾液を零す。食い尽くすように、情熱的なキスを受けていると、安堵が胸に広がる。 (良かった…間違えなかったみたい…) 「聖っ…!」 「あ、ぅんん…んっ…」  れろり、と舌が口内を回って、顔の角度が変えられる。僕も密着するように、彼に擦りよってその体温に揺蕩う。 (ずっと、こうしていたい…)  彼は僕だけを見て、僕も彼の体温だけを感じられる。  そういう世界で、僕は生きていたいし、死ぬならここが良い。  つ、と眦が細く涙が伝い落ちる。  唇が離れて、二人で笑い合うと、話をした。話をしていて、ふと目が合うと、また長々と口づけをして、愛を囁き合った。  その会話の中で、彼は、僕からの電話がとても嬉しかったこと。それなのに取れなかったことへの懺悔。知らない女が出て驚いたであろうことを謝罪してくれた。あれから連絡がつかなくなって、残り三週間で追うはずの仕事をなんとかこなして、今、帰国に結び付けてくれたということ。 「聖に会いたかったから」  なぜかと聞くと、彼は惜しみなく僕に微笑みかけて、そうつぶやいた。その笑みが、あまりにも美しくて、ぽう、と見惚れていると、簡単に唇を吸われてしまって、何度も何度もキスをした。  たとえ、彼のオメガの一人へのリップサービスでも構わない。そう思えるほど、僕は彼が一番大切だった。 「聖」  ちゅ、と小さく彼の唇に吸い付くと、彼が同じようにキスをして顔を離す。しっとりと名前を呼ばれると、だらしなく顔が緩んで、首をかしげて答える。 「なに?」 「なぜ連絡をくれなかった?」  長い指が、するすると僕の頬を撫でる。なんと答えるか悩んで固まると、かわいい顔をしてもダメだと、眉間に唇が寄せられた。 「ちょっと、体調が、悪くて…」  嘘ではない。本当にそうだった。  ただ彼は納得できないようで、片眉をあげて皺を寄せた。 「まさか、他の男か?」 「ち、ちがっ!」  瞬時に反応したのに、そのせいか、彼は余計に顔を歪ませた。先ほどまでの優しかった指先は、力強く肩を掴んだ。 「は? 浮気?」  甘かった彼のフェロモンが明らかに威圧のものに代わり、ぞわり、と背中を虫がたどるかのような嫌悪が溢れる。 「ち、ちが…いっ!」 「許さねえから…」  ぎり、と爪先が強く肩に食い込んで、痛みに顔をしかめるも、彼は目を見開いて僕を見下ろした。 「聖は俺だけのものだ…絶対に許さない」  冷たく深い眼が僕を射抜く。ぶるぶると身体は恐怖に震えるのに、心はどんどん冷めていってしまった。 (自分は、僕だけのものじゃないくせに…)  心の中で悪態をついてしまい、自分が嫌になった。 (それでもいいって、自分で決めたじゃないか) 「んうっ!」  視線を通した僕に彼は深い口づけをしてくる。ぐいぐいと大きい舌が僕の口内に、彼の甘い唾液を押し込んでくる。こくり、と飲み落とすと、意識が焼き切れるように熱く、陶酔していく。身体の中に、彼が沁み渡っていくのを細胞が喜んでいるかのように、身体のあちこちがぴくりぴくり、と反応してしまう。僕の頭をすっぽりと覆ってしまう両手が、耳を塞ぐから、口内の水音がいやらしく反芻して響く。目の前には、静かに炎を燃やす瞳の彼がいて、彼から与えられる音と自分の荒い呼吸音があって、彼の熱い体温と、甘い匂いしかない。 (ずっと、この世界ならいいのに…)  僕の世界にも、彼の世界にも、お互いしか存在しなければいいのに。  しかし、そんな願いも叶わない。  彼からの執拗な口づけに、上手に呼吸が出来なくて、生理的な涙が頬を伝うと、ようやく彼は何度か唇に甘く吸い付いてから、僕を解放してくれた。  潤んだ瞳で、僕をじ、と彼は見つめていた。頬を撫でる指が、寂しさを埋めるように甘えている仕草なような気がして、心地よさが生まれる。そ、と僕も彼の輪郭に指を這わせて、思いを込めて撫でる。 (会いたかったよ…)  ゆったりと長い睫毛が降ろされて、深い青が朝焼けの水面のように輝き現れる。 (僕には、さくだけ…)  ずっと彼に吸われ、舐められた唇が、じぃん、と鈍く疼いた。それすらも、嬉しく感じてしまう。 (好き…)  大好き。  僕だけを、見てよ。  目元を撫で、首を伸ばして彼の下唇を吸い寄せた。

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