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第76話

「え?」  冷たい手から視線を上げている間に彼がつぶやいた。瞠目して、固まった笑顔で彼を見上げた。彼は、今にも泣きだしそうに顔を歪めて、僕を見下ろしていた。 「これ以上、聖を苦しめたくない」  椅子を回転させて、僕に向き合うと身をかがめて、僕の両手を大きなその手ですっぷりと包み込んだ。やっぱり、指先は冷え切っていて、いつもの温かい彼の手でないことにも驚く。しかし、その冷たさが、今が現実なのだと顕著にさせていると感じた。 「なんで…?」 「自然に任せよう。聖だけが苦しむ必要ないんだ」  やめよう、と彼は僕に何度も声をかけた。けれど、耳鳴りが低くして、何も聞こえなくなる。引きつった顔のまま、俯いて、動かない頭で彼の言っていることを処理するよう努める。しかし、気持ちも頭も、身体も上手に整えることが出来なかった。 「聖がつらかったら止めるつもりだった、だから」 「さくは」  何か彼が話している途中だったけれど、僕はそれを遮って、顔をゆっくりと上げた。彼は、じ、と僕を静かに見つめていて、言葉を待ってくれた。うまく言葉が選べなくて、何度か口を開けては閉じてを繰り返して、か細く情けない声が僕から零れた。 「僕が、オメガじゃなくてもいいの…?」  彼が瞠目して、蛍光灯が、きらり、と青い瞳に反射してから、躊躇なく答えた。 「当たり前だ」  その瞬間、すべての僕の努力が、ガラスの破片に代わり、崩れ落ちていくような音がした。その無数の破片は、丸裸の僕にすべて突き刺さった。 「聖が、オメガだろうとベータだろうと、俺には関係ない」  聖が聖であることが大切なんだ。  彼はまっすぐに僕を見つめて、心のままに伝えてくれた。けれど、僕はそれを受け止めることが出来なかった。 「どうして、そんなこと言うの…」 「聖…?」  どんなに苦しくても、ごはんが食べられなくても、母親を泣かせても、それでも今日まで頑張ってこれたのは。 (さくの一番になりたかったからなのに)  ばらばらと涙が止めどなく溢れ、零れていく。後ろで扉が閉まる音がしたが、気にしている余裕は僕にはなかった。 「さくは、僕が一番じゃないから?」  言ってはいけない。我慢しなきゃ。  ずっと思っていた言葉なのに、涙と一緒に、勝手にこぼれてしまった。言ってしまってから後悔する。けれど、一度言葉にしたものは取り返すことができない。 「何、言ってんだ…俺には、聖しかいない…」  かさついた唇で、絞り出すような声が聞こえる。僕を握りしめていた手から力が抜けていく。 「一番なら、番になりたいって思うはずだよ…」  だって、さくは、アルファなんだから。  完全で完璧なアルファなんだから。 「僕を、オメガを、番として自分のものにしたいって思うはずだよ」 「違う、一番だから、力でねじ伏せたくない」  彼の顔がどんどん歪んでいく。ひどいことを言っている。彼を、傷つけている。  わかっているけれど、止められなかった。 「僕はそれでもいい…! それでもいいから、さくのものだっていう安心がほしい…っ!」  今度は僕が手に力をこめる。だらりと下がった彼の腕に必死にしがみつく。 「僕を番にしてよっ…、そうしたら、さくは僕のもとからいなくならないでしょ?」  ねえ! と彼に叫ぶ。求めれば求めるほど、指の間から零れる砂のように、彼の心が遠ざかっているようだった。どんどん顔色を失くし、茫然と僕を見下ろしていた。 「俺は、どこにも行かない…俺には、聖だけだから…」 「そんなわけないっ!」  ヒステリックに出された金切り声に、は、と意識を取り戻して、顔をあげると、彼は眉を寄せ、下げて、僕に、どうして?と問いかけた。急いで手をほどいて、距離を取る。涙を拭って、気持ちを落ち着かせようとするけれど、彼は、再び、僕に同じ質問をした。じ、と僕の答えを待っている。  これを言ったらダメだとわかっているのに、涙は止まらない。気持ちも雪崩のように止められない。静かな夜の海の瞳が僕を映している。 「さくと僕は…、あまりにも違いすぎるから」  完全で完璧なアルファと未完全の得体の知れないオメガの僕。  いつだって、人だかりの中心にいる彼と、陰日向でうずくまる僕。  誰もが愛を注ぐ彼と、嫌われ続ける僕。  なんだって上手にできる彼と、自分の健康管理すらできない僕。  その彼の隣にいるために、オメガになりたかった。どんなに苦しくても、夜眠れなくても、痛くても、我慢した。彼の隣にいるために。彼に、愛してもらうために。 「聖は…」  細い声が聞こえる。顔をあげると、彼は微笑んでいた。顔に皺を寄せて、苦し気に、何かに諦めるかのように。 「俺がベータでも、愛してくれたか?」  泣いているのかと思った。けれど、彼は頬を緩めて、眉を寄せて、目は潤んでもいなかった。 (当たり前だよ…)  しかし、ベータである彼を、僕は一つも想像できなかった。  そのことに戸惑っていると、彼は、はは、と乾いた笑い声をあげた。 「俺は、いつだって聖と対等にありたかった…聖の自慢の男でいたい。聖に恥じない男になりたい。そう思って、どんなことも頑張れた…」  でも、それは無意味だったんだな。 「さ、く…」  彼がそんなことを思っていたなんて、考えもしなかった。  絶対的上位種だと一目でわかる彼が、そんな風に思い、考え、僕への思いを現してくれていただなんて。成り損ないのオメガの僕なんかのために。 「一番認めてもらいたい人に…たった一人の、愛した人に認めてもらえない…」  視線を落した彼は、独り言のように小さくつぶやいた。けれど、僕の耳はちゃんと、彼の言葉を拾うことができた。 (ごめん…) 「さく…」  慰めたくて、謝りたくて、手を差し伸べる。顔を起した彼は、笑顔のまま姿勢を正して僕と距離を取った。 「俺に力が足りないんだ。だから、聖をいつまでも不安にさせてしまう」  ごめん。  謝ったのは、彼だった。 (違う、僕がいけないんだ…)  首を横に振るが、彼は小さく微笑んだ。 「俺はいつだって、聖に甘えていた。だから、聖が俺を拒絶してしまうのは当たり前のことなんだ」  違う。違う、違う。  僕は、さくを拒絶なんかしてない。  いつだって、甘やかしているのは、さくの方だ。  オメガの治療を始める時だって、さくは反対していた。無理するなと。そのままでいいのだと。けれど、僕が不安でたまらなくて、さくとちゃんと向き合うことも話し合うことも避けて、アルファとオメガの呪いに頼るしかないと決めつけていた。  それを彼は、ちゃんとわかっていた。  だから、オメガでない僕も、オメガの僕も、なんであろうと愛そうとしてくれていた。 「さ、く…ごめ、…」 「俺たち、距離を置こう」  ざあ、と全身から血の気が引いていく音が耳の奥で聞こえた。

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